君から始まる数列



 翌朝、継原はいつも通り教室にいた。

 友達と話して、笑って、授業が始まれば前を向く。昨日の事なんてなかったみたいに見えたけれど、俺とは一度も目が合わなかった。

 正確には、俺が合わせられなかった。

 話しかければいい。昨日の事を謝ればいい。そう思っているのに、いざ継原の横を通ると口が開かない。

 なにを謝るべきなのかは分かっている。

 俺は継原がしてくれた事を、ずっと借りとして扱っていた。

 返せば元に戻るものだと思っていた。

 でも、じゃあこれからどうするのかと考えると、まだ答えが出なかった。

 返さない。

 それだけでは、たぶん違う。

 傘に入れてもらっても、ノートを送ってもらっても、今度からはなにも返さない。それでは単に、俺が図々しい奴になっただけだ。

 昼休みになっても答えは出ず、俺は購買へ向かうため教室を出た。

 階段を下りたところで、前を歩いていた男子生徒が抱えていたプリントを盛大に落とした。

「あー、最悪・・・・・・」

 紙が廊下いっぱいに散らばる。

 周囲の生徒はそれを避けながら通り過ぎていき、俺も一瞬だけ足を止めた。

 別に俺の仕事ではない。

 頼まれてもいない。

 急がなければ、購買のパンが売り切れるかもしれない。

 そこまで考えたところで、しゃがんでいた。

「こっち拾うわ」

「え、マジ? 助かる」

 二人で集めれば、散らばったプリントはすぐに片付いた。

 最後の一枚を束の上へ乗せると、男子生徒はほっとしたように息を吐く。

「ありがと。今度なんか奢るわ」

 以前にも、似たような事を言われた。

 その時の俺は、なんと答えたっけ。

「別にいいよ」

 考えるまでもなく、言葉が出る。

「俺が勝手にやっただけだから」

「いや、でも助かったし」

「じゃあ」

 そこで、言葉が止まった。

 昨日までなら、「気にしなくていい」で終わっていた。

 でも今は、もう一つだけ続きが浮かぶ。

「今度、誰か困ってたら手伝ってやれば?」

「・・・・・・なにそれ」

「いや、別に。返したいなら俺じゃなくてもいいかなって」

 自分で言っておいて、妙な感じがした。

 男子生徒も少し不思議そうな顔をしていたが、やがて笑った。

「分かった。そうするわ」

「おう」

 そのまま別れ、俺は階段を下りる。

 たったそれだけの事だった。

 俺が一枚のプリントを拾った。

 相手は俺に返さない。

 いつか、別の誰かに似たような事をするかもしれないし、しないかもしれない。

 そこまでは分からない。

 でも、不思議と気にならなかった。

 俺に戻ってこなくても、した事がなくなるわけじゃない。

 さっきあいつが少し助かったという事実は残る。

 そして俺が、あいつのプリントを拾おうと思った理由の中にも、たぶん継原がいる。

 廊下でプリントを落とした後輩を見れば一緒に拾う。

 誰かが困っていたら、自分の仕事じゃなくても手を貸す。

 そんな継原を、俺は何度も見てきた。

 見てきたものが俺の中に残っていたから、さっき足を止めたのだとしたら。

 そこでようやく、昨日から引っ掛かっていたものが、少しだけ形になった。

 継原からもらったものを、継原へそのまま返す必要なんてなかったのだ。

§

 放課後。

 ホームルームが終わると、継原はすぐに鞄を持って席を立った。

「継原」

 今度は呼べた。

 足を止めた継原が振り返る。

「・・・・・・なに?」

「ちょっといい?」

「委員会あるんだけど」

「少しだけ」

 迷ったように視線を逸らしたあと、継原は鞄を机へ戻した。

 教室から人が減るのを待つ。

 昨日と同じ場所なのに、今日は俺の方が落ち着かなかった。

「昨日、ごめん」

 最初にそれだけ言った。

 継原は黙っている。

「俺、ずっと返したら終わりだと思ってた」

「・・・・・・うん」

「誰かになにかしてもらったら、その分を返す。それで借りがなくなって、元に戻るって」

「うん」

「でも、違った」

 継原が少しだけ顔を上げた。

「昨日、お前が帰ったあと考えたんだよ。傘の事も、ノートの事も、クラス新聞の事も。俺、全部返したつもりだったけど、一個もなくなってなかった」

「なくなってない?」

「残ってた」

 口にすると、昨日一人でいた教室の感覚が蘇る。

「お前に傘へ入れてもらったから、雨の日に困ってる奴を見たら前より気になるかもしれない。お前が頼んでもない事までやるから、俺も困ってる奴を見たら手伝おうって思うようになった。今日も廊下でプリント拾ったし」

