滴る汗が額から頬へと流れ落ちる、県大会準々決勝のマウンド。
暑さなど全く気にならないほどに、俺は目の前のバッターに集中していた。
二年生ながらエース背番号を背負っている俺は、残りあと一球でこの試合を左右するという場面に立っている。
俺の住んでいる地方の球場で、チームメイトが懸命に応援してくれている。観客席にはベンチ入りできなかったチームメイトを筆頭に、保護者や応援に駆け付けた生徒たちがこちらに向かって応援をしている。
あと一人、あと一人。
懸命な応援は確かに俺の耳に届いている。
カウントはツーストライクスリーボール、三塁にはランナーがおり、点差は一点差でこちらのチームがリードをしている。
いまバーターボックスに立つ打者を打ち取れば俺らの勝利。決勝の舞台に立てる。決勝で勝てば、わが校初となる春の甲子園出場が決まるという大切な試合だ。そんな大人の都合はどうでもよかったが、幼いころから野球に打ち込んできた俺にとっては、甲子園の舞台は絶対に立たなければいけない目標だった。
こんなに熱くなることはかつてあっただろうか。いや、経験したことがない。全身の産毛が逆立っている。普段は試合で緊張などしない俺でも、さすがにドキドキしている。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。同じグラウンドに立つチームメイトも俺に向かって懸命に声掛けをしてくれているだろう。ただ今の俺には一切耳に届かなかった。それほどにまで俺は集中できていたんだ。
しかし、懸念する点があった。
実を言うと試合中盤から肘に違和感を感じていた。昨日まで全く違和感のなかった肘が
徐々にいつものように動かなくなっていった。
ちょうど5回が始まったころだろうか、投球の際に、すこし力んでしまい、肘からピキッとした音が聞こえた。そこからの投球はいつも通りではなかった。
終盤に差し掛かかるにつれ違和感は痛みに代わり、今はもう動かすことさえもままならなかった。
でも、誰にも相談はしなかった。
こんなところで交代なんてしたくないと、必死にこらえた。キャッチャーにも悟られまいと、涼しい顔をして今もマウンドに立っている。幸い、俺の怪我には誰も気づいていないようだが、もう限界は超えていた。あと一球、この一球をしっかり投げて、きちんとアイシングすれば大丈夫だ。明日も投げられる。
痛みをこらえ渾身のストレートをキャッチャーミットめがけて放り込んだ。
しかし、リリースの刹那肘に電撃が走ったかのような痛みが走った。まずいと思った時にはもう遅かった。コースがずれてど真ん中に投げ込んでしまっている。キレもノビもない変哲もないストレートは、バットで見事にとらえられ、カキーンという金属音が球場に響き渡った。
一瞬の静寂のあと、敵のベンチの歓声が聞こえた。振り向かなくてもわかる。
俺の渾身の球はスタンドに運ばれた。
キャッチャーが正面で立ち尽くしている。ウイニングランをするバッターが三塁ベースからホームへ向かうのが、横目に見えた。
バッターがホームベースを踏むと同時に俺は肘を抑えてマウンドにうずくまった。
痛い、痛い・・・。
稲妻が走り続けているような、鋭く激しい痛みが肘に走っている。すでに指先の感覚がなくなっていた。
チームのキャプテンであるショートの桜井先輩がうずくまっている俺に駆け寄ってきて俺の肩をやさしく2度ポンポンと叩いた。泣くなという意味だろうか、違うんだ。俺はいま、味わったことのない痛みで悶えているんだ。それとも、打たれてしまったという現実を受け入れられずここにうずくまっているのか、それはもう俺にもわからなかった。
桜井先輩は、俺のわきに手を入れ、無理やり立たせた。
痛い、痛い・・・。
「だらしないな、はやくたて。ひとまず整列しよう」
