円周率の続きに、君がいる

翌日、綾瀬は学校を休んだ。

 朝のホームルームが始まっても隣の席は空いたままで、担任は出席簿を確認しながら「綾瀬は家庭の都合で欠席」とだけ告げた。

 家庭の都合。

 その言葉を聞いた瞬間、昨日の昼休みに綾瀬が言っていた事を思い出す。

『家の事で、ちょっとね』

 どうやら無関係ではないらしい。

 けれど、本人が話したくない事をこっちから訊くつもりはなかったし、そのうち話したくなれば向こうから話すだろうと、昨日までの俺ならそれで終わらせられたはずだった。

 ただ、休み時間になるたび無意識に隣の席へ目が向いてしまう。

 いつもなら勝手に俺のノートを覗き込んだり、どうでもいい話を振ってきたりする奴がいないだけで、教室全体が妙に静かになったように感じた。

 もちろん、実際はそんな事ない。

 周囲ではいつも通り誰かが喋っているし、笑い声だって飛び交っている。

 静かなのは、俺の隣だけだ。

「・・・・・・なんだかな」

 独り言を零しながら、ノートの隅へいつもの数字を書いていく。

 3.141592653589793238・・・・・・。

 途中まで書いたところで、手が止まった。

 昨日の別れ際、綾瀬は言った。

『じゃ、また明日ね』

 俺も、

『ああ。また明日』

 と返した。

 なのに今日は、綾瀬がいない。

 別におかしな事ではなく、人間なんだから急に学校を休む日くらいあるし、そんな当たり前の事は俺だって分かっている。

 それでも俺は昨日、今日の綾瀬を勝手に想像していた。

 朝になれば隣に座って、休み時間になれば話しかけてきて、また数学の問題でも持ってくる。

 そんな一日を、なんの根拠もないまま当然の続きを思い描いていた。

 円周率なら、3.14の次には必ず1が来る。

 そこには揺らぎがない。

 でも、人間は違う。

 昨日までの綾瀬をどれだけ知っていたとしても、今日の綾瀬がなにを選ぶかまで分かる訳じゃない。

 そんな当たり前の事を、隣の空席一つで思い知らされた気がした。

§

 綾瀬が登校してきたのは、その翌日だった。

「おはよ」

 いつもと変わらない調子で席に着き、鞄を机の横へ掛ける。

「おう」

「なに?」

「いや」

「顔になんか付いてる?」

「付いてない」

「じゃあなんで見てるの?」

「昨日休んでたから」

「ああ」

 綾瀬は鞄から教科書を取り出しながら、なんでもない事のように答える。

「ちょっと家の用事」

「そっか」

「・・・・・・それだけ?」

「他になんかある?」

「ないけど」

 綾瀬は少しだけ笑った。

 以前なら、それで終わっていたと思う。

 けれど今日は、その横顔になぜか小さな引っ掛かりを覚えた。

 いつもと同じように見える。

 笑い方も、声も、仕草も、目立って変わったところなんてない。

 それなのに、どこか無理をしているような気がする。

 俺が勝手にそう見ているだけかもしれないし、人間は一度なにかを気にし始めると、なんでも意味があるように見えてしまうものだ。

