円周率の続きに、君がいる

円周率が好きだ。

 そう言うと、大抵の人間は少し変な顔をする。

 まぁ、分からなくもない。3.14159265358979323846・・・・・・なんて数字を眺めて、なにが楽しいのかと訊かれれば、俺だって上手く説明出来る自信はない。

 ただ、終わらないくせに、ちゃんと決まっているところが好きだった。

 円周率は円周を直径で割った値で、どれだけ計算を続けても割り切れる事はなく、3.14で終わる事もなければ、何億桁、何兆桁と求めたところで最後の数字には辿り着かない。

 それなのに、決してデタラメな数字という訳でもなく、円という形が存在する限り、そこには必ず同じ比率がある。

 見た目は複雑で、果てしなく続いて、どこまで追い掛けても終わらないけれど、それでも、その数字がそう並んでいる事にはちゃんと理由がある。

 俺は昔から、そういうものが好きだった。

 複雑に見えるものにも、その奥にはなにかしらの筋道があって、今の自分に分からないのは法則が存在しないからではなく、まだ自分がその法則を知らないだけなのだと思えるものは、なんとなく信用出来た。

「また書いてる」

 放課後前の休み時間、机に頬杖をつきながらノートの余白へ数字を書き連ねていると、不意に横から声が降ってきたので、俺はペンを止めて顔を上げた。

 隣の席の女子が、俺のノートを覗き込んでいる。

 長い黒髪が肩からさらりと落ち、その毛先を気にする様子もなく、数字の羅列を追う彼女の視線だけが左右へゆっくり動いていた。

「なにを?」

「それ。3.1415・・・・・・ってやつ」

「ああ、円周率」

「それは知ってるよ」

 少し呆れたように返してから、彼女は俺の机へ片手をつき、数字をもっと近くで見るように身を乗り出した。

 同じクラスになって四ヶ月ほど経つが、彼女とまともに話した記憶はほとんどない。

 名前は綾瀬円。

 明るくて友達も多く、休み時間には大抵誰かと話しているような女子で、俺とは人種が違うとまで言うつもりはないものの、少なくとも用事もないのに話しかけ合うような間柄ではなかった。

 だから当然、こうして突然話しかけられた俺は少し戸惑う。

「綾瀬、円周率とか興味あったの?」

「ない」

「即答かよ」

「だって円周率でしょ? テストで3.14使うくらいしか思い出ないし」

「全国の数学教師に謝った方がいいぞ」

「じゃあ永瀬くんは、なにがそんなに楽しいの?」

 俺の軽口を綺麗に無視した綾瀬は、純粋に分からないものを見るような顔で訊ねてくる。

 俺はペン先を止めたまま、改めてノートへ目を落とした。

 3.14159265358979。

 何度も見た数字だ。

「終わらないからかな」

「終わらない?」

「円周率って無限に続くんだよ。どこまで計算しても最後がない」

「それが楽しいの?」

「楽しいっていうか・・・・・・終わらないのに、ちゃんと決まってるところが好きなんだよ」

「・・・・・・どういう事?」

「円周率って、見た目はめちゃくちゃだろ。数字はずっと続いていくし、規則なんてないように見える。でも適当に並んでる訳じゃなくて、円があれば必ずそこに同じ比率がある」

「ふーん」

「だから、今の俺に分からなくても理由はあるんだよ。まだ知らないだけで」

 口にしてから、我ながら随分と面倒臭い話をしているなと思ったし、こういう事を人に話せば大抵は適当な「へぇ」で会話が終わるので、俺もそれ以上説明するつもりはなかった。