俺の脇腹に手を滑り込ませ、ホームベース前まで運んでくれた。俺は引きずられるようにして歩いていた。歩き方すら思い出せないくらい、絶望していた。
相手チームは甲子園常連チームだった。注目度も高い。観客席にはスカウトとかもいたのだろうか。さすがはよく訓練されたチームだな。勝ったくせに笑顔すら見せないのか。
両チームが整列し挨拶を交わすと、俺は再びその場にうずくまった。相手ベンチが盛り上がっているのが耳に届いて、不愉快な気分になるが、肘の痛みが徐々に強くなってきていて、それどころでもなかった。
俺のもとに監督兼顧問の北島先生が駆け寄ってきた。うずくまる俺を無理やり横にさせ、俺の右のインナーをめくりあげる。
あまりに勢いよくめくるものだから、痛みがピキッと走り、顔をゆがめる。
「お前・・・これは」
北島先生は腕をみて絶句している様子だった。それもそのはずだ。まくられた腕を目視すると、痛みに納得できるほどに腫れていて、青紫に変色していた。
たぶん最初はこんなじゃなかったはずだ、違和感が出てからも怖くてインナーをめくらずにいた。初めて見る自分の肘の現状に俺自身が一番驚いてる。
「なぜ黙っていたんだ」
北島先生は、心配というよりも、俺に対して怒っていた。
「・・・投げられるのは俺だけです」
その日はまさに総力戦だった。
投手ができるチームメイトは数人いたが、全員が代走や代打でベンチに下がっており、ルール上交代できない状態。
俺以外にマウンドに立てるやつはもういなかったんだ。それに・・・
俺はエースだ。
譲るわけにはいかないという傲慢さえも出てしまっていた。
「バカもん。お前がこんな状態なら交代させていた。バカもん・・・」
監督は目じりに涙をためてつぶやいた。こんな監督の顔見たことがなかった。まるで息子を見つめるような顔。憐みの目をしていた。
「チームのことを考えろ。すぐに病院に行け。お前のようなわがまま投手はうちにはいらん。もうマウンドに立つな」
監督の一声で全員が動き出した。俺は球場にあった担架で球場の外まで運ばれた。
横には桜井先輩がついていてくれた。
「先輩・・・」
すいませんと言いたかったが、肘の痛みが走り顔がゆがんだ。
「なにしてんだよ」
俺が思っている以上に事態は深刻なのだろうか?監督は二度とマウンドに立つなといっていたな。そんな馬鹿なことがあってたまるか。あのマウンドは俺の場所だ。俺が頑張って、努力して。評価されて、ようやく手に入れた場所なんだ。
痛みがひどいから病院にはいく、だけど俺はまた、
夏にこのマウンドに帰ってくるんだ。
外まで出ると、選手の両親や応援してくれていた生徒たちが集まっていた。
ああ、この人たち全員。俺の失態を見てたんだな。今も俺の子の醜態を見てるんだな。
左手を目の上に置き、何も見ないようにした。
母親が試合観戦に来ていたので、マネージャーが急いで事情を説明したらしく、運ばれてからすぐに母親と一緒に車に乗ることができた。監督にも、チームメイトにも、誰にも挨拶ができないまま、車は発車した。
「あんた、無理しすぎよ」
母親と二人っきりの車内で母親の怒号がとんできた。こっちの気なんて知らないくせにと思い、返事はしなかった。
母親はずっとぐちぐち何かを言っているが、俺は返答することはなかった。
球場から病院までは車で15分ほどでついた。平日の昼間だから、道もすいていたのだろう。ブレーキのたびに揺れる車内で、その都度走る痛みに耐えながらなんとか到着するころができた。
病院に入ると、受付に向かう母親に無言でついて行った。心なしか視線をかなり感じていた。それはそうか、こんな泥だらけのユニフォーム姿、目立つよな。かぶっていた帽子を深くかぶり直し、受付をすませた母親にだまってついていった。
整形外科外来と書かれた看板がぶら下がっている一角。二列に並んだ長椅子に腰を下ろそうとしたが、自分が泥だらけであることに気が付いて、躊躇していると、看護師が様子を見に来てくれた。
