「高瀬。卒業後のこと、もう考えてるか?」
放課後の教室には、西日が斜めに差し込んでいた。黒田先生の机の上には、僕が提出した進路希望調査票と、先月返された模試の結果が並んでいる。第一志望の欄には県内の国立大学、その隣には経済学部。模試の判定はAだった。今の成績なら、無理をしなくても届く。
「一応」
先生が大学名を指す。
「はい」
「さらに上も狙えると思うぞ。例えば、この東京のこくり――」
「今の大学でいいです」
黒田先生は僕の顔を見た。
「何か、やりたいこととかはないのか?」
「特にないです」
答えるのに時間はかからなかった。家から通える。学費も安い。就職も悪くない。少なくとも、間違った選択ではない。そう心から思っているから言葉が自然と口から出ていた。
「高瀬は、ちゃんとしてるからな」
先生はそう言って、再度、調査票へ視線を戻した。
――ちゃんと。たぶん、僕への褒め言葉だった。だから僕も笑った。
*
面談のあと、僕はそのまま自習室へ向かった。夕方の自習室は静かだった。ページをめくる音、シャープペンシルの芯が紙を擦る音、誰かが小さく咳をする音。それ以外には、ほとんど何もない。
数学の問題集を開く。
僕は数学が好きだった。好き、という言い方が正しいかは知らない。ただ、解いていて安心する。間違えたなら原因を探せばいい。符号を間違えたのか、計算を飛ばしたのか、公式を取り違えたのか。見つけたところまで戻れば、答えは直せる。
二問目を解いている途中――不意に、匂いがした。鼻の奥に、鋭く刺さるような匂い。
僕は手を止めて周囲を見た。目に入るのは参考書と蛍光灯、机の上に置かれた誰かのペットボトルくらいだった。それなのに、確かに知っている。テレピン油。白いキャンバス。茶色い床。並んだイーゼル。絵の具で汚れた指。
『これの何がいいの?』
『朔は何で出るの?』
『今は――』
僕はシャープペンシルを握り直した。匂いはもう消えていた。
「高瀬」
今度は本当に声がした。
視界の先には牧野紗良が立っていた。片手に缶を二本持っている。一本はミルクティー。もう一本は、僕がいつも買うブラックコーヒーだった。
「あげる」
そのまま、コーヒーの一缶が机に置かれた。
「またこれ?」
「嫌なら返して」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ飲んでよ」
紗良はそのまま向かいの席へ座った。
「さっきから同じ問題見てたよ」
「見てない」
「見てた」
「何分?」
「五分くらい」
「じゃあ見てたかも」
缶を開ける。小さな音。いつもの苦味。頭が戻ってくる。紗良は自分の問題集を開き、僕も数学へ戻った。しばらくして、ノートの端に、いつ描いたのか分からない線があることに気づいた。
二つの四角をずらして重ね、その角をつないだだけの立方体――形は歪んでいた。
右上の辺が下がり、奥行きを示す線の長さも揃っていない。
「それ何?」
紗良が覗き込む。
「何でもない」
反射的に消しゴムを取った。何度も強く擦る。紙の表面が傷ついても、まだ手を止めなかった。
「そんな消す?」
「邪魔だから」
「別に余白じゃん」
「問題書くかもしれない」
「そこに?」
「使うかも」
「ふうん」
紗良はそれ以上聞かなかった。僕は数学へ戻った。数行進んだところで、符号を一つ間違えた。
「あ」
消しゴムを使う。今度は軽く。数字はきれいに消えた。何も残らない白い紙へ、正しい式を書き直す。答えは合った。
*
夜、赤本を取り出そうとして自室のクローゼットを開けた。棚の奥。積まれた参考書の下に、茶色い箱が見えた。
昔使っていた画材箱だった。
蓋には青い絵の具の汚れが残っている。僕は赤本を取ろうとして、指先が蓋に触れた。、テレピン油の匂いがした気がした。三年近く開けていない箱だった。
「朔、ご飯!」
一階から母の声がする。
「今行く」
僕は赤本だけを引き出した。画材箱はそのまま残して、クローゼットを静かに閉めた。
*
夕食のあと、いつものように机に向かって赤本を開いた。数学を解き始めてしばらくすると、スマートフォンが一度震えた。
通知が視界に入る。
名前を見た瞬間、返信欄を開きかけた親指が、画面から離れた。
神谷澪。
メッセージは、一行だけだった。
――久しぶり