「今日、数学教えてくれる?」

「いいけど」

「やった」

 いつも通り。

 だから俺も、いつも通り接する事にした。

 昼休みには問題集を二人で覗き込み、放課後には一緒に帰る。

 綾瀬は昨日学校を休んだ分まで取り戻すみたいによく喋ったけれど、家の事には一度も触れなかったし、俺も訊かなかった。

 それでいい。

 少なくとも、その時はそう思っていた。

 けれど、それから数日の綾瀬は、少しずつ俺の知っている動き方から外れていった。

 俺と一緒に帰った翌日は友達と帰り、昼休みに俺の席へ来たかと思えば、次の日はほとんど話しかけてこない。

 数学の問題を持ってきた日はいつも通り笑っていたのに、その翌日には目が合ってもすぐ逸らされる。

 近付いたと思ったら離れる。

 離れたと思ったら、また近付く。

 今まで以上に法則が見えなかった。

 最初は気のせいだと思おうとしたけれど、一度意識してしまうと、どうしても理由を考えてしまう。

 俺がなにかしたのか。

 校舎裏まで行った事が、本当は嫌だったのか。

 一緒に帰る事に飽きたのか。

 それとも、そもそも俺だけが勝手に距離が近付いたと思っていたのか。

「・・・・・・分からん」

 ノートの余白へ円周率を書きながら、小さく呟く。

 3.1415926535・・・・・・。

 数字ならいい。

 分からなければ、その続きを調べればいいし、そこには必ず正しい答えがある。

 でも、綾瀬にはそれがない。

 いや。

 ない訳じゃない。

 綾瀬の中には、きっと綾瀬なりの筋道があって、俺にはまだそれが見えていないだけだ。

 なら、知ればいい。

 そう考えたところで、ふとシャーペンの先が止まった。

 理由を知りたい。

 でも。

 もし、その理由が俺から離れたいからだったら?

 そう考えた途端、今まで欲しいと思っていたはずの答えが、急に怖くなった。

 そこで初めて気付く。

 俺はもう、ただ綾瀬を理解したいだけじゃない。

 綾瀬に、離れてほしくないと思っている。

§

「綾瀬」

 放課後、帰り支度を終えて席を立とうとしていた彼女を呼び止めると、綾瀬は鞄を持ったまま振り返った。

「ん?」

「今日、一緒に帰らない?」

 いつもなら、あっさり頷く。

 そう思っていた。

 けれど綾瀬は、一瞬だけ困ったような顔をした。

「・・・・・・ごめん。今日は友達と帰る約束してる」

「ああ、そっか」

「うん」

「じゃあまた」

「・・・・・・またね」

 それだけ言って、綾瀬は教室を出ていった。

 別におかしくない。

 友達と帰る約束くらいするだろうし、俺より付き合いの長い友達だって大勢いる。

 頭では分かっている。

 なのに、胸の奥には小さな棘みたいなものが残った。

 昨日まで俺を頼っていた。

 俺といると楽だと言った。

 一番聞きやすいとも言った。

 なら今日は、どうして俺じゃない?