「どうぞ遠慮なく座ってください」と優しく声をかけてくれた。
「いえ、汚れてますので、立って待ってます」と頭を横に振ると
「けがの様子を詳しく見たいのですわってください」と強く言われ、母親からも
「言う通りにしなさい」と言われたので、仕方なく腰を下ろした。
俺のインナーをめくりあげると「うわあ」とどよめいていた。
どうやらかなりやばいらしい。
「早めに先生に診てもらえるように外来の順番を繰り上げますね。周りの人には内緒にしてくださいね」と母親に説明した後、
「痛いよね?もう少し我慢してね」と俺に言い残し、すたすたとどこかへ行った。
「肘、動かせるの?」
「いや、痛くて無理だよ」
「指は動かせるの?」
「感覚がない。あとで先生に話すから」
母親が心配してくれてるのはわかるが、俺はそんなに心の余裕がない。先ほどの看護師の顔が俺に不安を掻き立てていた。もしかして俺は・・・野球ができないのかと。
「坂本さん、一番にお入りください」電光掲示板の一番と書かれたところに「坂本様」の文字がピコッと表示されると同時に、一番と書かれた診察室から先ほどの看護師がこちらに向かって声をかけてくれた。
「こんにちは」髪の毛一本もないつるつる頭のおじさん先生。にこやかな顔をしながら、入ってくる俺のことを見ていたが、インナーをまくり上げた腕が見えた瞬間に笑顔が消えた。
「どうしてこうなった?いや、どうしてこうなるまでほっておいた?」先生は語気を強めて聞いてきた。
「野球の試合でピッチングをしています。一回から九回まで投げ切りました。五回の投球で肘に違和感を感じましたが、そのまま投げ切りました。徐々に痛みが増してきましたが交代されるのが嫌だったので最後まで投げ切りました」
先生が語気を強めて言ってきたことに多少いらだちを感じたので、ぼそぼそと相手の相槌は無視して話し続けた。
「ひとまず痛み止めを投与しよう。そのあとレントゲンをとって、状態を見ましょう」
看護師から薬が手渡された。それを口に放り込み水で流し込んだ。
「レントゲン室に案内します。お母さんはこちらでお待ちください」
先ほどまで座っていた長椅子に母親を促し、すたすたと歩き出した。俺は伏し目がちにその看護師の後をだまってついて行った。
レントゲン室に到着すると、すぐに俺の順番が来た。俺より先に待ってた人もいるのにだ。いよいよ自分の肘の状態が怖くて仕方なくなってきた。
痛み止めの影響で痛みはかなりましにはなったが、さっきまで全力で球を投げていたとは思えないほど、大きく腫れあがり、変色していた。
再び一番診察室に呼ばれ、母親と一緒に入ると、医者はかなり深刻な顔をしていた。その顔色を見る限り、俺の嫌な予感は当たってしまうのだろうなと思った。
「残念ながら、全力投球は二度とできないね」
先ほど撮影したレントゲン写真を俺にも見してくれた。どこが悪いのかまるでわからなかった。
「きみの肘の靭帯がこのように断裂してしまっている。靭帯は上腕と前腕をつないでいるんだけど、これが傷つくと関節がおかしくなってしまう。手術で治せるが、完全な修復は不可能だ。もしもう一度断裂なんてことになったら・・・」
「だからもう野球をやめろってことですか?」
医者ならなんとかしてくれ。と言いたかったが、口がうまく動かなかった。医者に罪はない、酷使し続けた俺の責任だ。
「手術は損傷した靭帯を直接縫い合わせる修復術による手術を行います。ただ、縫い合わせているだけだから、君のように野球でピッチングをすれば、すぐに再断裂しかねない。そうなると、肘から下が機能しなくなる可能性すらある。野球は辞めないとだめだ」
もう・・・マウンドに立てない?あれだけ頑張ったのにこんな仕打ちあっていいのか?
いいわけないだろ!
