野球少年と幼なじみ

【プロローグ:幼なじみの記憶】

物心ついた頃には、もう咲はそばにいた。

同じ町内、同じ幼稚園、同じ小学校。家の距離は、走れば一分もかからない。

「翔、また虫捕まえてきたの?」

咲はいつも、少し呆れたような、でもどこか楽しそうな顔でそう言った。僕が泥だらけになって帰ると、母親より先に咲が気づいて、笑いながら軽蔑するように、それでいて優しく肩を叩いてくる。そんな関係だった。

小学校に上がってすぐ、僕は少年野球チームに入った。特別な理由はなかった。近所の友達が誘ってくれたから、それだけだった。

でも、気づけば僕は、チームの中で誰よりも打って、誰よりも投げていた。県大会でも、地区の強豪相手に完封したことがある。中学に入ってからは、公式戦で負けた記憶がほとんどない。

「翔、今日の試合どうだった?」

「完封した」

「すごいじゃん。今度、見に行ってあげる」

咲はそう言って笑うけど、僕の中で、それはただの結果でしかなかった。負けないのが当たり前になっていて、勝つことに、そこまで特別な感動もなくなっていた。

一緒に遊ぶ時間は、野球部に入ってからだんだん減っていった。それでも、下校時間が合えば、当たり前のように一緒に帰っていた。

家族ぐるみの付き合いも長かったから、恋愛感情なんて、そもそも湧く余地がないと思っていた。空気みたいな存在。いて当たり前で、特別に意識することなんてなかった。

――そのはずだった。


中学三年になると、僕の周りは少しずつ変わり始めていた。

練習中、見慣れない大人が何人かグラウンドの隅に立っていることが増えた。監督と話し込んでいたり、僕のピッチングを黙ってじっと見ていたり。

「また来てるな、スカウト」

チームメイトがそう言って、僕の背中を小突いてくる。

「県外の強豪校からも、話来てるんだろ?」

「……まあ、そうみたいだけど」

曖昧に答えるしかなかった。正直、自分でもまだ実感が湧いていなかった。

放課後、教室でも「翔、甲子園目指すの?」なんて聞かれることが増えた。みんな、当たり前のように僕がその道を進むと思っている。

――そう思われるのは、悪い気はしない。

でも、心のどこかで、いつも小さな違和感があった。

甲子園も、プロも、みんなが憧れる場所なんだろう。でも、僕自身がそこまでの熱を持てているかというと、正直、よく分からなかった。

野球は好きだ。負けるのは嫌いだし、マウンドに立つ瞬間の緊張感も嫌いじゃない。でも「そのために全部を懸けたいか」と聞かれると、素直に頷ける自信がなかった。

そんな中途半端な自分を、誰にも言えずにいた。


その夜、夕食の席で、父がテレビの高校野球中継を見ながらぽつりと言った。

「お前も、いずれこういう舞台に立つんだろうな」

母も、味噌汁をよそいながら、嬉しそうに頷いた。

「スカウトの人が来てるって、監督さんから聞いたわよ。すごいじゃない」

二人とも、悪気はない。むしろ、心から誇らしく思ってくれているのが伝わってくる。だからこそ、何も言えなかった。

「甲子園、頑張ってね。甲子園に行ったら、お父さんと一緒に応援に行くからね」

母はそう言って、嬉しそうに笑った。父も、満足げに頷いていた。

「うん」

そう答えるしかなかった。本当は、そこまでの覚悟が自分にあるのか分からない、なんて、とても言い出せる空気じゃなかった。

箸を進めながら、僕はただ、曖昧に笑っていた。


「なあ、咲ってさ、可愛いよな。人気あるんだぜ」

友人の何気ない一言に、僕は思わず「えっ」と声を漏らした。今まで意識したこともなかった。いや、意識しないようにしてたのかもしれない。

放課後、忘れ物に気づいて教室に戻ると、彼女は窓際にひとりで佇んでいた。開け放たれた窓から風が吹き込み、長い髪がふわりと揺れる。西日を受けてその一筋一筋が透けるように光っていた。

