君から始まる数列

クラス新聞を作った次の日、継原は俺の机の前まで来るなり、無言で右手を差し出した。

「なに?」

「お返し」

「なんの?」

「昨日手伝った分」

「・・・・・・お前、昨日いらないって言ってただろ」

「だから相原が考えて」

「それ、お返しを要求してるじゃん」

「違うよ。相原が返さないと落ち着かないみたいだから、特別に返させてあげようと思って」

 随分と上からだった。

「じゃあ、なにがいいんだよ」

「購買でパン買ってきて」

「パン?」

「今日、限定のクリームパン出るらしいから取ってきて。昼休み、委員会で遅くなるんだよね」

「それでいいの?」

「うん」

 また軽い。

 昨日、継原が使った一時間と釣り合うとは到底思えないが、本人がそれでいいと言うなら仕方がない。

「分かった」

「よろしく」

 昼休みになると同時に購買へ向かい、目当てのクリームパンを確保した。

 その時点では、それだけのつもりだった。

 けれどレジへ並んでいる途中、継原がいつも買っているミルクティーが目に入り、少し迷ってから一緒に買った。

 別に深い意味はない。

 パンだけでは昨日の一時間に到底見合わないし、飲み物くらい付けた方がまだ釣り合いが取れると思っただけだ。

 教室へ戻って十分ほどすると、委員会を終えた継原が駆け込んできた。

「間に合った?」

「余裕」

「やった」

 俺がクリームパンを差し出すと、継原は嬉しそうに受け取ったものの、その横にミルクティーを置くと動きを止めた。

「これは?」

「ついで」

「頼んでないけど」

「知ってる」

 口にしてから、妙な既視感を覚えた。

 継原も同じだったらしい。

「あ」

「あ」

 二人同時に声が出る。

 数日前、風邪で休んだ俺に継原が授業の内容を送ってきた時、まったく同じ会話をした。

 継原はミルクティーと俺の顔を交互に見ると、ゆっくり口元を緩めた。

「相原も勝手にやるようになったね」

「違う。これは返す分に含まれてる」

「クリームパンでいいって言ったのに?」

「昨日の一時間にパン一個は軽すぎるだろ」

「私はそれでよかったんだけど」

「俺がよくない」

「・・・・・・そっか」

 継原はそう言ってミルクティーを両手で持った。

 なぜか、少し嬉しそうだった。

 俺にはその理由が分からなかったが、悪い反応ではなさそうだったので、それ以上考えるのをやめた。

§

 その頃から、俺達は放課後も一緒にいる事が増えた。

 数学の続きを教えてほしいと言われれば図書室へ行き、帰りが同じ時間になれば駅まで並んで歩く。たまたま継原が購買へ行くと言えば俺も付き合い、俺が教師に呼び止められて遅くなれば、なぜか継原が廊下で待っている事もあった。

 どこからが親切で、どこからがただ一緒にいるだけなのか。

 その境目が、最近は少し曖昧だった。

「相原、今日暇?」

 放課後、鞄へ教科書を詰めていると、継原が前の席の背もたれへ腕を乗せながら訊いてきた。

「暇だけど」

「じゃあ駅前寄らない?」

「なにしに?」

「文房具見たい」

「一人で行けば?」

「暇なんでしょ?」

「暇だけどさ」

「じゃあ決まり」

「決まってない」

 そう言いながらも、結局俺は継原と駅前へ向かった。

 文房具屋で新しいペンを見て、隣の本屋を覗き、帰りにコンビニでアイスを買った。

 誰かを助けたわけではない。

 借りを返したわけでもない。

 なのに気付けば一時間近く一緒にいた。

「これって俺、なんのためについてきたんだ?」

 店を出たところで訊くと、継原は棒アイスを齧りながら俺を見る。

「今さら?」

「いや、文房具買うだけだと思ってたから」

「嫌だった?」

 そう訊かれて、返事に詰まった。

 嫌なら、とっくに帰っている。

「・・・・・・別に」

「じゃあいいじゃん」

「その理屈ずるくない?」

「相原だって、嫌なら断るでしょ」

 そう言って継原は少し前を歩いた。

 俺はその背中を見ながら、ふと思う。

 こいつといる時間には、貸し借りがない。

 なにかをしてもらったから一緒にいるわけでも、なにかを返すためについてきたわけでもない。

 ただ一緒にいる。

 それだけなのに、なぜか落ち着く。

 その事を認めると妙にむず痒くなって、俺は溶け始めたアイスへ視線を落とした。

§

 そんな日が続いたある日の昼休み、継原が珍しく机に突っ伏していた。

「どうした?」

 声を掛けると、顔だけこちらへ向ける。

「終わらない」

「なにが?」

「委員会の資料」

 机の上には、何枚ものプリントとノートが散らばっていた。

 翌週に行われる校内行事について、各クラスへ配る案内をまとめる役目を引き受けたらしい。しかし一緒に担当していた生徒が体調を崩して休んでしまい、今日中に下書きを教師へ提出しなければならないという。

