大切な人を傷つける、温かい春景色

 本棚の影に隠れた図書室のいちばんすみっこの、目立たない席を目指して本棚と本棚のあいだを抜けていく。そこには、他の机が所狭しと並ぶスペースとは違い、四人掛けのテーブルが一つだけぽつんと置いてあるのだ。
 誰かに取られる前に、と早歩きでそこに向かうと、先客がいた。
 人影が見えたとき、軽く世界が終わるのかというほど絶望した。でも、そこにいる人を見て、一気に世界は希望に満ち溢れた輝かしいものに変わった。
 あの人が、そこにいる。ずっと会いたかったあの人が、今、目の前で机に向かっている。
「どうしよ……」
 小さくつぶやいたはずなのに、彼はこちらを振り返った。
 ……あ、あのときと同じ顔。
 同じ人だから当たり前なんだろうけど、私の視界に映るその人は、初めて見たあの日のまま、太陽のように輝いていた。
「ここ、一緒に使いますか?」
 やばいやばいやばいやばい。声かけられた。
「なっ、な、なんで、……?」
「勉強するのかなって。ちがった?」
「ちがくないですっ! 勉強します!」
 一歩も動かずに宣言すると、向かいの席を指さしてくれている。
「いっ……いいんですか?」
 うわ、うわうわ、声裏返った、最悪。
 恐る恐る顔を上げると、彼はぷっと吹き出してくすくす笑った。
「ごめんごめん。笑っちゃった」
 そう言いながら、向かいの席をどうぞと指差してくれる。
「失礼します……」
 緊張しながら正面に腰かける。
「邪魔じゃないですか……?」
「んー? 別にだよ。一人増えたくらいは全然」
 そう話す彼の机には、赤本とノート、三色ボールペン。
 もしかして、先輩だった? 受験勉強してるなら、話しかけるのは迷惑だよね。
 私が生物の教科書と罫線ノートを机に広げる。シャーペンを二回ノックして、とりあえずノートに今日の日付を書く。でも、そこから進まない。問題集に書いてある日本語が違う国の言葉みたいに感じる。
 さすがに目の前に人がいるから、うなったりするのは必死に飲み込むけど。鼻から吐き出す息がいつもより長くなる。
 十分、二十分。考えてもわからなくて、やっと教科書を開いた。
 ……まあ、開いてもわかんないんですけどね。
 いつもテストは周りの二倍三倍勉強しないといい点が取れないから、定期テストのときは計画してやるのに、今回は完全に浮かれていて忘れていた。
 目の前にいるこの人のことで頭がいっぱいだったから。
 ちらっと顔の角度は変えずに、視線だけで彼を見る。
 こんなに一気に近づいてしまっていいのかな。会えてものすごくうれしいけど。それは譲れないけど。
 今も、半分はずっと会いたかった好きな人が目の前にいるから集中できていない、というのもあるのかもしれない。でも、その可能性は自分の中から消した。まだここにいたいから。
 とりあえずわかる問題を時間をかけながら解いて、さっき躓いたところに戻ってきた。
「……大丈夫? すごいうなってるけど」
「えっ、うそ、うなってましたか?」
 あんなに迷惑をかけないようにと抑え込んだはずなのに、無意識に漏れていたらしい。
 恥ずかしすぎる。本当に。
「うん。眉間にしわも寄ってるし」
 彼は自分の眉間を指さしながら、そう言った。
「それ、生物だよね。僕、得意だから教えてあげようか」
「でも……」
「いいよ。教える方が覚わるから、僕もありがたいし」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
 本心で言ってくれているのか、親切心で言ってくれているのかの区別はつかなかった。でも声をかけてくれたうれしさは、彼の心がどっちに傾いていても変わらない。
「どこがわかんない?」
「あ、えっと、ここが……」
 躓いたところを指さすと、彼はふんふんと問題文を読んで、いとも簡単に説明してくれた。
「腎臓の中には、ネフロンっていう、血液をろ過して尿を作る働きを持つ構造物があるんだよ。その数なんと片方につき約百万個。だからここは、この部分を読んで――」
 そう、教科書の該当部分を指で示しながら教えてくれる。
「なるほどです! え、すごくわかりやすいです!」
 そう、顔を上げる。お互いが一冊の教科書を覗き込んでいたせいか、すごく近い。
 目が合う。逸らせないほど綺麗な瞳が私を見ている。
 心拍数が跳ね上がる。初めて見たときより、ここでやっと会えた数十分前より、ずっと大きく。
 嗅覚がいつもより敏感になる。彼は、石鹸みたいないい匂いがした。意識して嗅いでいるわけじゃないのに、鼻腔に自然と入って来る。
「あの、迷惑じゃなかったら、ほんとに、迷惑じゃなかったらでいいので、また教えてほしいです」
 言った。よく言ったぞ、私。
 半ば勢いだけど。会えたこの縁をここで切りたくない。
「うん。いいよ。教える相手がいると、僕の勉強にもなるし。ほとんど毎日ここにいるから、いつでもおいで」
 うそ、うそうそうそ。いいよって言ってもらえた。また会える。また、話せる。
「そうだ。君、名前は?」
「あっ、一之瀬桃香です。二年の」
「桃香ちゃんね。僕は本田友貴。三年」
 桃香ちゃん……。え、え? 桃香ちゃん?
 好きな人が、桃香ちゃんって呼んでくれた。名前も、教えてもらっちゃった。
 ずっとずっと知りたかったこと、やっと知れた。
 神様、仏様、ありがとうございます。
 そう心の中で感謝してしまうほど、うれしくて仕方ない。
「あの、本田先輩って、呼んでもいいですか……?」
「うん。好きなように呼んでくれていいからね」
 にこっと微笑んでくれた本田先輩は、今まで見た誰の笑顔よりもあたたかかった。