——綺麗だ。

そう思った瞬間、自分でも驚いた。幼なじみの、いつも見ていたはずの顔なのに。

「忘れ物?」

気づいた彼女がこちらに歩いてきて、僕の顔を覗き込むように近づいた。

ふと目が合う。逸らせなかった。

柑橘系の甘い香りがふわりと鼻をかすめる。いつも隣にいたはずなのに、こんなに近くで彼女を感じたことがあっただろうか。

「せっかくだから、一緒に帰ろうか」

吐息が触れそうな距離に、心臓が跳ねた。


それから数日、彼女とはいつも通り、他愛のない会話をしながら帰る日々が続いていた。

でも僕の中では、あの日感じた「綺麗だ」という気持ちが、ずっとくすぶったままだった。

もし彼女が僕をどう思っているとしたら、それは「幼なじみの僕」なのか、それとも別の何かなのか。

考えても、答えは出なかった。分からないまま、僕は何も言えずにいる。


翌日の昼休み、屋上に続く階段の踊り場で、信也に呼び止められた。

「なあ、頼みがあるんだけど」

いつになく神妙な顔をしていた。嫌な予感がした。

「実は……咲さんのこと、紹介してほしいんだ」

一瞬、耳を疑った。

「お前、幼なじみなんだろ? 仲いいって聞いたし……頼めるの、お前しかいなくて」

信也は照れくさそうに、でも真剣な目で僕を見ていた。付き合いの長い、悪い奴じゃない。むしろ、こういうことを真っ直ぐ頼んでくる、まっすぐな性格の奴だった。

断ればいい。そう思う自分と、断る理由がどこにあるんだ、と問いかけてくる自分が、頭の中でせめぎ合った。

彼女とは付き合っているわけじゃない。好きだと伝えたこともない。だったら、僕にこの頼みを断る資格なんて、本当はないんじゃないか。

「……わかった。今度、聞いてみる」

自分の口から出た言葉が、他人事みたいに聞こえた。

信也は「ありがとな!」と笑って、階段を降りていった。

一人残された踊り場で、僕はしばらく動けなかった。

何かを守れなかったような気がした。でも、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。


その日の夜、ベッドに横になっても、信也の言葉が頭から離れなかった。

「今度、聞いてみる」

自分で言った言葉なのに、まるで他人の台詞みたいだった。

本当は、断ることだってできたはずだ。「悪いけど、それはできない」――そう言えばよかった。でも、その先を聞かれたら、どう答えるつもりだったんだろう。

「なんで?」って聞かれて、僕は何て答える? 「好きだから」なんて、言えるわけがない。彼女に伝えたこともないのに、信也にだけ先に、そんなことを言えるはずがなかった。