「放課後やれば?」

「やる。でも今日、用事あるんだよね」

「何時?」

「七時」

「なら六時くらいまで出来るだろ」

「それで終わればいいけど」

 いつもなら「なんとかなる」と笑いそうな継原が、本気で困った顔をしている。

 机の上を見る。

 行事の日程、集合場所、持ち物、注意事項。必要な情報自体は揃っているが、あちこちに散らばっていて、これを一枚にまとめ直すだけでもかなり時間が掛かりそうだった。

「俺、手伝おうか」

 考えるより先に言っていた。

 継原が目を瞬かせる。

「いいの?」

「暇だし」

 言った直後、継原の口元が緩んだ。

「それ、私の台詞じゃん」

「うるさい」

「でも助かるー」

 その一言を聞いた時、不思議なくらい気分がよかった。

§

 放課後、俺達は空いた教室の机に資料を広げた。

 俺が日程や持ち物を整理し、継原が文章にまとめていく。途中で不足している情報に気付き、職員室へ確認に行ったり、去年の資料を借りてきたりしているうちに、時計の針は思っていたより早く進んだ。

「これ、集合時間おかしくない?」

「ほんとだ。こっち九時って書いてある」

「去年の資料は八時半」

「先生に聞いてくる」

「俺行くよ。お前そっち続けて」

「ありがと」

 職員室から戻ると、継原は黙々と文章を書き直していた。

 窓から差し込む夕方の光が机の上まで伸び、頬に落ちた髪を耳へ掛けながらペンを走らせる横顔を、俺は少しだけ長く見ていた。

 こいつはいつも、こんな風に誰かのために時間を使っている。

 プリントを整理した時も、傘へ入れてくれた時も、俺が休んだ日に授業の内容を送ってくれた時もそうだった。

 その時の俺は、それを全部「借り」として見ていた。

 何分掛かった。

 何をしてもらった。

 なら、同じくらい返せばいい。

 でも今、俺が継原を手伝っている理由を同じように測ろうとしても、うまく数字にならなかった。

 別に頼まれたわけじゃない。

 途中で帰ったって文句を言われる筋合いもない。

 それでも、最後まで手伝いたいと思っている。

「相原?」

「ん?」

「ぼーっとしてる」

「してない」

「してたよ」

「集合時間、八時半だって」

「了解」

 俺は席へ戻り、また資料を整理し始めた。

 考える必要はない。

 今はこいつが困っている。

 だから手伝う。

 それだけでいい。

§

「終わった・・・・・・!」

 継原が机へ突っ伏したのは、時計が六時を少し過ぎた頃だった。

 完成した資料を印刷し、教師へ確認してもらい、修正まで済ませた。

「間に合ったな」

「ほんとに助かった。相原いなかったら絶対終わってない」

「だろうな」

「そこは謙遜しなよ」

「事実だから仕方ない」

「前もそれ言ってた」

 継原が笑う。

 その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな満足感が広がった。

 よかった、間に合って。継原が困らなくて済んで。

 そして同時に、もう一つの事を思い出す。クラス新聞の事。

 あの日、継原は一時間以上残って俺を手伝った。

 俺はずっと、あれをどう返せばいいのか分からなかった。

 クリームパンもミルクティーも渡したが、まだどこか足りない気がしていた。

 けれど今日は、それ以上に手伝った。

 資料を整理して、職員室を何度も往復して、最後まで一緒に残った。

 これなら。

「継原」

「ん?」

 鞄へ資料をしまっていた継原が顔を上げる。

 俺は少し笑った。

「これで貸し借りゼロな」

 言った瞬間だった。

 継原の表情から、笑みが消えた。

「・・・・・・え?」

「クラス新聞。あの時手伝ってもらっただろ。今日これだけやったなら、さすがに返したって事でいいだろ」

 ようやく釣り合った。

 そう思っていた。なのに、継原はなにも言わない。

「継原?」

「・・・・・・そっか」

 小さく呟き、視線を落とす。

 さっきまで嬉しそうだったはずなのに、声の温度が明らかに変わっていた。

「なに?」

「別に」

「いや、別にって顔じゃないだろ」

「相原は、今日ずっとそのつもりだったの?」

「そのつもり?」

「私に借りを返すために手伝ってたの?」

「・・・・・・まあ、それもあるけど」

 答えながら、なぜか胸の奥がざらついた。

 最初から、それだけを考えていたわけではない。困っていたから声を掛けた。終わるまで手伝いたいと思った。

