君から始まる数列

俺は、人に借りを作るのが嫌いだった。

 金の話だけじゃない。授業を休んだ日にノートを見せてもらったとか、購買で小銭が足りなくて十円だけ出してもらったとか、そういう小さな事でも、返さないまま残っていると妙に落ち着かない。

 相手が忘れていたとしても関係ない。

 むしろ向こうが忘れている方が困る。俺の中には「してもらった」という事実だけが残り続けるのに、相手はそんなもの最初から存在しなかったみたいな顔をしているのだから、こちらだけが一方的に何かを抱えているような気分になる。

 だから、返せるものは早めに返す。

 返してしまえば、それで元通りだ。

 貸した側でも借りた側でもなくなって、同じところに立てる。

 人間関係なんて、そのくらい平らな方が楽だと思っている。

「相原、今日傘持ってる?」

 六時間目の授業が終わり、教科書を鞄へ押し込んでいると、前の席の男子が窓の外を見ながら訊いてきた。

 つられて視線を向けると、昼休みまでは明るかった空がすっかり灰色に染まり、窓ガラスには細かな雨粒が斜めに流れている。

「持ってない」

「マジ? 結構降ってるぞ」

「駅まで十分くらいだし、走ればなんとかなるだろ」

「その雨で?」

 呆れたように笑われ、改めて外を見る。

 確かに、走ればなんとかなるという量ではない。

 校庭では水たまりがあちこちに出来始めていて、校門から出ていく生徒の傘も、雨脚に押されるように少し傾いている。

「・・・・・・途中で買う」

「最初から持ってこればよかったものを」

 そいつは折り畳み傘を鞄から取り出すと、廊下で待っていた友達と一緒に教室を出ていった。

 俺も少し遅れて昇降口まで降りたものの、庇の下から外へ出る寸前で足を止めた。

 雨は、教室から見た時より強くなっていた。

 駅とは反対方向に五分ほど歩けばコンビニがあるが、そこまで辿り着く頃には傘を買う意味が半分くらいなくなっていそうだ。

「・・・・・・やっぱ走るか」

 鞄を頭の上へ持ち上げようとしたところで、

「なにしてるの?」

 横から声を掛けられた。

 顔を向けると、同じクラスの継原結が、透明なビニール傘を開きながらこちらを見ていた。

 継原とは授業中のグループワークで何度か話した事がある程度で、特別親しいわけではない。ただ、誰とでも普通に話せる奴なので、向こうからすれば俺もクラスメイトの一人というだけなのだろう。