 案の定、綾瀬は少し考えるように数字を眺めている。

 やっぱり変な奴だと思われただろうか。

 別に今更それを気にするほどでもない。

 ところが綾瀬はしばらく黙っていたあと、不意に首を傾げた。

「じゃあさ、終わらないって事は、ずっと途中って事?」

「・・・・・・途中?」

「だって最後がないんでしょ?」

「まぁ」

「なら完成しないっていうより、ずっと続いてるって感じじゃない?」

 思いもしなかった言葉に、俺は一瞬返事を忘れた。

 円周率が無限に続く事なんて当然知っていたし、それこそが俺の好きな性質の一つだったはずなのに、それを「ずっと途中」だと考えた事は一度もなかった。

 最後がない。

 終わらない。

 俺の中ではどちらかと言えば、どこまで進んでも永遠に答えへ辿り着けない数字という認識だったのだと思う。

 なのに綾瀬は、同じ性質をまるで別の方向から見ていた。

「なんかいいね、それ」

「なにが?」

「終わらないなら、まだ先があるって事でしょ」

 そう言って、綾瀬はあっけらかんと笑った。

 たぶん深い意味なんてなくて、本人にとってはその場で思いついた事をそのまま口にしただけなのだろう。

 なのに、その笑顔と一緒に言葉だけが妙に頭へ残った。

 終わらないなら、まだ先がある。

 それまで俺は、終わらないという事を「答えが出ない」と捉えていたのに、綾瀬はそれを「まだ続けられる」と捉えている。

 同じ数字を見ているはずなのに、見えているものが違う。

 その事が、少し面白かった。

 授業開始を告げるチャイムが鳴ると、綾瀬は「じゃ」と一言だけ残して自分の席へ戻っていき、俺はその背中を見送ったあと、もう一度ノートへ目を落とした。

 3.14159265358979。

 何度も見てきたはずの数字が、ほんの少しだけ違って見える。

「・・・・・・なるほどな」

 一人呟いて、その続きを一桁だけ書き足した。

 その日の授業中も、なぜかさっきの言葉が何度も頭に浮かび、思い出すたびに俺の視線は自然と隣の席へ向かっていた。

 綾瀬は特にこちらを気にする様子もなく、頬杖をついて黒板を眺めている。

 別に見たい訳じゃない。

 ただ、あんな考え方をする人間が普段なにを考えているのか、少し気になっただけだ。

 俺にはない見方を、あいつは他にも持っているのかもしれないし、それを一つずつ知っていけば、綾瀬円という人間にもなにか筋道のようなものが見えてくるのだろうか。

 ・・・・・・我ながら、随分と回りくどい興味の持ち方な気もした。

§

 それからというもの、俺は綾瀬の事を妙に意識するようになった。

 別に、恋愛的な意味ではない。

 ・・・・・・と思う。

 ただ、気になったのだ。

 綾瀬円という人間が、どういう法則で動いているのか。

 休み時間になれば、気付かないうちに彼女の席へ視線を向けている事が増え、そこでは大抵、綾瀬が友達の輪の中でよく笑い、よく喋っていた。

 誰かのくだらない話に肩を揺らして笑っていたかと思えば、別の友達に軽く小突かれて口を尖らせる。

 随分と表情の忙しい奴だ。

 そんな事をぼんやり考えながら眺めていると、ふと綾瀬がこちらを向いたので、俺は反射的に目を逸らした。

 ・・・・・・いや、なんで俺が気まずくなってるんだ。

 別に見ていた訳じゃない。

 観察だ。

 そう、観察。

 人間の行動パターンを知る為の、言わばサンプル収集みたいなものだと自分に言い聞かせたところで、言葉にすればするほど怪しくなっていく気がしたので、それ以上考えるのはやめた。