 でも、結果として借りを返せたのなら、それでいいはずだ。

「なら、いいよ」

 継原は鞄のファスナーを閉める。

「これでゼロ」

「・・・・・・なんで怒ってるんだよ」

「怒ってない」

「怒ってるだろ」

「怒ってないって」

 鞄を肩へ掛け、俺の横を通り過ぎようとする。

 俺は反射的に呼び止めた。

「継原」

 足が止まる。

 けれど、こちらは見なかった。

「なにが嫌だったんだよ」

 少しの沈黙。

 やがて継原が、背中を向けたまま口を開いた。

「・・・・・・私、ゼロにしたかったわけじゃない」

「え?」

「傘も、ノートも、クラス新聞も。相原に返してほしくてやったんじゃないよ」

「それは分かってるけど」

「分かってないよ」

 初めて聞くような強い声だった。

 継原が振り返る。

「相原が誰かに親切にする時は、『俺が勝手にやっただけ』って言うじゃん」

「・・・・・・・・・・・・」

「なのに、私が相原にした事だけ、なんで全部借りになるの?」

 答えられなかった。

「今日だってそう。相原が手伝ってくれて、すごく嬉しかった」

 継原は一度言葉を止める。

「なのに最後に『これでゼロ』って言われたら、今日の事まで、今までの事を消すためにやったみたいじゃん」

「消すって・・・・・・そういう意味じゃない」

「相原はそうじゃなくても、私はそう聞こえた」

 教室が静かだった。

 廊下の向こうから運動部の声が聞こえてくるのに、この場所だけが妙に遠く切り離されたように感じる。

「私は・・・・・・」

 継原がなにかを言い掛け、唇を閉じる。

 それから少し困ったように笑った。

「私は、返してほしくて一緒にいたんじゃないんだけどな」

 胸の奥が、強く引っ掛かった。

「一緒にいたって・・・・・・」

「もういい」

 継原は今度こそ鞄を持ち、教室を出ていった。

 追い掛ける事が出来なかった。

§

 一人になった教室で、俺はしばらく動けなかった。

 これでゼロ。

 いつもなら、それは気持ちのいい言葉だった。

 借りがなくなる。相手と同じところへ戻れる。もうなにも負っていない。

 それなのに今は、なにかをなくしたような感覚だけが残っている。

 俺は机の上に残っていたメモ用紙を何気なく見る。

 継原が資料を整理する途中で書いた数字が並んでいた。

 八時半。

 九時。

 七時。

 ただの時間だった。

 それなのに数字を見たせいか、別の並びが頭に浮かぶ。

 1、1、2、3、5、8・・・・・・。

『前にあったものが、次の数字の中にも入ってる感じ』

 図書室で継原が言った言葉。

 あの時の俺は、ただ足しているだけだと思った。

 前の数字を使って、次の数字を作る。

 それだけ。でも。

 一と一を足して二になったからといって、一がゼロになったわけじゃない。

 その一は、次の二を作っている。

 そして二は、その次の三を作る。

 前にあったものは、次へ進むための材料になっている。

 俺は今日、どうして継原を手伝った。

 クラス新聞の借りを返すため。

 そう言えば、説明は出来る。

 けれど、それだけだっただろうか。

 困った顔をしていたから放っておけなかった。

 間に合わせてやりたかった。

 終わった時に笑った顔を見て、嬉しかった。

 文房具屋へ付き合った時だってそうだ。

 あれは、なにを返した?

 購買で頼まれていないミルクティーまで買ったのは?

 教師に呼ばれたあと、廊下で待っていた継原を見つけて嬉しかったのは?

 どれも、貸し借りでは説明出来なかった。

 俺の中には、いつの間にか継原から受け取ったものがいくつも残っている。

 傘に入れてもらった事。

 授業の内容を送ってもらった事。

 クラス新聞を一緒に作った事。

 図書室で笑った事。

 帰り道を並んで歩いた事。

 俺は全部、返したつもりでいた。

 返せばなくなると思っていた。

 なのに。

「・・・・・・残ってるじゃん」

 誰もいない教室で、声が漏れた。

 返したはずなのに、一つも消えていない。それどころか、それらがあったから、今の俺は継原が困っていたら手を貸したいと思うようになっている。

 図書室で見た数字が、もう一度頭の中に並ぶ。

 1、1、2、3、5、8・・・・・・。

 前の数字が、次の数字を作っていく。

 だったら。

 俺がずっとゼロに戻そうとしていたものは、本当は最初から、ゼロになんてならなかったのかもしれない。