ガッと椅子から立ち上げったが、口からなにも出てこなかった。
「ちょっと廊下に出ているので、母にはなしてください」
そう言い残し診察室を出た。もうなにも聞きたくなかった。
長椅子に座って、設置されているテレビをぼーっと見ているとやがて、母親が診察室から出てきて、俺のもとに小走りで駆け寄ってきた。
「今日はひとまず、薬で痛みを抑えて4日後に手術ができるんだって。いいわね?」
なんの確認なんだよ・・・。するしかないんだろ。
「わかった・・・」
「大丈夫よ。うん、大丈夫」
俺にかける言葉が見つからないのだろう。それはそうだ。俺の頑張りを一番理解しているのは母親だったと思う。
壊れたんだ・・・。俺が傲慢だったからか?これまで必死に練習して、甲子園を目指して頑張ってきたのに、これまでのことは全部無駄だったのか・・・。
再度母親と一緒に診察室へ入った。手術の詳しい話と承諾を得るためだそうだ。
「君にとっては本当に酷な話だろう。だが、このまま放置することはできない。手術さえ成功すれば、普通の生活はできるようになる。激しくなければ運動もできるだろう」
「わかりました。お任せします」
もう、先生の顔も看護師の顔も見ることができなかった。多分憐れんだ目をしていることだろう。
一通りの説明を受け、その場で手術の同意書にサインをした。
帰宅するころにはもう日が落ちていた。母親の運転する車の中で、監督やチームメイトに連絡を入れておきなさいといわれ、半日ぶりにスマホを見てみると、チームメイトたちの励ましのメッセージがたくさん送られてきていた。
「待ってるぞ」桜井先輩からのメッセージを見て、スマホをカバンの中にしまい込んだ。
「みんな心配してるだろうから、連絡入れておきなさい」と母親は運転しながら言ってきたが、俺自身が受け止めきれてない事実をとても説明する気にはなれなかった。
「お母さんから監督にれんらくしてくれないか?」
「え?自分で言いなさいよ」
「わかるだろ?こんなこと自分の口で言いたくない」言えば、野球ができなくなってしまった事実を飲み込んでしまう気がした。いや、飲み込むしかないのはわかっているが、自分の口からは言いたくなかった。もちろんみんなにも連絡をしない。
きっと監督からみんな聞くことになるだろう。それで十分だ。
こんな状態になるまで投げていたんだ。それはある種美談ではあるが、逆に言えば、決勝進出が決まる試合でケガを隠して迷惑をかけたという醜話にもなりかねなかったし、みんなにメッセージを送ったとしても、送られてきたみんなが困るだろうと思った。俺は今哀れだからだ。同乗の目で見られるのも、メッセージを送られてくるのも嫌だった。怖かった。
けがをしてから四日後、予定通り手術は行われた。術後はしばらく入院をして、経過観察をするそうで、俺は今入院病棟のベットに腰を下ろしていた。隣のベットに寝転ぶおじいちゃんがテレビをつけていたので、嫌でも音声が耳に届いていた。
あの日戦ったチームは決勝でも勝利を収め、甲子園出場を決めたのだそうだ。
そして、そのチームの甲子園初戦が奇しくも今日の正午からあるらしい。
もしかしたら自分たちが立っていたかもしれない舞台。
野球のできなくなった俺には、敗北者である俺には、なんの興味もそそられることはなかった。
一通りの説明を受けておれはそのまま手術室へ運ばれていった。
ああ・・・。もう本当に投げれないんだな。
目から涙があふれ出てきた。傍らには俺の左手を強くぎゅっと握った母親の姿があった
お母さん・・ごめん・・・
目が覚めると、先ほど腰かけていたベッドに今度は横たわっていた。ベットの横には小さな椅子が設置されており、そこに母親の姿があった。
「おはよう。手術終わったわよ」
母親の目は心なしか少し赤くなっていた。泣いていたのかな・・。
「おはよう」
「あとで先生来てくれるから、詳しいことはその時に聞きなさい。荷物はここにまとめてあるからね」
術後四日間の入院生活。着替えぐらいしか入ってないかばんをベットわきに置き、ため息をついた。
「失敗したらどうしようかとおもったわ。うまくいってよかった。これからしばらくはリハビリ生活ね」