結局、僕は何も持っていないんだ。彼女への気持ちも、それを伝える勇気も、ちゃんと形にできていない。持っていないものを理由に、何かを断ることなんてできない。

――でも、本当にそれだけだろうか。

もし信也がうまくいったら。彼女が、信也と一緒に帰るようになったら。

想像するだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

それなのに、僕はきっと明日も、何も言わないままでいる。

言葉にできない気持ちは、ないのと同じだ。そう分かっているのに、どうしても、その一歩が踏み出せなかった。

天井を見つめたまま、僕はいつまでも寝つけずにいた。


数日後の放課後、教室に彼女を除いて誰もいなくなったタイミングを見計らって、僕は声をかけた。

「ちょっと、話していい?」

彼女は机に広げていたノートから顔を上げて、「うん」と小さく頷いた。

言おうとしていた言葉が、喉のあたりで何度もつっかえた。

「その……友達が、咲のこと、紹介してほしいって」

言い終えた瞬間、後悔が押し寄せてきた。もっと違う言い方があったはずだ。もっと、自分の気持ちを混ぜて言うべきだったんじゃないか。

彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと視線を落とした。

「……そうなんだ」

短い返事だった。でも、その声にほんの少し、震えのようなものが混じっている気がした。

「嫌なら、断ってくるから」

自分でも意外なくらい、すぐにそう言っていた。心のどこかで、彼女が「嫌だ」と言ってくれることを、期待していたのかもしれない。

彼女はしばらく黙っていた。窓の外を見るように、視線を逸らしたまま。

「……ううん。会うだけなら、いいよ」
そう言って、彼女は小さく笑った。でもその笑顔は、いつもの彼女の笑顔とは、どこか違って見えた。

「わかった。伝えておく」

僕はそれだけ言って、教室を出た。

廊下を歩きながら、自分の胸に手を当てた。

――今の、なんだったんだろう。

彼女の「会うだけなら、いいよ」という言葉が、本当は何を意味していたのか。分からないまま、僕はただ、重い足取りで歩き続けた。


それから、彼女と話す機会が少しずつ減っていった。

誰かがそう仕向けたわけじゃない。ただ、自然と、そうなっていった。

朝、教室で目が合っても、以前のように気軽に声をかけられなくなった。放課後、一緒に帰ろうと誘うタイミングも、なんとなく逃してしまう。

信也と彼女が何度か会っているらしいことは、風の噂で聞いていた。詳しいことは、あえて聞かなかった。聞くのが、怖かった。
「最近、咲とあんまり喋ってなくね?」

別の友人にそう言われて、初めて自分でも気づいた。ああ、本当だ。いつの間にか、こんなに距離ができていたのか。

グラウンドで白球を追いながらも、ふと彼女の姿を目で探している自分がいた。窓際の教室、渡り廊下、購買部の列――どこにいても、無意識に彼女を探していた。

見つけても、声はかけられなかった。

彼女の方も、以前のように話しかけてくることが減った気がした。気のせいかもしれない。でも、そう感じてしまう自分がいた。

――僕は、何をやっているんだろう。

好きだと思う気持ちは、日に日に強くなっていくのに、それに反比例するように、彼女との距離は開いていく。

矛盾しているのは分かっていた。でも、どうすればいいのか、答えは出ないままだった。

夏が近づいていた。ユニフォームの下に、汗がにじむ季節。

スカウトの話も、そろそろ本格的に動き出す頃だった。

「――おい、ぼさっとしてんじゃねえ!」

監督の怒声で、僕は我に返った。

気づけば、フライが頭上を通り過ぎていた。捕れるはずの球だった。何度も練習してきた、当たり前に処理できるはずの球。

「すみません!」

反射的に頭を下げたけど、頭の中は真っ白だった。

「集合!」

監督の声に、全員がベンチ前に集まる。僕はその輪の中で、ただ俯いていた。

練習終わり、道具を片付けていると、隣にいたチームメイトが声をかけてきた。

「お前、今日どうした? 全然らしくなかったぞ」

「……いや、別に」

「別に、って顔じゃないだろ」

苦笑いしながら、彼は僕の肩を軽く叩いた。

「無理すんなよ。お前が本調子じゃないの、見りゃわかるって」

その言葉に、なぜか胸の奥がぎゅっとなった。誰にも気づかれていないと思っていたのに、こんなに分かりやすく出ていたのか。

「……ありがとう」

それだけ言うのが、精一杯だった。

グラウンドを出る頃には、日はもうすっかり傾いていた。長く伸びる自分の影を見ながら、僕は小さくため息をついた。

――野球でさえ、集中できなくなってる。

情けなかった。それでも、頭の中を占めているのは、彼女のことばかりだった。


数日後、部活の後、忘れ物を取りに校舎に戻った帰り道だった。

昇降口を出たところで、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

彼女と、信也だった。

二人は少し離れた場所で、何か話している。声までは聞こえなかったけど、信也が笑いながら何かを言い、彼女もつられるように笑っていた。

――ただ、それだけの光景だった。

なのに、足が止まって動かなくなった。

胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。分かっていたはずだった。自分が紹介したんだから、こうなることくらい。

