円周率の続きに、君がいる

それから、綾瀬が俺の席へ来る事は少しずつ増えていった。

 数学の問題を聞きに来る日もあれば、特に用事もないくせに隣の席へ腰掛け、その日の授業や友達の話なんかを適当に喋っていく日もある。

「永瀬くんって、休み時間なにしてるの?」

「見て分からない?」

「数字書いてる」

「分かってるじゃん」

「いや、それ以外」

「それ以外って言われてもな」

「友達と喋ったりしないの?」

「するよ。毎時間ずっと誰かと喋ってないと死ぬ病気じゃないだけで」

「私がそうみたいに言わないでよ」

「大体そうだろ」

「失礼だなぁ」

 俺の机の横に座った綾瀬が、むっと頬を膨らませる。

 最初の頃は、どうして俺なんかにわざわざ話しかけてくるのか分からず、そのたびに理由を探そうとしていた気がするけれど、最近ではそれをいちいち考える事も減っていた。

 綾瀬が来れば話す。

 来なければ、少しだけ気になる。

 そんな状態が、いつの間にか俺達の間では当たり前になりつつあった。

「そういえばさ」

「ん?」

「永瀬くんって、円周率どこまで言えるの?」

「百桁くらいなら」

「うわ」

「なんだよ」

「普通に引いた」

「聞いといてその反応やめろ」

「だって想像の三倍くらい気持ち悪かった」

「褒め言葉として受け取っとくわ」

「どういう精神してるの」

 綾瀬は笑いながら俺のノートを勝手に引き寄せると、暇潰しに書いていた数字の列へ目を落とした。

 3.141592653589793238462643383279・・・・・・。

「これさ」

「うん」

「次の数字、全部決まってるんだよね?」

「まぁ」

「じゃあ未来も同じなのかな」

 それまで軽かった会話の中へ、不意に似つかわしくない言葉が落ちてきた。

「未来?」

「だってさ。今がここだとして」

 そう言いながら、綾瀬は数字の途中を指先で示す。

「ここまではもう分かってる訳でしょ」

「そうだな」

「で、次も決まってる」

「円周率ならな」

「だったら人生も、もう全部決まってたりして」

「急に怖い話するじゃん」

「そう?」

「少なくとも俺は嫌だけど」

「なんで?」

「全部決まってるなら、考える意味ないだろ」

「でも楽じゃない?」

「楽かもしれないけど、それってつまらなくない?」

 俺がそう答えると、綾瀬は少し意外そうに目を瞬いた。

「永瀬くん、そういう事言うんだ」

「どういう意味だよ」

「もっと全部分かってたい人だと思ってた」

「分かりたいのと、決まっててほしいのは違うだろ」

「・・・・・・そっか」

 綾瀬はそれだけ言って、もう一度ノートへ目を落とした。

 数字を見ているというより、その向こう側になにか別のものを考えているようにも見えたけれど、俺はそれ以上訊かなかった。

 以前なら、どうしてそんな事を言ったのか知りたくなっていたと思う。

 けれど最近は、綾瀬が黙る時には黙りたいなりの理由があるのだと、少しだけ分かってきた。

 無理に言葉を引き出さなくても、そのうち話したくなれば向こうから話す。

 そんな距離の取り方が、俺には案外心地よかった。

§

 数日後の放課後、部活へ向かう生徒や友達と帰る生徒が次々と教室を出ていき、気付けば残っているのは俺と綾瀬を含めて数人だけになっていた。

「今日、一緒に帰らない?」

 帰り支度を終えた綾瀬が、鞄を持ったまま当然のような顔で言った。

「別にいいけど」

「やった」

「そんな喜ぶ事?」

「一人で帰るより暇しないから」

「暇潰しかよ」

「いいじゃん、役に立ってるんだから」

 なんとも雑な誘い方だったが、だからといって断る理由もなく、俺達は並んで校門を出た。

 夏の終わりが近付いているとはいえ、夕方の空気にはまだ昼間の熱が残っていて、住宅街へ続く道を歩いているだけでも制服の背中がじんわりと暑い。

 そんな中でも綾瀬はよく喋った。

 今日の授業が眠かったとか、担任のネクタイが絶望的にダサいとか、購買の焼きそばパンが売り切れていたとか、本当にどうでもいい話ばかりなのに、不思議と聞いていて退屈はしなかった。