僕はしばらく画面を見ていた。返信欄は開かない。スマートフォンを伏せる。数学へ戻った。ただ、さっきまで読んでいた問題がどこまで進んでいたのか分からなくなっていて、僕は最初から読み直さなければならなかった。
*
翌朝になっても、澪には返事をしなかった。通知は一件だけだった。久しぶり――催促もない。僕はスマートフォンを鞄へ入れ、学校へ向かった。教室へ入ると、紗良が僕の席の横に立っていた。
「遅いよー」
「まだ予鈴前だけど」
「私は待ってたんだよ」
「頼んでない」
「数学」
紗良は問題集を僕の机へ置いた。
「今日の小テスト、これ出るんでしょ。教えて」
「昨日やってなかった?」
「やったよ。やったけど、途中から意味分かんなくなった」
「どこから?」
「たぶん、ほぼ――全部」
シャープペンシルの芯が、紙の上に点を残した。
「高瀬?」
「何でもない」
問題集を開き、数列の最初の問題から説明した。紗良は聞きながら、分かったところだけ急に返事がよくなる。
「ここまでは?」
「分かる」
「じゃあ次」
「分かんない」
「根を上げるのが早いよ」
「だって急に難しいんだもん」
「急じゃない」
「高瀬基準やめてよ」
説明しているうちに、教室には人が増えてきた。椅子を引く音や話し声が重なり、誰かが窓を開ける。予鈴が鳴るまで、僕はそのまま紗良に数学を教えた。
*
小テストは十点満点だった。紗良は九点。
「惜しかった。悔しすぎるっ」
答案を僕の机へ置く。問題を確認すると間違えた箇所は理解不足によるものでないことは容易にわかった。
「途中式の符号ミスじゃん」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ実質十点でよくない?」
「九点は九点だろ」
「そういうところほんと厳しいよね、高瀬」
「採点したのは俺じゃないけどな」
紗良はポケットから小さなチョコレートを取り出し、僕の机の上に置いた。
「はい。朝の授業料」
「これ一個?」
「文句あるなら返して」
「昨日も同じこと言ってたな」
「便利だからね、その言葉」
そう言われると返しようがなくて、僕はチョコレートを受け取った。
昼休みになると、紗良はいつものように前の席をこちらへ向けて座った。弁当の蓋を開けながら、ふと思い出したように聞いてくる。
「高瀬って、大学はやっぱり県内にするの?」
「たぶん。今のところは」
「へえ。地元好きなんだ」
「別に好きってほどじゃないけど。家から通えるし」
「現実的だねえ」
紗良は卵焼きを口に入れた。
「私は近いところがいいな。朝早いの無理だし、満員電車も嫌だし」
「大学を決める理由がそれ?」
「四年間通うんだから大事でしょ。高瀬みたいに毎朝ちゃんと起きられる人には分かんないよ」
「俺だって眠いけど」
「でも遅刻しないじゃん」
「普通だろ」
「そういうところ」
「何が」
紗良は箸を止めて、考えるように僕を見た。
「高瀬ってさ、高瀬のまま大学生になりそう」
「意味分からない」
「ちゃんと授業に出て、ちゃんと単位取って、四年になったらちゃんと就活して。なんか全部、今の延長線上にありそう」
「それの何が悪いんだよ」
「悪いとは言ってないって。ただ、本当にその通りにやりそうだなって」
「普通じゃない?」
「普通をちゃんと続けられる人って、意外と少ないよ」
そのとき、弁当を持った三浦が僕たちの机の横で足を止めた。
「また二人で進路の話してんの? ほんといつも一緒だな」
「別に――」
「たまたまだから」
僕が言い終わるより先に紗良が答えた。それに三浦がにやりとする。
「はいはい。毎日たまたまね」
「うるさい」
紗良が箸を投げるふりをすると、三浦は笑いながら自分の席へ逃げていった。
「子どもかよ」
「高瀬も笑ってるじゃん」
「笑ってない」
「笑ってた」
否定するのも面倒になって、残っていた弁当を食べた。
放課後、昇降口へ向かうと紗良が靴を履き替えていた。待ち合わせをしていたわけではない。
「高瀬、今日も自習室行く?」
「行くけど」
「じゃあ私も行こうかな」
「今日は数学?」
「英語。さすがに数学ばっかりやってると思わないでほしい」
「珍しいなと思っただけ」
「それが失礼なの」
そんな話をしながら、二人で自習室まで歩いた。