それでも、実際にその光景を目の当たりにすると、頭では分かっていたことが、こんなにも重く胸にのしかかってくるとは思わなかった。

僕は二人に気づかれないうちに、来た道を引き返した。

――なんで、僕がこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。

自分で頼まれごとを引き受けたのに。自分で「会うだけならいいよ」という彼女の言葉を受け入れたのに。

矛盾だらけの自分に、心底うんざりした。
その夜、スマホの画面には彼女とのトーク画面が表示されたまま、何も打てずにいた。

何か送りたいのに、何を送ればいいのか分からない。

「今日、疲れた」

そんな、当たり障りのない一言を打っては消し、打っては消し。

結局、何も送れないまま、僕は画面を閉じた。

自分の不甲斐なさに、押しつぶされそうだった。


◇咲視点:亜紀への相談◇

放課後、教室に残っていた亜紀に、思わず声をかけていた。

「ねえ、聞いてほしいんだけど」

亜紀は机に頬杖をついたまま、「なに、改まって」と笑った。
「実は今日、告白されたんだ」

「え、マジで? 誰に?」

「信也君」

「えっ、信也君!? で……どうしたの?」

「断った」

亜紀は、少し意外そうな顔をした。

「なんで? 感じよさそうな人じゃん」

「……好きな人が、いるから」

言った瞬間、頬が熱くなるのを感じた。亜紀はしばらく黙って私を見ていたけど、やがて、にやりと笑った。

「それ、翔でしょ」

図星を突かれて、何も言えなくなった。

「バレバレだって。ずっと見てたら分かるよ、咲がどんな顔で翔の話するか」

「……そんなに分かりやすい?」

「うん、めちゃくちゃ」

亜紀は笑いながら、机に肘をついて、こっちを覗き込んできた。

「で、気持ちは伝えるの?」

「……迷ってる」

「なんで? 幼なじみなんでしょ? むしろ言いやすくない?」

「幼なじみだからこそ、だよ。もし気まずくなったら、今までの関係、全部なくなるかもしれない」

亜紀は、少し真剣な顔になった。

「でもさ、咲。言わないままでいたら、その関係も、いつか自然になくなるかもしれないよ。好きなんでしょ? 翔のこと」
その言葉が、思ったより重く胸に響いた。

「……分かってる。分かってるけど」

「まあ、無理にとは言わないけどさ」

亜紀はそう言って、また明るい調子に戻った。

「翔だって、鈍いだけで、咲のこと大事に思ってると思うけどな」

その一言だけで、少し救われた気がした。

◇◇◇


昼休み、購買部に向かう途中、廊下ですれ違った同じクラスの女子二人が、何気なく話しているのが聞こえた。

「そういえばさ、聞いた? 信也が、告白したらしいよ」

「え、マジで? 相手って……」
声は、そこで人混みに紛れて聞こえなくなった。

足が、止まった。

――告白した。

その一言だけが、頭の中で何度も繰り返された。相手が誰かなんて、聞くまでもなかった。

結果は、分からない。振られたのか、それとも。

分からないことが、余計に苦しかった。もし結果を知っていたら、まだ諦めもついたかもしれない。でも、宙ぶらりんのまま、自分の中で最悪の想像ばかりが膨らんでいく。

購買部に着いても、何を買うつもりだったかすら思い出せなかった。

その日一日、授業も上の空だった。


放課後、廊下で信也を見かけて、気づけば声をかけていた。

「あの」
言葉が、出てこなかった。

信也がこちらを向いて、「ん?」と首をかしげる。

喉の奥が、変に渇いていた。聞きたいことは、はっきりしているのに。

「……咲とは、順調?」

絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

信也が何か言おうと、口を開きかけた。