無理やりにも明るい雰囲気を作ろうとしているのが見て取れた。母親の優しさに甘えたいと思う一方で、ほんとに終わってしまったんだと絶望する気持ちが上回っていて、とても明るい気持ちにはなれなかった。
ベットの周りをかこっていたカーテンがシャーという音をたてて開かれた。
「調子はどうだい?」
先生が看護師とともにやってきた。
「はい、大丈夫です」
確かにうでは痛くはなかった。リハビリが必要程度には違和感は感じていたが、母親の言う通り手術は成功したのだろう。肘は大丈夫。肘はね・・・。
その後先生から入院中に行われるリハビリの内容や、今後の生活で気を付けることなど一折説明された。もちろんピッチングは念を押して禁止令が出された。看護師からも入院中の事を説明され、聞くだけで疲れてしまった俺は、説明が終わるとすぐに眠りについてしまった。
暑さなど全く気にならないほどに、俺は目の前のバッターに集中していた。
二年生ながらエース背番号を背負っている俺は、残りあと一球でこの試合を左右するという場面に立っている。
俺の住んでいる地方の球場で、チームメイトが懸命に応援してくれている。観客席にはベンチ入りできなかったチームメイトを筆頭に、保護者や応援に駆け付けた生徒たちがこちらに向かって応援をしている。
あと一人、あと一人。
懸命な応援は確かに俺の耳に届いている。
カウントはツーストライクスリーボール、三塁にはランナーがおり、点差は一点差でこちらのチームがリードをしている。
いまバーターボックスに立つ打者を打ち取れば俺らの勝利。決勝の舞台に立てる。決勝で勝てば、わが校初となる春の甲子園出場が決まるという大切な試合だ。そんな大人の都合はどうでもよかったが、幼いころから野球に打ち込んできた俺にとっては、甲子園の舞台は絶対に立たなければいけない目標だった。
こんなに熱くなることはかつてあっただろうか。いや、経験したことがない。全身の産毛が逆立っている。普段は試合で緊張などしない俺でも、さすがにドキドキしている。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。同じグラウンドに立つチームメイトも俺に向かって懸命に声掛けをしてくれているだろう。ただ今の俺には一切耳に届かなかった。それほどにまで俺は集中できていたんだ。
しかし、懸念する点があった。
実を言うと試合中盤から肘に違和感を感じていた。昨日まで全く違和感のなかった肘が
徐々にいつものように動かなくなっていった。
ちょうど5回が始まったころだろうか、投球の際に、すこし力んでしまい、肘からピキッとした音が聞こえた。そこからの投球はいつも通りではなかった。
終盤に差し掛かかるにつれ違和感は痛みに代わり、今はもう動かすことさえもままならなかった。
でも、誰にも相談はしなかった。
こんなところで交代なんてしたくないと、必死にこらえた。キャッチャーにも悟られまいと、涼しい顔をして今もマウンドに立っている。幸い、俺の怪我には誰も気づいていないようだが、もう限界は超えていた。あと一球、この一球をしっかり投げて、きちんとアイシングすれば大丈夫だ。明日も投げられる。
痛みをこらえ渾身のストレートをキャッチャーミットめがけて放り込んだ。
しかし、リリースの刹那肘に電撃が走ったかのような痛みが走った。まずいと思った時にはもう遅かった。コースがずれてど真ん中に投げ込んでしまっている。キレもノビもない変哲もないストレートは、バットで見事にとらえられ、カキーンという金属音が球場に響き渡った。
一瞬の静寂のあと、敵のベンチの歓声が聞こえた。振り向かなくてもわかる。
俺の渾身の球はスタンドに運ばれた。
キャッチャーが正面で立ち尽くしている。ウイニングランをするバッターが三塁ベースからホームへ向かうのが、横目に見えた。
バッターがホームベースを踏むと同時に俺は肘を抑えてマウンドにうずくまった。
痛い、痛い・・・。
稲妻が走り続けているような、鋭く激しい痛みが肘に走っている。すでに指先の感覚がなくなっていた。