「永瀬くんってさ」

「今度はなに」

「人に興味なさそうだよね」

「急に失礼だな」

「違う違う。悪い意味じゃなくて」

「良い意味で人に興味なさそうってどういう事だよ」

「なんていうか・・・・・・必要以上に踏み込まないっていうか」

 綾瀬は前を向いたまま、少し言葉を探すように続ける。

「前もそうだったじゃん。私がノート持つの断った時」

「ああ」

「普通なら、遠慮しなくていいって言ったり、無理矢理持ったりする人もいるし」

「それが嫌だったの?」

「嫌って訳じゃないけど」

「また難しいな」

「私にも分かんない」

「本人が分かってないなら、俺に分かる訳ないだろ」

「でしょ?」

 綾瀬は楽しそうに笑ったあと、ほんの少しだけ歩調を緩めた。

「でも、永瀬くんは聞かなかったから」

「聞いてほしくなさそうだったし」

「うん」

「なら、それでいいだろ」

「・・・・・・そういうとこ、楽なんだよね」

 その言葉に、俺は思わず横を見る。

 綾瀬は特に照れた様子もなく、さっきまでと同じ歩調で前を向いていた。

「楽?」

「変に気を遣わなくていいっていうか」

「それ褒めてる?」

「褒めてるよ」

「ならいいけど」

 なんとなく視線を前へ戻したものの、胸の奥には妙なむず痒さが残った。

 一番聞きやすい。

 一緒にいると楽。

 綾瀬がそういう言葉を口にするたび、俺の中では自分でも説明しづらい小さな喜びが生まれる。

 別に特別な意味なんてなくて、綾瀬にとって俺は単に話しやすい相手というだけなのだろう。

 それでも、そう思われている事を嬉しいと感じてしまう自分がいる。

 人間の心というのは、本当に面倒だ。

「永瀬くん?」

「ん?」

「またなんか考えてる?」

「別に」

「絶対考えてる」

「綾瀬って、人の顔よく見るよな」

「永瀬くんに言われたくない」

「俺は観察だから」

「なにそれ。同じでしょ?」

 綾瀬が声を上げて笑う。

 その笑顔を見ていると、さっきまで頭の中で捏ね回していた面倒な理屈が急にどうでもよくなり、ただ、この時間がもう少し続けばいいと思った。

 そう思った自分に気付いて、少しだけ驚いた。

§

 それから数日が経っても、綾瀬との関係は少しずつ形を変えながら続いていた。

 休み時間に話す。

 数学を教える。

 時々、一緒に帰る。

 やっている事だけ並べればそれだけなのに、以前とは明らかに違っていて、俺は綾瀬が教室にいないと無意識にその姿を探し、見つけると少し安心するようになっていた。

 その理由を、分かっているようでまだ分かっていない。

 ただ一つ確かなのは、もう綾瀬を単なる観察対象として見ている訳ではないという事だった。

 そんなある日の昼休み、俺は綾瀬が友達に声を掛けられても、

「ごめん、ちょっと」

 と笑って断り、一人で教室を出ていくのを見掛けた。

 昼休みに一人になる事自体は珍しくない。

 けれど、その日の綾瀬はいつもより少しだけ様子が違って見えた。

 笑ってはいた。

 声も普段と同じだった。

 それなのに、どこか無理をしているような気がした。

 俺はしばらく迷った。

 追い掛けるべきか、それとも放っておくべきか。

 以前なら、本人が一人になりたいならそれでいいと、そのまま席に残っていただろう。

 けれど、その日はどうしても気になった。

 結局、少し時間を置いて教室を出る。

 別に追い掛ける訳じゃない。

 昼飯も食べ終わったし、少し歩きたくなっただけだ。

 ・・・・・・我ながら、分かりやすい言い訳だった。

 綾瀬は校舎裏のベンチに座っていた。

 一人で俯き、手にしたスマホの画面を眺めているように見えるのに、指はほとんど動いていない。

「綾瀬」

 声を掛けると、彼女の肩がほんの少し揺れた。

「あ・・・・・・永瀬くん」

「ここいたんだ」

「うん」

「隣いい?」

「どうぞ」

 俺は少し間を空けて腰を下ろした。

 何があったのかは訊かなかったし、綾瀬もなにも言わない。

 いつものような明るさがない事だけは分かったけれど、それが何に由来するものなのかまでは分からない。

 しばらく沈黙が続き、遠くの校庭から運動部の掛け声だけが聞こえてくる。

 なにか話した方がいいのかとも思った。

 けれど、無理に沈黙を埋めたところで、綾瀬が今欲しがっているものとは違う気がして、結局俺は黙ったままでいた。

 すると数分後、綾瀬がぽつりと呟く。

「聞かないんだ」