でも、それを聞くのが、怖かった。

返事を待たずに、僕は踵を返して駆け出していた。

背後で、信也が何か言っていた気がする。名前を呼ばれたような気もした。

でも、その言葉は、耳をすり抜けていった。何も、聞こえなかった。

ただ、走った。

廊下を抜けて、階段を駆け下りて、昇降口を飛び出しても、まだ足は止まらなかった。

自分でも、何をしているのか分からなかった。ただ、あの続きを聞いてしまったら、もう後戻りできない気がした。


家に帰っても、走り去った時の自分が、頭から離れなかった。

台所で、冷蔵庫からお茶を取り出す。コップに注いで、一気に飲み干した。

でも、気持ちは少しも落ち着かなかった。

なんで、逃げたんだろう。

聞くのが怖かった。それは分かってる。でも、逃げたところで、何かが変わるわけじゃない。むしろ、余計に惨めだった。

信也は、何て言おうとしていたんだろう。

「順調だよ」だったのか。「実はダメだった」だったのか。それとも、全然違う何かだったのか。

分からないまま、不安な思いだけが、頭の中を駆け巡った。

空になったコップを、シンクにそっと置く。水滴が、ゆっくりと伝い落ちていった。

情けなかった。逃げてばかりの自分に、心底うんざりした。


◇友人視点(信也)◇

放課後の空き教室、彼女を呼び出したのは、僕の方だった。

緊張で、手のひらに汗がにじんでいた。何度も頭の中で練習した言葉が、いざとなると全部飛んでしまいそうだった。

「あの、ずっと言いたかったんだけど」

彼女は静かに、僕の言葉を待っていた。

「咲さん、好きです。付き合ってほしい」

言い切った瞬間、肩の力が抜けた。ちゃんと言えた。それだけで、少し満足している自分がいた。

彼女は、少し困ったような、それでいて優しい表情を浮かべた。

「ごめんね。ありがとう、嬉しい。でも……好きな人が、もう、いるんだ」

予想していた答えだった。それでも、実際に言われると、胸の奥がずしりと重くなった。

「そっか」

それだけ言うのが、精一杯だった。

「変な空気にしたくないから、今まで通りでいてくれると嬉しい」

彼女はそう言って、小さく頭を下げた。誠実な断り方だった。だからこそ、余計に、その「好きな人」が誰なのか、聞かずにはいられなかった。

「その人って……」

言いかけて、僕は言葉を止めた。

彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいたから。

「……ごめん」
彼女はそれだけ言って、視線を落とした。

その表情を見て、僕にはもう、答えが分かっていた。

――翔だ。

本当は、わかっていた。

彼女は、翔の話をするとき、いつも本当に楽しそうな笑顔で話していた。他の話をしている時とは、明らかに違う表情だった。

翔の名前が出るたびに、翔がどこか上の空になることも。紹介してほしいと頼んだ時の、翔の妙な間も。

全部、今になって繋がった気がした。

自分の恋は終わった。でも、なぜか、悔しさよりも先に、妙な納得感があった。

翌日、廊下で翔を見かけた時、僕は迷わず声をかけた。何か、伝えなきゃいけない気がしたから。

「昨日、急にどうしたんだよ」

翔は気まずそうに視線を逸らした。分かりやすい奴だ。

「咲のことなら、もう気にしなくていいから」

翔の目が、大きく見開かれた。

「ちゃんと、話したんだ。好きな人がいるって、はっきり言われた」

本当は、悔しさが全くなかったわけじゃない。それでも、翔の顔を見ていたら、自然とそう言えた。

「だから、もういいんだ。俺は俺で、次いくから」

強がりだったかもしれない。でも、言った瞬間、少しだけ、本当にそう思えた気がした。

◇◇◇


「……悪かったな。変な頼み事して」

「いや……」