チームのキャプテンであるショートの桜井先輩がうずくまっている俺に駆け寄ってきて俺の肩をやさしく2度ポンポンと叩いた。泣くなという意味だろうか、違うんだ。俺はいま、味わったことのない痛みで悶えているんだ。それとも、打たれてしまったという現実を受け入れられずここにうずくまっているのか、それはもう俺にもわからなかった。
桜井先輩は、俺のわきに手を入れ、無理やり立たせた。
痛い、痛い・・・。
「だらしないな、はやくたて。ひとまず整列しよう」
俺の脇腹に手を滑り込ませ、ホームベース前まで運んでくれた。俺は引きずられるようにして歩いていた。歩き方すら思い出せないくらい、絶望していた。
相手チームは甲子園常連チームだった。注目度も高い。観客席にはスカウトとかもいたのだろうか。さすがはよく訓練されたチームだな。勝ったくせに笑顔すら見せないのか。
両チームが整列し挨拶を交わすと、俺は再びその場にうずくまった。相手ベンチが盛り上がっているのが耳に届いて、不愉快な気分になるが、肘の痛みが徐々に強くなってきていて、それどころでもなかった。
俺のもとに監督兼顧問の北島先生が駆け寄ってきた。うずくまる俺を無理やり横にさせ、俺の右のインナーをめくりあげる。
あまりに勢いよくめくるものだから、痛みがピキッと走り、顔をゆがめる。
「お前・・・これは」
北島先生は腕をみて絶句している様子だった。それもそのはずだ。まくられた腕を目視すると、痛みに納得できるほどに腫れていて、青紫に変色していた。
たぶん最初はこんなじゃなかったはずだ、違和感が出てからも怖くてインナーをめくらずにいた。初めて見る自分の肘の現状に俺自身が一番驚いてる。
「なぜ黙っていたんだ」
北島先生は、心配というよりも、俺に対して怒っていた。
「・・・投げられるのは俺だけです」
その日はまさに総力戦だった。
投手ができるチームメイトは数人いたが、全員が代走や代打でベンチに下がっており、ルール上交代できない状態。
俺以外にマウンドに立てるやつはもういなかったんだ。それに・・・
俺はエースだ。
譲るわけにはいかないという傲慢さえも出てしまっていた。
「バカもん。お前がこんな状態なら交代させていた。バカもん・・・」
監督は目じりに涙をためてつぶやいた。こんな監督の顔見たことがなかった。まるで息子を見つめるような顔。憐みの目をしていた。
「チームのことを考えろ。すぐに病院に行け。お前のようなわがまま投手はうちにはいらん。もうマウンドに立つな」
監督の一声で全員が動き出した。俺は球場にあった担架で球場の外まで運ばれた。
横には桜井先輩がついていてくれた。
「先輩・・・」
すいませんと言いたかったが、肘の痛みが走り顔がゆがんだ。
「なにしてんだよ」
俺が思っている以上に事態は深刻なのだろうか?監督は二度とマウンドに立つなといっていたな。そんな馬鹿なことがあってたまるか。あのマウンドは俺の場所だ。俺が頑張って、努力して。評価されて、ようやく手に入れた場所なんだ。
痛みがひどいから病院にはいく、だけど俺はまた、
夏にこのマウンドに帰ってくるんだ。
外まで出ると、選手の両親や応援してくれていた生徒たちが集まっていた。
ああ、この人たち全員。俺の失態を見てたんだな。今も俺の子の醜態を見てるんだな。
左手を目の上に置き、何も見ないようにした。
母親が試合観戦に来ていたので、マネージャーが急いで事情を説明したらしく、運ばれてからすぐに母親と一緒に車に乗ることができた。監督にも、チームメイトにも、誰にも挨拶ができないまま、車は発車した。
「あんた、無理しすぎよ」
母親と二人っきりの車内で母親の怒号がとんできた。こっちの気なんて知らないくせにと思い、返事はしなかった。
母親はずっとぐちぐち何かを言っているが、俺は返答することはなかった。
球場から病院までは車で15分ほどでついた。平日の昼間だから、道もすいていたのだろう。ブレーキのたびに揺れる車内で、その都度走る痛みに耐えながらなんとか到着するころができた。
