綾瀬が転校するまでの時間は、思っていたより早く過ぎていった。
転校すると聞いた直後は、きっと毎日その事ばかり考えるようになると思っていたし、あと何日、あと何回一緒に帰れる、あと何回隣で話せると、綾瀬が嫌がっていたように全部を残り回数へ変えてしまう気がしていた。
けれど実際は、そうでもなかった。
「永瀬くん、ここ分かんない」
「昨日も似たようなのやっただろ」
「昨日の私と今日の私は違うので」
「便利な言い訳だな」
いつも通り数学を教えて、昼休みにはどうでもいい話をして、放課後になれば一緒に帰る。
もちろん、転校の事を忘れていた訳じゃない。
ふとした瞬間には思い出すし、この席も、この帰り道も、隣を歩く綾瀬も、もうすぐ日常ではなくなるのだと考えれば、胸の奥が少しだけ重くなる。
それでも、俺達は残り日数を数えなかった。
数えたところで一日が長くなる訳じゃないし、終わりを意識するために今を使うくらいなら、今日を今日として過ごした方がいい。
綾瀬が転校の事を言いたくなかった理由も、今なら少し分かる気がした。
§
転校前、最後の登校日。
放課後になると綾瀬の机の周りにはクラスメイトが集まり、写真を撮ったり、連絡先を確認したり、「絶対遊びに来てね」と何度も念を押したりしていた。
綾瀬はその一つ一つに笑って応えていた。
俺は少し離れた席から、その様子を眺めている。
最後だからといって、俺だけが綾瀬を独占する理由なんてないし、長く付き合ってきた友達と過ごしたいなら、その方がいい。
そう思いながら鞄を閉じたところで、
「永瀬くん」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、いつの間にか綾瀬が俺の机の前に立っていた。
「もう帰る?」
「そのつもり」
「じゃあ、一緒に帰ろ」
「友達は?」
「もういっぱい話したから」
「俺とは?」
口にしてから、少しだけ図々しかったかと思った。
けれど綾瀬は、迷う様子もなく笑った。
「まだ足りない」
その一言だけで、胸の奥に引っ掛かっていたものが少し軽くなる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ帰るか」
「帰ろ」
俺達はいつもの道を、いつものように並んで歩いた。
見慣れたコンビニがあって、その先には何度も通り過ぎた自販機があり、少し歩けばいつも信号待ちをする交差点がある。
景色は昨日までとなにも変わらない。
なのに今日は、その一つ一つが妙に目についた。
明日から綾瀬がこの道を歩かないと知っているだけで、見慣れたはずの景色に輪郭がついたような気がする。
「なんか変な感じ」
綾瀬が言った。
「なにが?」
「明日から、この道歩かないんだなって」
「そうだな」
「永瀬くんとも、学校で会わないし」
「ああ」
「寂しい?」
不意打ちだった。
「・・・・・・まぁ」
「まぁ?」
「寂しいよ」
言い直すと、綾瀬は少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「別に」
「顔に出てる」
「永瀬くん、そういうの見るよね」
「観察だから」
「また言ってる」
「癖なんだよ」
「じゃあ、これからも観察する?」
その言葉に、俺は綾瀬を見る。
「出来るなら」
「遠くなるよ」
「遠くても連絡は出来るだろ」
「・・・・・・うん」
「電話もあるし、会おうと思えば会える」
綾瀬は少し黙ってから、小さく笑った。
「未来の事なのに、珍しく言い切るんだね」
「別に未来を当ててる訳じゃない」
「じゃあ?」
「そうしたいって決めてるだけ」
自分で口にしてから、少しだけ驚いた。
以前の俺なら、こんな言い方はしなかったと思う。
未来は分からないし、この先なにが起きるのかも、誰がどう変わっていくのかも、今の俺には知りようがない。
でも。
だからといって、なにも選べない訳じゃない。
分からないままでも、自分がどうしたいかくらいは決められる。
「・・・・・・永瀬くん」
「ん?」
「私も、会いたい」
今度は訊かなかった。
その言葉がどういう意味なのか、どこまで俺と同じなのか、今ここで全部を確かめようとは思わなかった。
ただ、俺も同じだという事だけは伝えたかった。
「俺も」
短く答える。
それで十分だった。
§
いつもの別れ道に着く。
昨日までなら、ここで「また明日」と言って別れていた。
でも明日、綾瀬はもうこの町にはいない。
「じゃあね」
綾瀬が片手を上げる。
「おう」
俺も軽く手を返す。
綾瀬は一歩進み、それからすぐに立ち止まった。
「永瀬くん」
「ん?」
「円周率ってさ」
突然の話題に、俺は少し首を傾げる。
「まだ好き?」
「なんだよ急に」
「いいから」
「好きだけど」