言葉が続かなかった。ありがとう、とも、ごめん、とも言えず、僕はただ頷くことしかできなかった。

信也が教室に向かって歩いていく背中を、僕はしばらく見送っていた。

――彼女には、好きな人がいる。

信也は、そう言った。

それが誰なのか、聞くまでもなかった。

胸の奥が、熱くなった。今度は、不安からじゃない。

同時に、これ以上、逃げてはいけないと思った。

彼女はちゃんと、自分の気持ちに正直だった。それなのに、僕はどうだ。友人の頼みを断れず、彼女の告白にも何も返せず、ただ怖がって逃げ続けてきた。

進路のことも、彼女のことも、いつまでも先延ばしにできることじゃない。

僕は、拳を強く握った。

決めなきゃいけない。ちゃんと、自分の言葉で。

放課後、下駄箱の前で彼女に呼び止められた。

「ちょっと、時間ある?」

いつもと違う声のトーンに、僕は黙って頷いた。

二人で歩いた先は、河川敷だった。子供の頃、よく二人で遊んだ場所。

彼女は少し先を歩いていた。背中まで伸びた長い髪が、川風に揺れている。夕焼けが川面に反射して、彼女の後ろ姿ごと、あたり一面をオレンジ色に染めていた。

僕は、その少し後ろを歩いていた。声をかけるタイミングも分からないまま、ただ彼女の背中を見つめていた。

しばらくして、彼女が足を止めた。

ゆっくりと、振り返る。

「――紹介してくれたこと、ずっと考えてた」

心臓が、大きく音を立てた。
「あの時、『会うだけならいいよ』って言ったけど。本当は、全然よくなかった」

彼女はそう言うと、今度はまっすぐ僕の目を見た。

「なんで、あんなに簡単に頼みを聞いたの? 少しくらい、迷ってくれてもよかったのに」

答えられなかった。

「私、ずっと待ってた。……幼なじみだから、なんて理由じゃなくて」

彼女の目に、はっきりとした強さが宿っていた。

「あなたのこと、好きだから」

言葉が、まっすぐに刺さった。

「野球で目立ってるあなたじゃなくて、隣で笑ってる、幼なじみのあなたが好きだった。それを、ずっと言えなかった。言ったら、今の関係が壊れる気がして」

「でも」と彼女は続けた。

「あなたが友達を紹介してって言われて、あんなに簡単に頷いたの見て――私だけが、ずっと重く考えてたんだって、分かった」

「だから、今日は言う。もう、後悔したくないから」

彼女は深く息を吸って、まっすぐに僕を見た。

「好きです。ちゃんと、あなたと向き合いたい」

夕日が、彼女の背中を強く照らしていた。

僕はしばらく、何も言えなかった。ただ、彼女の言葉が、これまでの全部の出来事と、静かに繋がっていくのを感じていた。

友人の頼みを断れなかったこと。彼女の告白されたという話に、何も言えなかったこと。全部、彼女はちゃんと見ていたんだ。

「……ごめん」

やっと出た言葉は、それだけだった。

「ずっと、情けなかった。好きなのに、ちゃんと向き合うことから、逃げてた」

彼女は黙って、僕の言葉を待っていた。
「今すぐ、ちゃんと答えを出せるかは分からない。でも――」

僕は、初めて彼女の目を、逸らさずに見た。

「僕も、ちゃんと考える。逃げないで」


それから数日後、僕は監督室に呼ばれた。

「返事、そろそろ聞かせてもらえるか。県外の高校からも、正式に話が来てる」

机の上には、いくつかの高校の資料が並んでいた。強豪校、寮生活、専門のコーチ陣。全部、野球だけを本気でやるなら、これ以上ない環境だった。

「……少し、時間もらえますか」

そう言うのが、精一杯だった。

その夜、自分の部屋で、資料を何度も見返した。

プロを目指したいわけじゃない。それは、ずっと前から分かっていたことだった。高校まで、野球はやる。でも、その先まで賭けるほどの熱は、自分の中にない。
だったら、なぜ迷っているんだろう。