着いてからは、離れた席に座る。隣だと話してしまうので、いつの間にかそうするようになっていた。
しばらくすると、斜め前から折った紙が滑ってきた。
――ここ分からない
答えと解説を書いて返す。
数分後、また戻ってきた。
――説明長い
僕は何も書かず、そのまま返した。
*
休憩になり、紗良が飲み物を一口飲んでから言った。
「そういえば、昨日描いてたやつ」
「昨日?」
「ノートの端にあった立方体。あれ何だったの?」
ペットボトルを机に戻す。
「ああ。落書き」
「高瀬って絵描くんだね」
「描くってほどじゃない。たまたま手が動いただけ」
「ふうん。なんか意外」
「何が」
「そういうの描くイメージなかったから」
「もう消したけど」
「知ってる。すごい勢いで消してたし」
紗良は口角を上げたけれど、僕が返さないでいると、それ以上は聞かなかった。
帰りに僕たちはいつものコンビニへ寄った。
紗良はミルクティー、僕はブラックコーヒー。
電車では途中から会話もせず、紗良はスマートフォンを、僕は英単語帳を眺めていた。
それでも気まずくはなかった。
*
家へ帰ると、紗良からメッセージが届いた。
――今日ありがと
――何が
――英語
ほぼ自分でやってただろ
――精神的支援をしていただきました
――してない
――してました
画面を見ながら微笑む。
返信しようとして、メッセージ一覧に戻った。
紗良のすぐ下に、神谷澪の名前がある。
昼休みに一度、メッセージは開いていた。
――久しぶり
届いているのは、それだけだった。
返信欄を開かないまま見ていると、画面上部に紗良から新しい通知が出た。
――そういえば明日の小テスト範囲どこ?
そちらを何の躊躇いもなく、自然な流れで開く。
――142から148
彼女からもすぐに返事が来た。
――ありがとう先生
――百円でもくれ
――チョコで払ったでしょ
――あれ一個で一日有効なの?
――当然でしょ
――じゃあ追加料金
数秒して、怒っている犬のスタンプが送られてきた。
僕は画面を閉じた。何も考えずに。
いや
何も考えない――そう自分に言い聞かせることを続けながら。
神谷澪には、まだ僕は返事をできなかった。
放課後の教室には、西日が斜めに差し込んでいた。黒田先生の机の上には、僕が提出した進路希望調査票と、先月返された模試の結果が並んでいる。第一志望の欄には県内の国立大学、その隣には経済学部。模試の判定はAだった。今の成績なら、無理をしなくても届く。
「一応」
先生が大学名を指す。
「はい」
「さらに上も狙えると思うぞ。例えば、この東京のこくり――」
「今の大学でいいです」
黒田先生は僕の顔を見た。
「何か、やりたいこととかはないのか?」
「特にないです」
答えるのに時間はかからなかった。家から通える。学費も安い。就職も悪くない。少なくとも、間違った選択ではない。そう心から思っているから言葉が自然と口から出ていた。
「高瀬は、ちゃんとしてるからな」
先生はそう言って、再度、調査票へ視線を戻した。
――ちゃんと。たぶん、僕への褒め言葉だった。だから僕も笑った。
*
面談のあと、僕はそのまま自習室へ向かった。夕方の自習室は静かだった。ページをめくる音、シャープペンシルの芯が紙を擦る音、誰かが小さく咳をする音。それ以外には、ほとんど何もない。
数学の問題集を開く。
僕は数学が好きだった。好き、という言い方が正しいかは知らない。ただ、解いていて安心する。間違えたなら原因を探せばいい。符号を間違えたのか、計算を飛ばしたのか、公式を取り違えたのか。見つけたところまで戻れば、答えは直せる。
二問目を解いている途中――不意に、匂いがした。鼻の奥に、鋭く刺さるような匂い。
僕は手を止めて周囲を見た。目に入るのは参考書と蛍光灯、机の上に置かれた誰かのペットボトルくらいだった。それなのに、確かに知っている。テレピン油。白いキャンバス。茶色い床。並んだイーゼル。絵の具で汚れた指。
『これの何がいいの?』
『朔は何で出るの?』
『今は――』
僕はシャープペンシルを握り直した。匂いはもう消えていた。
「高瀬」
今度は本当に声がした。
視界の先には牧野紗良が立っていた。片手に缶を二本持っている。一本はミルクティー。もう一本は、僕がいつも買うブラックコーヒーだった。
「あげる」