病院に入ると、受付に向かう母親に無言でついて行った。心なしか視線をかなり感じていた。それはそうか、こんな泥だらけのユニフォーム姿、目立つよな。かぶっていた帽子を深くかぶり直し、受付をすませた母親にだまってついていった。
整形外科外来と書かれた看板がぶら下がっている一角。二列に並んだ長椅子に腰を下ろそうとしたが、自分が泥だらけであることに気が付いて、躊躇していると、看護師が様子を見に来てくれた。
「どうぞ遠慮なく座ってください」と優しく声をかけてくれた。
「いえ、汚れてますので、立って待ってます」と頭を横に振ると
「けがの様子を詳しく見たいのですわってください」と強く言われ、母親からも
「言う通りにしなさい」と言われたので、仕方なく腰を下ろした。
俺のインナーをめくりあげると「うわあ」とどよめいていた。
どうやらかなりやばいらしい。
「早めに先生に診てもらえるように外来の順番を繰り上げますね。周りの人には内緒にしてくださいね」と母親に説明した後、
「痛いよね?もう少し我慢してね」と俺に言い残し、すたすたとどこかへ行った。
「肘、動かせるの?」
「いや、痛くて無理だよ」
「指は動かせるの?」
「感覚がない。あとで先生に話すから」
母親が心配してくれてるのはわかるが、俺はそんなに心の余裕がない。先ほどの看護師の顔が俺に不安を掻き立てていた。もしかして俺は・・・野球ができないのかと。
「坂本さん、一番にお入りください」電光掲示板の一番と書かれたところに「坂本様」の文字がピコッと表示されると同時に、一番と書かれた診察室から先ほどの看護師がこちらに向かって声をかけてくれた。
「こんにちは」髪の毛一本もないつるつる頭のおじさん先生。にこやかな顔をしながら、入ってくる俺のことを見ていたが、インナーをまくり上げた腕が見えた瞬間に笑顔が消えた。
「どうしてこうなった?いや、どうしてこうなるまでほっておいた?」先生は語気を強めて聞いてきた。
「野球の試合でピッチングをしています。一回から九回まで投げ切りました。五回の投球で肘に違和感を感じましたが、そのまま投げ切りました。徐々に痛みが増してきましたが交代されるのが嫌だったので最後まで投げ切りました」
先生が語気を強めて言ってきたことに多少いらだちを感じたので、ぼそぼそと相手の相槌は無視して話し続けた。
「ひとまず痛み止めを投与しよう。そのあとレントゲンをとって、状態を見ましょう」
看護師から薬が手渡された。それを口に放り込み水で流し込んだ。
「レントゲン室に案内します。お母さんはこちらでお待ちください」
先ほどまで座っていた長椅子に母親を促し、すたすたと歩き出した。俺は伏し目がちにその看護師の後をだまってついて行った。
レントゲン室に到着すると、すぐに俺の順番が来た。俺より先に待ってた人もいるのにだ。いよいよ自分の肘の状態が怖くて仕方なくなってきた。
痛み止めの影響で痛みはかなりましにはなったが、さっきまで全力で球を投げていたとは思えないほど、大きく腫れあがり、変色していた。
再び一番診察室に呼ばれ、母親と一緒に入ると、医者はかなり深刻な顔をしていた。その顔色を見る限り、俺の嫌な予感は当たってしまうのだろうなと思った。
「残念ながら、全力投球は二度とできないね」
先ほど撮影したレントゲン写真を俺にも見してくれた。どこが悪いのかまるでわからなかった。
「きみの肘の靭帯がこのように断裂してしまっている。靭帯は上腕と前腕をつないでいるんだけど、これが傷つくと関節がおかしくなってしまう。手術で治せるが、完全な修復は不可能だ。もしもう一度断裂なんてことになったら・・・」
「だからもう野球をやめろってことですか?」
医者ならなんとかしてくれ。と言いたかったが、口がうまく動かなかった。医者に罪はない、酷使し続けた俺の責任だ。
「手術は損傷した靭帯を直接縫い合わせる修復術による手術を行います。ただ、縫い合わせているだけだから、君のように野球でピッチングをすれば、すぐに再断裂しかねない。そうなると、肘から下が機能しなくなる可能性すらある。野球は辞めないとだめだ」
もう・・・マウンドに立てない?あれだけ頑張ったのにこんな仕打ちあっていいのか?
いいわけないだろ!