答えは、もう分かっていた気がした。

彼女の顔が浮かんだ。河川敷で、まっすぐに僕を見た目。「ちゃんと、あなたと向き合いたい」という言葉。

僕は、あの日「逃げないで」と言った。なのに、まだ何も返せていない。

野球を言い訳にして、彼女から――自分の気持ちからも、逃げ続けるのか。

窓の外を見ると、いつか彼女と眺めた夕焼けとは違う、静かな夜空が広がっていた。

僕は、机の資料をそっと閉じた。

翌日、監督室のドアをノックした。

「決めました」

監督が、資料から顔を上げた。

「地元の高校に進みます。野球は、続けます。ただ、寮に入ってまで、野球だけに懸けたいわけじゃないんです」

監督は、資料を机に置いて、僕をまっすぐ見た。

「……本気か? これだけの強豪校が、お前に興味を持ってくれてるんだぞ。甲子園だって、狙える環境なんだ」

「……」

「今は、まだプロなんてイメージ湧かないかもしれない。でも、それはまだ先の話だ。高校の3年間で、お前の中の何かが変わることだってある」

監督の言葉は、一つ一つ重かった。分かっている。これがどれだけ、恵まれた話なのか。

「親御さんには、ちゃんと相談したのか?」

「……まだ、です」

「だったら――」

「自分で、決めました」

気づけば、そう口にしていた。
監督が、言葉を止めた。

僕はうつむいていた顔を上げて、まっすぐ監督を見た。

「野球は好きです。今も、これからも。でも、僕がやりたいのは、寮に入って、野球だけに全部を懸けることじゃないんです。……そういう覚悟がある奴が、その環境に行くべきだと思います」

「親には、ちゃんと自分で話します。これは、僕が決めたことだから」

監督はしばらく黙って、僕を見つめていた。長い沈黙だった。

やがて、小さくため息をついて、それでもどこか納得したように頷いた。

「……そうか。お前がそう決めたなら、それでいい」

その一言に、それまでの緊張が、少しだけ緩んだ気がした。

「後悔しないんだな?」

「はい」

迷いのない返事だった。自分でも、驚くくらいに。

監督室を出ると、廊下の窓から西日が差し込んでいた。


家に帰ると、両親は居間でテレビを見ていた。

「話したいことがあるんだけど」

そう切り出すと、二人とも、少し驚いたようにこちらを見た。

「進路のこと、決めた。地元の高校に行く」

一瞬、部屋の空気が止まった気がした。

「……それは、寮に入らないってこと?」

父の声が、少し硬くなった。

「うん。野球は続けるけど、プロを目指して全部を懸けるつもりは、ない」

母が、心配そうに口を開いた。

「でも、こんなチャンス、そうそうないのよ? 甲子園だって――」

「分かってる。分かってるけど……」

言葉に詰まりながらも、僕は続けた。

「野球は好きだよ。これからも、ちゃんとやる。でも、寮に入って、それだけに全部懸けられるほどの覚悟は、正直ない。中途半端な気持ちのまま、その環境に行くのは、違うと思う」

両親は、しばらく黙っていた。

父が、小さくため息をついた。

「……お前がそこまで言うなら、もう反対はしない。ただ、後悔しないようにな」

「うん」

母は、少し寂しそうな顔をしながらも、静かに頷いた。

「あなたが選んだ道なら、応援するわ」
「ありがとう」

それだけ言うのが、精一杯だった。自分の部屋に戻ってから、ようやく肩の力が抜けた気がした。

僕は、スマホを取り出した。彼女とのトーク画面を開く。

指先が、迷わず動いた。

「話したいことがある。今日、時間ある?」

送信ボタンを押す。

画面を閉じて、僕は前を向いて歩き出した。