「見て分からない?」

「鞄を傘にして駅まで走ろうとしてる人」

「だいたい正解」

「教科書かわいそう」

「俺が濡れるよりはいいだろ」

「教科書に人権はないもんね」

「ないな」

 継原は小さく笑うと、俺の頭上へ持ち上がりかけていた鞄と雨を見比べ、それから自分の傘を少しこちらへ傾けた。

「駅まで行くんでしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ入ってく?」

 一瞬、意味が分からず傘を見る。

 二人用というほど大きくはないが、肩を寄せれば駅まで歩くくらいならなんとかなりそうだった。

「いいのか?」

「どうせ私も駅だし」

「でも狭いだろ」

「相原が端っこ歩けば」

「俺が濡れる前提じゃん」

「嫌なら鞄と一緒に走れば?」

 そう言われて雨を見ると、さっきよりさらに粒が太くなっている。

 ここで断って濡れるのは、さすがに意味がない。

「・・・・・・じゃあ頼む」

「どうぞー」

 傘の下へ入ると、思っていた以上に距離が近かった。

 肩が触れるほどではないものの、少しでも離れればどちらかが濡れるので、自然と歩幅まで合わせる事になる。

 昇降口を出ると、傘を叩く雨音が急に近くなった。

「相原って、折り畳み傘とか持ち歩かないタイプ?」

「天気予報見た時は降水確率二十パーだったから」

「二十パーでも降る時は降るんだね」

「今日がその二十パーだっただけだろ」

「なんか悔しくない?」

「なにが?」

「八十パー側にいるつもりだったのに、雨降られて」

「天気に勝ち負け求めてないから」

「それもそっか」

 どうでもいい会話をしながら歩いているうちに、駅前のロータリーが見えてくる。

 十分程度の道なのに、普段一人で歩くより短く感じた。

「じゃ、私こっちだから」

 改札前で継原が傘を閉じる。

「あぁ、助かった」

「うん」

 継原はそれだけ言って、濡れた傘を軽く振りながら改札へ向かおうとした。

「継原」

「ん?」

「明日なんか返す」

 振り返った継原が、少しだけ眉を寄せる。

「何を?」

「傘入れてもらった分」

「・・・・・・別にいらないけど」

「俺が嫌なんだよ」

「何が?」

「借りっぱなし」

 言うと、継原はしばらく俺の顔を見たあと、なぜか少し面白そうに笑った。

「変なの」

「そう?」

「だって、ただ一緒に帰っただけじゃん」

「でも濡れずに済んだ」

「じゃあ私も、一人より誰かと帰れて暇じゃなかったから、それでいいんじゃない?」

「それとこれは別だろ」

「そうかな」

 継原は納得した様子もないまま、「じゃあまた明日」と手を振って改札へ消えていった。

 俺も自分のホームへ向かいながら、さっきのやり取りを思い返す。

 ただ一緒に帰っただけ。向こうはそう言った。俺には、そうは思えない。

 自分一人なら濡れていたところを、継原のおかげで濡れずに済んだ。それなら、その分は返しておいた方が気持ちいい。

 それだけの話だ。

§

 翌日の昼休み、俺は購買で買ったミルクティーを継原の机へ置いた。

「はい」

「・・・・・・なにこれ」

「昨日の」

「本当に返してきた」

「言っただろ」

「傘に十数分入れただけでミルクティーになるんだ」

「いらないなら別のにするけど」

「いや、好きだけど」

「じゃあいいだろ」

 継原は紙パックを持ち上げながら、それでもどこか納得していないような顔をする。

「これで貸し借りなし?」

「そういう事」

「ふーん」

「なんだよ」

「別に」

 ストローを刺して一口飲むと、継原はそこでようやく笑った。

「ありがと」

「どういたしまして」

 これで終わり。昨日の借りは返した。

 そう思うと、胸の奥に引っ掛かっていた小さなものが取れたような気がした。

 やっぱりこの方が楽だ。

 借りも貸しも残さない方が、お互い余計な事を考えなくて済む。

 その日の放課後。

 日直だったクラスメイトが、教卓の上に積まれていたプリントをまとめて職員室へ運ぼうとしていた。

 かなりの量で、横を通り過ぎる時に一番上の束が傾くのが見えたので、反射的に手を伸ばして押さえる。

「危な」

「うわ、ありがとう」

「半分持つよ」

「いいの?」

「どうせ下まで行くし」

 二人で階段を降り、職員室前まで運ぶ。

 別れる時、そいつが申し訳なさそうに言った。

「今度なんか奢るわ」

「別にいいよ」

「でも手伝ってもらったし」

「俺が勝手に持っただけだから」

「そう? じゃあありがとな」

「ああ」

 それで終わる。

 教室へ戻ろうと振り返ると、少し離れた廊下に継原が立っていた。

「なに?」

「いや」

 継原はなぜか、俺と職員室の扉を交互に見ている。

「自分がした時は、返してもらわなくていいんだね」

「なにが?」

「今の」

「あぁ」

 言われて、さっきの会話を思い返す。

「別に、俺が勝手にやっただけだし」

「昨日の私も、勝手にやったんだけど」

「・・・・・・」

 言われてみればそうなのかもしれない。でも、何か違う。

「俺がしてもらった側だから」

「それ、理由になってる?」

「なってるだろ」

「全然分かんない」

「俺は分かってるからいいんだよ」

 継原は数秒こちらを見つめると、不意に小さく吹き出した。

「相原って面倒くさいね」

「昨日から失礼だな、お前」

「でも面白い」

「褒めてないだろ、それ」

「半分くらいは褒めてる」

「残り半分は?」

「変な人」

 結局ほぼ褒めていなかった。

 継原はそのまま俺の横を通り過ぎ、数歩進んだところで振り返る。

「ねえ、相原」

「ん?」

「親切って、返さないと駄目なの?」

 唐突な問いに、少しだけ考える。

「駄目ってわけじゃないけど」

「じゃあ返さなくてもいいじゃん」

「俺は嫌」

「なんで?」

 今度はすぐに答えが出なかった。

 借りっぱなしが嫌だから。それは間違いない。でも、なぜ嫌なのかまで考えた事はない。

「・・・・・・なんか落ち着かないんだよ」

「ふーん」

「納得してない顔すんな」

「してないから」

 継原はあっさり答えると、今度こそ教室へ戻っていった。俺も少し遅れてその背中を追う。

 親切されたら返す。自分がした事には、別に返してもらわなくていい。

 今まで、それをおかしいと思った事はなかった。

 俺が借りを残したくないだけで、相手がどうするかは相手の自由なのだから、別に矛盾もしていない。

 そう思う。思うのだけれど、教室へ戻るまでの短い廊下で、さっきの継原の言葉だけが妙に頭に残った。

『昨日の私も、勝手にやったんだけど』

 確かに。

 それなら俺は、昨日なにを返したんだろう。