そのまま、コーヒーの一缶が机に置かれた。
「またこれ?」
「嫌なら返して」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ飲んでよ」
紗良はそのまま向かいの席へ座った。
「さっきから同じ問題見てたよ」
「見てない」
「見てた」
「何分?」
「五分くらい」
「じゃあ見てたかも」
缶を開ける。小さな音。いつもの苦味。頭が戻ってくる。紗良は自分の問題集を開き、僕も数学へ戻った。しばらくして、ノートの端に、いつ描いたのか分からない線があることに気づいた。
二つの四角をずらして重ね、その角をつないだだけの立方体――形は歪んでいた。
右上の辺が下がり、奥行きを示す線の長さも揃っていない。
「それ何?」
紗良が覗き込む。
「何でもない」
反射的に消しゴムを取った。何度も強く擦る。紙の表面が傷ついても、まだ手を止めなかった。
「そんな消す?」
「邪魔だから」
「別に余白じゃん」
「問題書くかもしれない」
「そこに?」
「使うかも」
「ふうん」
紗良はそれ以上聞かなかった。僕は数学へ戻った。数行進んだところで、符号を一つ間違えた。
「あ」
消しゴムを使う。今度は軽く。数字はきれいに消えた。何も残らない白い紙へ、正しい式を書き直す。答えは合った。
*
夜、赤本を取り出そうとして自室のクローゼットを開けた。棚の奥。積まれた参考書の下に、茶色い箱が見えた。
昔使っていた画材箱だった。
蓋には青い絵の具の汚れが残っている。僕は赤本を取ろうとして、指先が蓋に触れた。、テレピン油の匂いがした気がした。三年近く開けていない箱だった。
「朔、ご飯!」
一階から母の声がする。
「今行く」
僕は赤本だけを引き出した。画材箱はそのまま残して、クローゼットを静かに閉めた。
*
夕食のあと、いつものように机に向かって赤本を開いた。数学を解き始めてしばらくすると、スマートフォンが一度震えた。
通知が視界に入る。
名前を見た瞬間、返信欄を開きかけた親指が、画面から離れた。
神谷澪。
メッセージは、一行だけだった。
――久しぶり
僕はしばらく画面を見ていた。返信欄は開かない。スマートフォンを伏せる。数学へ戻った。ただ、さっきまで読んでいた問題がどこまで進んでいたのか分からなくなっていて、僕は最初から読み直さなければならなかった。
*
翌朝になっても、澪には返事をしなかった。通知は一件だけだった。久しぶり――催促もない。僕はスマートフォンを鞄へ入れ、学校へ向かった。教室へ入ると、紗良が僕の席の横に立っていた。
「遅いよー」
「まだ予鈴前だけど」
「私は待ってたんだよ」
「頼んでない」
「数学」
紗良は問題集を僕の机へ置いた。
「今日の小テスト、これ出るんでしょ。教えて」
「昨日やってなかった?」
「やったよ。やったけど、途中から意味分かんなくなった」
「どこから?」
「たぶん、ほぼ――全部」
シャープペンシルの芯が、紙の上に点を残した。
「高瀬?」
「何でもない」
問題集を開き、数列の最初の問題から説明した。紗良は聞きながら、分かったところだけ急に返事がよくなる。
「ここまでは?」
「分かる」
「じゃあ次」
「分かんない」
「根を上げるのが早いよ」
「だって急に難しいんだもん」
「急じゃない」
「高瀬基準やめてよ」
説明しているうちに、教室には人が増えてきた。椅子を引く音や話し声が重なり、誰かが窓を開ける。予鈴が鳴るまで、僕はそのまま紗良に数学を教えた。
*
小テストは十点満点だった。紗良は九点。
「惜しかった。悔しすぎるっ」
答案を僕の机へ置く。問題を確認すると間違えた箇所は理解不足によるものでないことは容易にわかった。
「途中式の符号ミスじゃん」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ実質十点でよくない?」
「九点は九点だろ」
「そういうところほんと厳しいよね、高瀬」
「採点したのは俺じゃないけどな」
紗良はポケットから小さなチョコレートを取り出し、僕の机の上に置いた。
「はい。朝の授業料」
「これ一個?」
「文句あるなら返して」
「昨日も同じこと言ってたな」
「便利だからね、その言葉」
そう言われると返しようがなくて、僕はチョコレートを受け取った。