「なにを?」

「なんでここにいるの、とか」

「聞いてほしい?」

「・・・・・・分かんない」

「なら聞かない」

「またそれ」

「嫌?」

「ううん」

 綾瀬は小さく首を振り、それから少しだけ笑った。

「やっぱ楽だなぁ、永瀬くん」

「それ二回目じゃない?」

「そんな言った?」

「言った」

「じゃあ、本当にそうなんだと思う」

 冗談めかして言ったあと、綾瀬はまた黙った。

 俺もなにも言わず、ただ隣に座っていると、しばらくして今度は向こうから口を開いた。

「家の事で、ちょっとね」

「そっか」

「それだけ?」

「それ以上言いたくないんだろ」

「・・・・・・うん」

「なら別に」

 俺がそう答えると、綾瀬はほんの少し目を細めた。

「永瀬くんって優しいね」

「そう?」

「うん」

「普通だと思うけど」

「普通じゃないよ」

 その声音は、いつもよりずっと静かだった。

 俺はなんとなく返す言葉を失い、代わりに綾瀬の横顔を見る。

 彼女は俺の視線に気付くと、今度は少しだけ柔らかく笑った。

「ありがと」

「なにもしてないけど」

「何もしないでいてくれたから」

「・・・・・・それ、礼言われる事?」

「私にはね」

 その言葉の意味を、俺はすぐには理解出来なかった。

 でも、無理に理解しようとは思わなかった。

 今は分からなくてもいい。

 少なくとも綾瀬がさっきより少しだけ楽そうにしているのなら、それだけで十分だった。

 それから昼休みが終わるまで、俺達はほとんどなにも話さずに隣り合って座っていた。

 会話らしい会話もない妙な時間だったけれど、不思議と居心地は悪くなかった。

§

 その日の放課後、帰り支度をしていると、綾瀬が俺の席までやって来た。

「今日はありがと」

「だから何もしてないって」

「それでも」

「なら、どういたしまして」

「うん」

 綾瀬は少しだけ笑う。

 いつもの明るい笑顔とは違う、もっと静かで柔らかい顔だった。

 その表情を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。

 昼休みに感じた安心とも、数学を教えた時の小さな嬉しさとも、少し違う。

 なにかが引っ掛かっている。

 でも、その正体を考える前に綾瀬が口を開いた。

「永瀬くんって、不思議だよね」

「綾瀬にだけは言われたくない」

「そう?」

「そう」

「でも私、永瀬くんの事は結構分かってきたよ」

「何が」

「そういう事言いながら、結局困ってたら来てくれるとことか」

「・・・・・・」

「あと、口悪いけど優しい」

「それ褒め方下手じゃない?」

「でも褒めてるよ」

 綾瀬は笑い、俺はなんとなくその顔をまともに見ていられなくなって、少しだけ視線を逸らした。

 今日の綾瀬を、また一つ知った。

 弱っている時には一人になりたがる。

 でも、本当に誰も必要としていない訳ではない。

 理由を訊かれるのは嫌でも、隣に誰かがいる事まで嫌な訳じゃない。

 そんな新しい一面が、また一つ増えた。

 3.14159。

 3.141592。

 3.1415926。

 昨日までの数字は消えない。

 その先へ、新しい一桁が増えていく。

 俺が綾瀬円という人間を知っていく感覚は、やっぱり少しそれに似ていた。

 それまで知っていた綾瀬を残したまま、その先にまた知らなかった彼女が現れる。

 それが嬉しい。

 もっと知りたい。

 次はどんな顔をするのか、どんな事を考えているのか、俺の知らない綾瀬がまだどれだけ続いているのか、その先を見てみたい。

 そこでようやく、俺は少しだけ認めた。

 これはもう、ただの好奇心ではないのかもしれない。

 ただ、それがなんなのか。

 そこまで答えを出す勇気は、まだなかった。

 綾瀬はそんな俺の胸中など知らず、いつもの調子へ少しだけ戻った声で笑う。

「じゃ、また明日ね」

「ああ。また明日」

 彼女が教室を出ていくのを見送りながら、俺はさっきの言葉を頭の中でもう一度繰り返した。

 また明日。

 明日も会える。

 明日も話せる。

 その次の日も、そのまた次の日も、きっと同じように続きを重ねていける。

 俺はなんの根拠もなく、そんな未来を当たり前のように思い描いていた。

 この時の俺はまだ知らなかった。

 綾瀬円に続きがある事と。

 その続きを、俺がずっと隣で見られる事は。

 同じではないという事を。