「それは前からやるって言ってなかった?」

「・・・・・・そうだけど」

「ふふっ」

「今、大事な話してるんだけど」

「ごめん」

 昨日以来、初めて継原が少し笑った。

 その顔を見ただけで、胸の奥の固いものが少し緩む。

「でも、前とはちょっと違った。そいつに『今度奢る』って言われたけど、俺じゃなくて、今度誰か困ってたらそいつに返せって言った」

「・・・・・・へえ」

「なんだよ」

「相原にしては進歩したなって」

「上からだな」

 また、継原が笑った。

 その笑い声を聞いて、昨日からずっと言いたかった事の続きを探す。

「だから・・・・・・お前が俺にした事も、返して終わりじゃなかったんだと思う」

 俺はそこで一度、息を整えた。

「俺の中に残って、それで俺がちょっと変わった」

 継原の目が、僅かに大きくなる。

「それって」

「ああ」

 図書室の長机。

 ノートの余白に書いた数字。

 1、1、2、3、5、8、13・・・・・・。

「フィボナッチ数列みたいだなって」

 継原が瞬きをした。

「・・・・・・相原、そういうの夢ないって言ってなかった?」

「言った」

「ただ足してるだけだって」

「言ったな」

「撤回?」

「半分だけ」

「半分なんだ」

「数学としては、ただ足してるだけだから」

「そこは譲らないんだね」

 呆れながらも、継原は笑っていた。

「でも、お前が言ってた意味、ちょっと分かった」

「前にあったものが、次の中にも残ってるってやつ?」

「うん」

 一と一から二が出来る。

 次は、その一と二から三が出来る。

 数字そのものが消えずに中へ溶け込むわけではない。数学として考えれば、そんな言い方は正確じゃない。

 でも、人からもらったものなら。

 それまでの自分に、誰かから受け取ったものが加わって、その次の自分になる。

 その自分が、また誰かになにかを渡していく。

 それなら俺には、あの数列が少し違って見えた。

「だから、昨日のあれ」

「これでゼロ?」

「・・・・・・もう言わない」

「ほんとに?」

「たぶん」

「そこは言い切ってよ」

「努力する」

「よろしい」

 継原が満足そうに頷く。

 これで仲直り。

 そう思っていいのかもしれない。

 けれど、まだ一つだけ引っ掛かっていた。

「あとさ」

「まだあるの?」

「ある」

 昨日、継原が言った言葉。

『私は、返してほしくて一緒にいたんじゃないんだけどな』

 あれだけは、借りの話とは少し違う気がしていた。

「昨日、一緒にいたって言っただろ」

 継原の動きが止まる。

「・・・・・・言ったっけ」

「言った」

「忘れた」

「絶対覚えてるだろ」

「覚えてない」

 分かりやすく目を逸らす。

「俺もさ」

「・・・・・・なに」

「返すためじゃなかった」

 今度は継原がこちらを見る。

「文房具屋に付き合ったのも、帰りに一緒に帰ってたのも。お前が教師に呼ばれてる時に待ってたのも」

「待ってたの、私じゃなかった?」

「・・・・・・そうだった」

「相原、格好つかないね」

「うるさいな。とにかく」

 言い直す。

「俺も、お前と一緒にいたかったんだと思う」

 口にした瞬間、思っていたより恥ずかしくなった。

 継原はなにも言わない。

 さっきまで笑っていたくせに、今は少しだけ頬を赤くしてこちらを見ている。

「・・・・・・それ、お返し?」

「違う」

「ほんと?」

「これは俺が勝手に言ってるだけ」

 そう答えると、継原は一度俯いた。

 肩が小さく揺れる。

「なんだよ」

「いや」

 顔を上げた継原は、堪えきれないように笑っていた。

「相原も、やっと勝手に出来るようになったなって」

「その言い方やめろ」

「いいじゃん。進歩だよ」

「誰のせいだと思ってんだ」

「私?」

「たぶん」

 そう答えると、継原の笑顔が少しだけ柔らかくなった。

「じゃあ、それは返してもらわなくていいの?」

「返したいなら好きにすればいい」

「相原は求めない?」

「求めない」

「そっか」

 継原は少し考えるように黙ったあと、鞄を肩へ掛けた。

「じゃあ帰ろ」

「委員会は?」

「少しくらいなら大丈夫」

「いや、行けよ」

「そこは一緒に帰ろうって言うところじゃない?」

「委員会サボらせたら、それこそ借り作るだろ」

「まだ言ってる」

「急には変わらないんだよ」

 継原が声を上げて笑う。

「じゃあ、終わるまで待ってて」

「なんで?」

「一緒に帰りたいから」

 あまりに普通の顔で言うものだから、今度は俺の方が黙る番だった。

「・・・・・・それ、俺になにかしてほしいって事?」

「そう」

「じゃあ借り?」

「違う」

「じゃあなに?」

 継原は少しだけ考えてから、笑った。

「次」

「次?」

「昨日までの続き」

 そう言って、教室を出ていく。

 俺はその背中を見送りながら、鞄を持ち上げた。

 1、1、2、3、5、8・・・・・・。

 前にあったものが、その次を作る。

 俺はずっと、人からなにかを受け取るたびにゼロへ戻ろうとしていた。

 借りを返して、なかった事にして、誰にもなにも残さないように。

 でも、本当は逆だった。

 もらったものは残る。

 嬉しかった事も、助かった事も、一緒に過ごした時間も、自分の中へ少しずつ積み重なって、その先の自分を作っていく。

 そして、その自分がまた誰かになにかを渡せば、そこから先が生まれる。

 だからきっと、ゼロに戻る必要なんてなかった。

 俺は鞄を肩へ掛けると、継原が戻ってくるまで図書室で待つ事にした。

 別に、頼まれたからじゃない。

 俺が勝手にそうしたかった。

 机に問題集を広げると、以前二人で見たページが開く。

 そこには、あの日と同じ数字が並んでいた。

 1、1、2、3、5、8、13・・・・・・。

 数列は、まだ続いている。

 俺達も、たぶん。

 君から始まったものを残したまま、その次へ。