「なんで?」
最初に話した時と、似たような質問だった。
俺は少し考える。
以前なら、迷わずこう答えていた。
終わらないくせに、ちゃんと決まっているから。
一見すると複雑でも、その奥には必ず筋道があるから。
それは今でも変わらない。
「・・・・・・終わらないところ」
「そこ?」
「ああ」
「前と同じじゃん」
「ちょっと違う」
「どう違うの?」
俺は少しだけ空を見上げた。
夕方の空にはまだ明るさが残っていて、昼と夜のどちらにも決まり切らない色が広がっている。
「前は、終わらないのに全部決まってるところが好きだった」
「うん」
「今は、終わらないって事自体が、ちょっといいなと思う」
綾瀬が目を瞬く。
「終わらないなら、まだ先があるから?」
あの日と同じ言葉だった。
俺は思わず笑う。
「それ、最初に綾瀬が言ったやつだろ」
「覚えてたんだ」
「そりゃな」
「じゃあ私のおかげ?」
「少しだけ」
「少しなんだ」
「調子乗るから」
「ひど」
綾瀬が笑い、それにつられて俺も笑った。
円周率は、どこまで行っても終わらない。
3.14の次には1が来て、その次には5が来る。
数字の並びは最初から決まっていて、今の俺がその先を知らなくても、答えそのものはもう存在している。
でも、人間は違う。
今日の続きを明日どう生きるのか、その答えがどこかに最初から書かれている訳ではない。
同じ気持ちを抱えていても、同じ願いを持っていても、その時になれば違う選択をするかもしれないし、昨日まで想像もしなかった方へ進む事だってある。
だから未来は分からない。
十七歳の俺には、自分がこの先どうなるのかも、綾瀬とこれからどうなるのかも、まだ何一つ分からない。
でも。
分からない事は、終わっている事とは違う。
まだ答えがないという事は、その先になにもないという意味じゃない。
むしろ、まだその続きを選べるという事なのだと思う。
「じゃあ、またね」
綾瀬が言った。
明日でもなく。
いつとも決めず。
ただ、また。
「ああ」
俺は頷く。
「またな」
綾瀬は今度こそ歩き出した。
少しずつ遠ざかっていく背中をしばらく見送ってから、俺も自分の帰る方向へ歩き出す。
円周率が好きだ。
終わらないくせに、ちゃんと決まっている。
今でも、それは変わらない。
ただ。
決まっていないくせに、それでも続いていくものも。
案外、悪くないと思えるようになった。
転校すると聞いた直後は、きっと毎日その事ばかり考えるようになると思っていたし、あと何日、あと何回一緒に帰れる、あと何回隣で話せると、綾瀬が嫌がっていたように全部を残り回数へ変えてしまう気がしていた。
けれど実際は、そうでもなかった。
「永瀬くん、ここ分かんない」
「昨日も似たようなのやっただろ」
「昨日の私と今日の私は違うので」
「便利な言い訳だな」
いつも通り数学を教えて、昼休みにはどうでもいい話をして、放課後になれば一緒に帰る。
もちろん、転校の事を忘れていた訳じゃない。
ふとした瞬間には思い出すし、この席も、この帰り道も、隣を歩く綾瀬も、もうすぐ日常ではなくなるのだと考えれば、胸の奥が少しだけ重くなる。
それでも、俺達は残り日数を数えなかった。
数えたところで一日が長くなる訳じゃないし、終わりを意識するために今を使うくらいなら、今日を今日として過ごした方がいい。
綾瀬が転校の事を言いたくなかった理由も、今なら少し分かる気がした。
§
転校前、最後の登校日。
放課後になると綾瀬の机の周りにはクラスメイトが集まり、写真を撮ったり、連絡先を確認したり、「絶対遊びに来てね」と何度も念を押したりしていた。
綾瀬はその一つ一つに笑って応えていた。
俺は少し離れた席から、その様子を眺めている。
最後だからといって、俺だけが綾瀬を独占する理由なんてないし、長く付き合ってきた友達と過ごしたいなら、その方がいい。
そう思いながら鞄を閉じたところで、
「永瀬くん」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、いつの間にか綾瀬が俺の机の前に立っていた。
「もう帰る?」
「そのつもり」
「じゃあ、一緒に帰ろ」
「友達は?」
「もういっぱい話したから」
「俺とは?」
口にしてから、少しだけ図々しかったかと思った。
けれど綾瀬は、迷う様子もなく笑った。
「まだ足りない」
その一言だけで、胸の奥に引っ掛かっていたものが少し軽くなる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ帰るか」
「帰ろ」
俺達はいつもの道を、いつものように並んで歩いた。
見慣れたコンビニがあって、その先には何度も通り過ぎた自販機があり、少し歩けばいつも信号待ちをする交差点がある。