 そこまで考えたところで、自分で自分が嫌になった。

 なんだそれ。

 いつから俺は、綾瀬が自分を選ぶのを当然だと思うようになったんだ。

 彼女が誰と帰ろうと自由だし、誰を頼ろうと、誰と一緒にいたいと思おうと、それは全部綾瀬が決める事だ。

 そんな事は分かっている。

 それでも、分かっている事と納得出来る事は別だった。

 そして数日後。

 その理由は、俺が想像していたものとはまるで違う形で明かされた。

§

「永瀬くん、今日ちょっと時間ある?」

 放課後。

 綾瀬の方から、珍しく真剣な顔で声を掛けてきた。

「あるけど」

「少し話したい」

 俺達は以前二人で座った、校舎裏のベンチへ向かった。

 夕方の風が木の葉を揺らし、制服越しに触れる空気も、少し前より涼しくなっている。

 隣に座った綾瀬は、しばらくなにも言わなかった。

 俺も待つ。

 でも今日は、以前とは違う。

 綾瀬が話すために俺を呼んだ。

 だから、待てばいい。

「私さ」

「うん」

「転校するんだ」

 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

「・・・・・・転校?」

「うん」

「いつ?」

「来月」

「来月って・・・・・・」

 思っていたより、ずっと近い。

 なにか言わなければと思ったのに、続く言葉が見つからなかった。

 綾瀬は膝の上で指を組み、そこへ視線を落としている。

「お父さんの仕事の都合で、引っ越す事になって」

「それが、この前言ってた家の事?」

「うん」

「いつから知ってた?」

「・・・・・・少し前」

 その答えを聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。

「少し前って?」

「永瀬くんと話すようになった頃には、可能性は聞いてた。決まったのは、この前」

「そっか」

 それしか言えなかった。

 頭の中では、最近の綾瀬の行動が次々と浮かんでいた。

 急に距離を取った日。

 俺ではなく友達と帰った日。

 一人で校舎裏にいた日。

 いつもより妙に明るく喋っていた日。

 それまでバラバラに見えていたものが、一つずつ繋がっていく。

「だから最近、変だったのか」

「・・・・・・気付いてた?」

「少し」

「そっか」

「なんで言わなかったんだよ」

 責めるつもりはなかった。

 でも、自分でも思っていたより強い声が出た。

 綾瀬が少しだけ目を伏せる。

「言ったら、終わりが見える気がしたから」

「終わり?」

「転校するって言ったらさ」

 綾瀬は小さく息を吐いてから、ゆっくり言葉を続けた。

「それから毎日、あと何日って数えちゃいそうで。一緒に帰ってても、これもあと何回かなとか、休み時間に話してても、もうすぐ出来なくなるんだなとか」

 そこで一度、言葉が止まる。

「嫌だったんだよね。そうなるのが」

 俺はなにも言えなかった。

「だから普通にしてたかった。でも普通にしようとすると、今度は永瀬くんといるのが楽しくて」

「・・・・・・」

「もっと一緒にいたくなるし」

 綾瀬は困ったように笑った。

「それで、ちょっと離れようとした」

 ようやく分かった。

 俺を嫌いになった訳じゃなかった。

 近付くほど、離れる時が辛くなる。

 だから、自分から少し距離を取ろうとした。

 でも本当は一緒にいたいから、また俺のところへ戻ってくる。

 転校の事を言えば関係そのものが変わってしまう気がして、だから黙っていた。

 一見すると、どれも違う選択に見える。

 近付く。

 離れる。

 黙る。

 また近付く。

 けれど、その根っこには全部同じものがあった。

 俺との関係を壊したくない。

 大切だからこそ、失うのが怖い。

 綾瀬の行動は、バラバラなんかじゃなかった。

 ちゃんと、綾瀬なりの筋が通っていた。

「・・・・・・なんだよ」

「え?」

「ちゃんと理由あるじゃん」

 思わず、そんな言葉が漏れた。

「なにそれ」

「最近の綾瀬、意味分かんなかったから」

「ごめん」

「別に謝ってほしい訳じゃない」

 理由は分かった。

 俺がずっと知りたかったもの。

 綾瀬の行動の奥にあった筋道。

 それを知れば、きっと全部納得出来ると思っていたし、実際、一見矛盾して見える行動にもちゃんと理由があるという俺の考え自体は間違っていなかった。

 ただ。

 その先でもう一つ、俺は勘違いしていた。

 理由が分かれば、次に何をするのかまで分かる。

 どこかで、そう思っていた。

 でも違う。

 俺との関係を大切にしたい。

 同じその気持ちから、綾瀬は転校を黙る事も出来たし、自分から離れる事も出来た。

 逆に、もっと一緒にいたいと思って近付く事だって出来た。

 根っこは同じでも、そこから選ばれる行動は一つじゃない。

 心に筋が通っている事と。

 次の行動まで一本に決まっている事は。

 同じじゃない。

 円周率なら、3.14の次には必ず1が来る。

 でも綾瀬は、円周率じゃない。

 綾瀬の中に変わらないものがあったとしても、それを抱えたまま次になにを選ぶかまでは、俺には決められない。

 そう気付いた瞬間、来月には綾瀬がいなくなるという事実が、急に輪郭を持って迫ってきた。

 転校したあと、俺達はどうなる?