昼休みになると、紗良はいつものように前の席をこちらへ向けて座った。弁当の蓋を開けながら、ふと思い出したように聞いてくる。
「高瀬って、大学はやっぱり県内にするの?」
「たぶん。今のところは」
「へえ。地元好きなんだ」
「別に好きってほどじゃないけど。家から通えるし」
「現実的だねえ」
紗良は卵焼きを口に入れた。
「私は近いところがいいな。朝早いの無理だし、満員電車も嫌だし」
「大学を決める理由がそれ?」
「四年間通うんだから大事でしょ。高瀬みたいに毎朝ちゃんと起きられる人には分かんないよ」
「俺だって眠いけど」
「でも遅刻しないじゃん」
「普通だろ」
「そういうところ」
「何が」
紗良は箸を止めて、考えるように僕を見た。
「高瀬ってさ、高瀬のまま大学生になりそう」
「意味分からない」
「ちゃんと授業に出て、ちゃんと単位取って、四年になったらちゃんと就活して。なんか全部、今の延長線上にありそう」
「それの何が悪いんだよ」
「悪いとは言ってないって。ただ、本当にその通りにやりそうだなって」
「普通じゃない?」
「普通をちゃんと続けられる人って、意外と少ないよ」
そのとき、弁当を持った三浦が僕たちの机の横で足を止めた。
「また二人で進路の話してんの? ほんといつも一緒だな」
「別に――」
「たまたまだから」
僕が言い終わるより先に紗良が答えた。それに三浦がにやりとする。
「はいはい。毎日たまたまね」
「うるさい」
紗良が箸を投げるふりをすると、三浦は笑いながら自分の席へ逃げていった。
「子どもかよ」
「高瀬も笑ってるじゃん」
「笑ってない」
「笑ってた」
否定するのも面倒になって、残っていた弁当を食べた。
放課後、昇降口へ向かうと紗良が靴を履き替えていた。待ち合わせをしていたわけではない。
「高瀬、今日も自習室行く?」
「行くけど」
「じゃあ私も行こうかな」
「今日は数学?」
「英語。さすがに数学ばっかりやってると思わないでほしい」
「珍しいなと思っただけ」
「それが失礼なの」
そんな話をしながら、二人で自習室まで歩いた。
着いてからは、離れた席に座る。隣だと話してしまうので、いつの間にかそうするようになっていた。
しばらくすると、斜め前から折った紙が滑ってきた。
――ここ分からない
答えと解説を書いて返す。
数分後、また戻ってきた。
――説明長い
僕は何も書かず、そのまま返した。
*
休憩になり、紗良が飲み物を一口飲んでから言った。
「そういえば、昨日描いてたやつ」
「昨日?」
「ノートの端にあった立方体。あれ何だったの?」
ペットボトルを机に戻す。
「ああ。落書き」
「高瀬って絵描くんだね」
「描くってほどじゃない。たまたま手が動いただけ」
「ふうん。なんか意外」
「何が」
「そういうの描くイメージなかったから」
「もう消したけど」
「知ってる。すごい勢いで消してたし」
紗良は口角を上げたけれど、僕が返さないでいると、それ以上は聞かなかった。
帰りに僕たちはいつものコンビニへ寄った。
紗良はミルクティー、僕はブラックコーヒー。
電車では途中から会話もせず、紗良はスマートフォンを、僕は英単語帳を眺めていた。
それでも気まずくはなかった。
*
家へ帰ると、紗良からメッセージが届いた。
――今日ありがと
――何が
――英語
ほぼ自分でやってただろ
――精神的支援をしていただきました
――してない
――してました
画面を見ながら微笑む。
返信しようとして、メッセージ一覧に戻った。
紗良のすぐ下に、神谷澪の名前がある。
昼休みに一度、メッセージは開いていた。
――久しぶり
届いているのは、それだけだった。
返信欄を開かないまま見ていると、画面上部に紗良から新しい通知が出た。
――そういえば明日の小テスト範囲どこ?
そちらを何の躊躇いもなく、自然な流れで開く。
――142から148
彼女からもすぐに返事が来た。
――ありがとう先生
――百円でもくれ
――チョコで払ったでしょ
――あれ一個で一日有効なの?
――当然でしょ
――じゃあ追加料金
数秒して、怒っている犬のスタンプが送られてきた。
僕は画面を閉じた。何も考えずに。
いや
何も考えない――そう自分に言い聞かせることを続けながら。
神谷澪には、まだ僕は返事をできなかった。