景色は昨日までとなにも変わらない。
なのに今日は、その一つ一つが妙に目についた。
明日から綾瀬がこの道を歩かないと知っているだけで、見慣れたはずの景色に輪郭がついたような気がする。
「なんか変な感じ」
綾瀬が言った。
「なにが?」
「明日から、この道歩かないんだなって」
「そうだな」
「永瀬くんとも、学校で会わないし」
「ああ」
「寂しい?」
不意打ちだった。
「・・・・・・まぁ」
「まぁ?」
「寂しいよ」
言い直すと、綾瀬は少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「別に」
「顔に出てる」
「永瀬くん、そういうの見るよね」
「観察だから」
「また言ってる」
「癖なんだよ」
「じゃあ、これからも観察する?」
その言葉に、俺は綾瀬を見る。
「出来るなら」
「遠くなるよ」
「遠くても連絡は出来るだろ」
「・・・・・・うん」
「電話もあるし、会おうと思えば会える」
綾瀬は少し黙ってから、小さく笑った。
「未来の事なのに、珍しく言い切るんだね」
「別に未来を当ててる訳じゃない」
「じゃあ?」
「そうしたいって決めてるだけ」
自分で口にしてから、少しだけ驚いた。
以前の俺なら、こんな言い方はしなかったと思う。
未来は分からないし、この先なにが起きるのかも、誰がどう変わっていくのかも、今の俺には知りようがない。
でも。
だからといって、なにも選べない訳じゃない。
分からないままでも、自分がどうしたいかくらいは決められる。
「・・・・・・永瀬くん」
「ん?」
「私も、会いたい」
今度は訊かなかった。
その言葉がどういう意味なのか、どこまで俺と同じなのか、今ここで全部を確かめようとは思わなかった。
ただ、俺も同じだという事だけは伝えたかった。
「俺も」
短く答える。
それで十分だった。
§
いつもの別れ道に着く。
昨日までなら、ここで「また明日」と言って別れていた。
でも明日、綾瀬はもうこの町にはいない。
「じゃあね」
綾瀬が片手を上げる。
「おう」
俺も軽く手を返す。
綾瀬は一歩進み、それからすぐに立ち止まった。
「永瀬くん」
「ん?」
「円周率ってさ」
突然の話題に、俺は少し首を傾げる。
「まだ好き?」
「なんだよ急に」
「いいから」
「好きだけど」
「なんで?」
最初に話した時と、似たような質問だった。
俺は少し考える。
以前なら、迷わずこう答えていた。
終わらないくせに、ちゃんと決まっているから。
一見すると複雑でも、その奥には必ず筋道があるから。
それは今でも変わらない。
「・・・・・・終わらないところ」
「そこ?」
「ああ」
「前と同じじゃん」
「ちょっと違う」
「どう違うの?」
俺は少しだけ空を見上げた。
夕方の空にはまだ明るさが残っていて、昼と夜のどちらにも決まり切らない色が広がっている。
「前は、終わらないのに全部決まってるところが好きだった」
「うん」
「今は、終わらないって事自体が、ちょっといいなと思う」
綾瀬が目を瞬く。
「終わらないなら、まだ先があるから?」
あの日と同じ言葉だった。
俺は思わず笑う。
「それ、最初に綾瀬が言ったやつだろ」
「覚えてたんだ」
「そりゃな」
「じゃあ私のおかげ?」
「少しだけ」
「少しなんだ」
「調子乗るから」
「ひど」
綾瀬が笑い、それにつられて俺も笑った。
円周率は、どこまで行っても終わらない。
3.14の次には1が来て、その次には5が来る。
数字の並びは最初から決まっていて、今の俺がその先を知らなくても、答えそのものはもう存在している。
でも、人間は違う。
今日の続きを明日どう生きるのか、その答えがどこかに最初から書かれている訳ではない。
同じ気持ちを抱えていても、同じ願いを持っていても、その時になれば違う選択をするかもしれないし、昨日まで想像もしなかった方へ進む事だってある。
だから未来は分からない。
十七歳の俺には、自分がこの先どうなるのかも、綾瀬とこれからどうなるのかも、まだ何一つ分からない。
でも。
分からない事は、終わっている事とは違う。
まだ答えがないという事は、その先になにもないという意味じゃない。
むしろ、まだその続きを選べるという事なのだと思う。
「じゃあ、またね」
綾瀬が言った。
明日でもなく。
いつとも決めず。
ただ、また。
「ああ」
俺は頷く。
「またな」
綾瀬は今度こそ歩き出した。
少しずつ遠ざかっていく背中をしばらく見送ってから、俺も自分の帰る方向へ歩き出す。
円周率が好きだ。
終わらないくせに、ちゃんと決まっている。
今でも、それは変わらない。
ただ。
決まっていないくせに、それでも続いていくものも。
案外、悪くないと思えるようになった。