 連絡を取り続けるのか。

 いつか疎遠になるのか。

 また会えるのか。

 そして俺は、綾瀬がいなくなったあとも今日みたいにその姿を探して、明日も話したいと思って、もっと一緒にいたかったと何度も思い返すのだろうか。

 ・・・・・・いや。

 そこまで考えたところで、ようやく腑に落ちた。

 俺は、綾瀬と離れたくない。

 もっと話したいし、もっと笑っているところを見たい。

 まだ知らない綾瀬を、この先も知っていきたい。

 それはもう、観察でも好奇心でもなかった。

 ずっと答えを出すのを避けていただけだ。

 ああ。

 俺は、綾瀬円が好きなんだ。

 分かってしまえば、呆れるほど単純だった。

 他人の心には法則があるだの、理由を知れば理解出来るだのと考えていたくせに、一番身近な自分の心に気付くのが最後だったらしい。

「永瀬くん?」

 黙り込んだ俺を、綾瀬が不思議そうに覗き込む。

「・・・・・・俺さ」

「うん」

「綾瀬の事、ずっと分かりたいと思ってた」

「私の事?」

「なんでこうするのかとか、なんでああ言うのかとか。そういうのを知っていけば、いつか綾瀬って人間が分かる気がしてた」

 綾瀬は黙って聞いている。

「でも、分かるって・・・・・・次を当てる事じゃないんだな」

「・・・・・・どういう事?」

「さっきの話。綾瀬が俺と離れたくないと思ってても、だから近付くとは限らないし、逆に距離を取る事だってある」

「うん」

「同じ気持ちでも、その時によって選ぶものは違う」

 口にしながら、ようやく自分の中でもぼんやりしていたものが言葉になっていく。

「俺はずっと、綾瀬の事を知っていけば、そのうち次になにをするかまで分かる気がしてた。でも、たぶん違う」

「・・・・・・うん」

「分かるって、そういう事じゃない」

 俺は綾瀬を見る。

「綾瀬がなにを選んでも、なんでそうしたのかを、あとから少しずつ知っていく事なんだと思う」

 綾瀬の目が、少しだけ見開かれた。

「転校したあとどうなるかも分かんない。俺達がどうなるのかも分からない」

 そこで一度息を吐き、今度は目を逸らさずに続ける。

「でも・・・・・・それでも、その先を知りたい」

 綾瀬の表情が止まる。

「綾瀬の続きを、もっと見たい」

 これは告白なのかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 でも、「好き」という二文字を口にするより、この言葉の方が今の俺にはずっと正しかった。

 綾瀬はしばらく黙ったあと、困ったように笑う。

「・・・・・・ずるいなぁ」

「なにが?」

「そんな事、今言う?」

「悪い」

「別に悪くないけど」

 綾瀬は俯く。

 長い髪に隠れた頬が、ほんの少し赤くなっているように見えた。

「私も」

 小さな声だった。

「永瀬くんといる時間、好きだよ」

 胸が強く鳴る。

 でも、その「好き」がどこまでの意味なのかは分からない。

 友達としてなのか。

 それとも、俺と同じなのか。

 答えは欲しい。

 当然、知りたい。

 けれど今、その一言だけで綾瀬の心全部を決めてしまう事は出来なかった。

 俺が自分の気持ちに気付くまでだって、こんなに時間が掛かったのだから。

「・・・・・・そっか」

「うん」

「それなら、よかった」

「それだけ?」

「他になんて言えばいいんだよ」

「知らない」

「本人が分からないなら、俺にも分からん」

 以前にもしたようなやり取りに、綾瀬が小さく笑った。

「やっぱ永瀬くんだね」

「どういう意味?」

「聞かないんだ」

「・・・・・・聞いてほしい?」

 以前と同じ問いを返すと、綾瀬は少し考えてから、ゆっくり首を振った。

「今は、いい」

「じゃあ聞かない」

「うん」

 その日は、二人で並んで帰った。

 帰り道はいつもと同じで、どうでもいい話をして、笑って、時々黙る。

 ただ一つ違うのは、その時間に終わりがあると知ってしまった事だった。

 そしてもう一つ。

 俺はようやく、自分がなぜ綾瀬の続きを知りたかったのかを知った。

 好きだから。

 答えは、驚くほど簡単だった。

 でも、その答えが分かったからといって、この先まで分かった訳じゃない。

 綾瀬の中には、綾瀬なりの変わらないものがある。

 俺との関係を大切にしたいと思う気持ちも、傷つきたくないと思う気持ちも、きっと明日になったからといって全部消えてしまう訳じゃない。

 今日までの綾瀬を抱えたまま、その続きの綾瀬になる。

 3.14に一つ数字が加わって、3.141になるように。

 それまでの全部が消える訳ではない。

 ただ、その「1」が現実の中でどんな選択になるのかまでは、俺には分からない。

 近付くのか。

 離れるのか。

 頼るのか。

 黙るのか。

 その時になって、初めて分かる。

 なら俺に出来るのは、次の数字を当てる事じゃない。

 綾瀬が選んだその続きを、そのたびにまた一つ知っていく事だけなのだろう。

 そう思うと、不思議と少しだけ気が楽になった。

 先が分からない事は、きっと怖い。

 それでも。

 まだ続いている。

 今は、それだけで十分だった。