ガッと椅子から立ち上げったが、口からなにも出てこなかった。
「ちょっと廊下に出ているので、母にはなしてください」
そう言い残し診察室を出た。もうなにも聞きたくなかった。
長椅子に座って、設置されているテレビをぼーっと見ているとやがて、母親が診察室から出てきて、俺のもとに小走りで駆け寄ってきた。
「今日はひとまず、薬で痛みを抑えて4日後に手術ができるんだって。いいわね?」
なんの確認なんだよ・・・。するしかないんだろ。
「わかった・・・」
「大丈夫よ。うん、大丈夫」
俺にかける言葉が見つからないのだろう。それはそうだ。俺の頑張りを一番理解しているのは母親だったと思う。
壊れたんだ・・・。俺が傲慢だったからか?これまで必死に練習して、甲子園を目指して頑張ってきたのに、これまでのことは全部無駄だったのか・・・。
再度母親と一緒に診察室へ入った。手術の詳しい話と承諾を得るためだそうだ。
「君にとっては本当に酷な話だろう。だが、このまま放置することはできない。手術さえ成功すれば、普通の生活はできるようになる。激しくなければ運動もできるだろう」
「わかりました。お任せします」
もう、先生の顔も看護師の顔も見ることができなかった。多分憐れんだ目をしていることだろう。
一通りの説明を受け、その場で手術の同意書にサインをした。
帰宅するころにはもう日が落ちていた。母親の運転する車の中で、監督やチームメイトに連絡を入れておきなさいといわれ、半日ぶりにスマホを見てみると、チームメイトたちの励ましのメッセージがたくさん送られてきていた。
「待ってるぞ」桜井先輩からのメッセージを見て、スマホをカバンの中にしまい込んだ。
「みんな心配してるだろうから、連絡入れておきなさい」と母親は運転しながら言ってきたが、俺自身が受け止めきれてない事実をとても説明する気にはなれなかった。
「お母さんから監督にれんらくしてくれないか?」
「え?自分で言いなさいよ」
「わかるだろ?こんなこと自分の口で言いたくない」言えば、野球ができなくなってしまった事実を飲み込んでしまう気がした。いや、飲み込むしかないのはわかっているが、自分の口からは言いたくなかった。もちろんみんなにも連絡をしない。
きっと監督からみんな聞くことになるだろう。それで十分だ。
こんな状態になるまで投げていたんだ。それはある種美談ではあるが、逆に言えば、決勝進出が決まる試合でケガを隠して迷惑をかけたという醜話にもなりかねなかったし、みんなにメッセージを送ったとしても、送られてきたみんなが困るだろうと思った。俺は今哀れだからだ。同乗の目で見られるのも、メッセージを送られてくるのも嫌だった。怖かった。
けがをしてから四日後、予定通り手術は行われた。術後はしばらく入院をして、経過観察をするそうで、俺は今入院病棟のベットに腰を下ろしていた。隣のベットに寝転ぶおじいちゃんがテレビをつけていたので、嫌でも音声が耳に届いていた。
あの日戦ったチームは決勝でも勝利を収め、甲子園出場を決めたのだそうだ。
そして、そのチームの甲子園初戦が奇しくも今日の正午からあるらしい。
もしかしたら自分たちが立っていたかもしれない舞台。
野球のできなくなった俺には、敗北者である俺には、なんの興味もそそられることはなかった。
一通りの説明を受けておれはそのまま手術室へ運ばれていった。
ああ・・・。もう本当に投げれないんだな。
目から涙があふれ出てきた。傍らには俺の左手を強くぎゅっと握った母親の姿があった
お母さん・・ごめん・・・
目が覚めると、先ほど腰かけていたベッドに今度は横たわっていた。ベットの横には小さな椅子が設置されており、そこに母親の姿があった。
「おはよう。手術終わったわよ」
母親の目は心なしか少し赤くなっていた。泣いていたのかな・・。
「おはよう」
「あとで先生来てくれるから、詳しいことはその時に聞きなさい。荷物はここにまとめてあるからね」
術後四日間の入院生活。着替えぐらいしか入ってないかばんをベットわきに置き、ため息をついた。
「失敗したらどうしようかとおもったわ。うまくいってよかった。これからしばらくはリハビリ生活ね」
無理やりにも明るい雰囲気を作ろうとしているのが見て取れた。母親の優しさに甘えたいと思う一方で、ほんとに終わってしまったんだと絶望する気持ちが上回っていて、とても明るい気持ちにはなれなかった。
ベットの周りをかこっていたカーテンがシャーという音をたてて開かれた。
「調子はどうだい?」
先生が看護師とともにやってきた。
「はい、大丈夫です」
確かにうでは痛くはなかった。リハビリが必要程度には違和感は感じていたが、母親の言う通り手術は成功したのだろう。肘は大丈夫。肘はね・・・。
その後先生から入院中に行われるリハビリの内容や、今後の生活で気を付けることなど一折説明された。もちろんピッチングは念を押して禁止令が出された。看護師からも入院中の事を説明され、聞くだけで疲れてしまった俺は、説明が終わるとすぐに眠りについてしまった。