 綾瀬はよく人といる。

 なのに昼休みになると、時々一人で窓際に立って外を眺めている事があり、誰かに話しかけられれば普段通り笑うくせに、自分からその輪へ戻ろうとはしなかった。

 それから、困っている人間を見つけるとすぐに手を貸す。

 先日もプリントを床へぶち撒けた男子を見つけるや否や、一番にしゃがみ込んで拾っていたのに、いざ本人が困っている時には、まず誰にも頼ろうとしない。

 一見すると矛盾している。

 けれど俺は、そういうものを見ると余計に気になってしまう。

 矛盾して見えるのなら、まだ俺に見えていない理由があるはずだ。

「綾瀬、それ重くない?」

 ある日の放課後、担任に頼まれたらしく、彼女が両手いっぱいにノートを抱えて廊下を歩いているのを見掛けたので、俺はなんとなく声を掛けた。

「重いよ」

「じゃあ手伝おうか?」

「大丈夫」

「重いんだろ?」

「重いけど大丈夫」

「どっちだよ」

 思わず突っ込むと、綾瀬は可笑しそうに笑った。

「持てないとは言ってないでしょ」

「そういう問題か?」

「そういう問題です」

 そう言いながら、危なっかしく積み上がったノートを抱え直す姿を見る限り、どう考えても人に頼った方が楽なのだが、本人は頑として譲ろうとしない。

 理由が気にならないでもない。

 ただ、本人が断っている以上、無理に聞き出すような事でもないだろう。

「まぁ、本人がそう言うならいいけど」

 俺があっさり引くと、なぜか綾瀬は少し意外そうな顔をした。

「・・・・・・もっと聞かないの?」

「なにを?」

「なんで手伝ってほしくないの、とか」

「聞かれたくないから断ったんじゃないの?」

「え」

「違うの?」

 綾瀬は一瞬きょとんとして、それから少しだけ視線を逸らした。

「・・・・・・いや、そうだけど」

「じゃあ別にいいだろ」

「普通、もうちょっと食い下がらない?」

「断られてるのに食い下がる方が面倒じゃないか?」

「それはそうだけど」

 綾瀬はなにか言いたげにこちらを見ていたが、やがて小さく笑うと、「じゃ」とノートを抱えたまま廊下の先へ歩いていった。

 俺はその背中を見送りながら、やっぱりよく分からない奴だなと思う。

 ただ、さっき浮かべた表情だけは少し気になった。

 驚いたような、どこか安心したような、どちらとも言い切れない曖昧な顔。

 今の俺には、その理由が分からない。

 でも、不思議と焦って知りたいとは思わなかった。

 分からないなら、今は分からないままでいいし、また別の日の綾瀬を知れば、その時になって今日の表情にも意味が見えてくるかもしれない。

 そう思える一方で、やっぱりもう少し知りたいとも思っている。

 矛盾している。

 けれど、その矛盾さえ今は妙に心地よかった。

§

 数日後。

「ねぇ、これ分かる?」

 昼休み、今度は向こうから俺の席までやって来ると、綾瀬は数学の問題集を机の上へ置いた。

「人に頼らないんじゃなかったのか?」

「なにそれ」

「いや、この前ノート持つの断ったから」

「あれは自分で持てたから。これは分かんないから聞いてるの」

「基準が分からん」

「私には分かる」

 当たり前のように言い切る綾瀬を見て、俺は少しだけ眉を寄せる。

 俺には分からない。

 でも、彼女の中ではちゃんと一貫しているらしい。

 やっぱり、表面だけを見て矛盾していると決めつけるのは早いのかもしれない。

「ていうか、なんで俺?」

「数学得意そうだから」

「他にもいるだろ」

「いるけど」

「ならそっちに聞けばいいじゃん」

「・・・・・・永瀬くんが一番聞きやすいから」

 一瞬だけ間を置いて、綾瀬はなんでもない事のように言った。

「ふーん」

 適当に相槌を打ちながら問題集を受け取ったものの、なぜか今の言葉だけが妙に引っ掛かった。

 一番聞きやすい。

 たったそれだけの事なのに、ほんの少し気分が良くなる自分がいる。

 我ながら単純だ。

「ここ、二次関数の最大値どうやって出すの?」

「ああ、これは平方完成して」

「待って、そこからもう分かんない」

「早いな」

「数学とは分かり合えない運命だから」

「勝手に数学と縁切るなよ」

 俺は問題集を自分の方へ引き寄せ、式を書きながら順番に説明していく。

 その横で綾瀬は普段友達と笑っている時とは違う真剣な顔をしていて、少し眉間に皺を寄せながら俺のシャーペンの動きを追い、分からないところがあると露骨に首を傾げた。

 そして理解出来た瞬間には、

「あ、分かった」

 と、それまで寄っていた眉がほどけ、表情がふっと明るくなる。

 それを見て、なぜか俺まで少し嬉しくなった。

 自分が教えた問題を理解してもらえたからだ。

 たぶん。

「じゃあ、こっちは?」

「これはさっきと同じ」

「え、どこが?」

「全然聞いてないじゃん」

「聞いてたよ。分かった気になってただけ」

「一番駄目なやつだな」

「先生、もう一回お願いします」

「誰が先生だ」

 綾瀬が楽しそうに笑い、その顔につられるように俺の口元も少し緩んだ。

 こうして近くで話してみると、思っていたよりずっと話しやすい。

 友達の輪の中心にいるような女子だから、もっと距離感の遠い人間だと思っていたけれど、実際はよく笑うし、分からない事は分からないと言うし、意外なほど素直だった。

 その一方で、一人になりたがる時もある。

 人にはすぐ手を貸すのに、自分は簡単には頼ろうとしない。

 俺の知らない面が見えるたびに、それまで知っていた綾瀬が間違いになる訳ではなく、昨日まで知っていた彼女へ今日また新しい一面が一つ足されていく。

 ふと、ノートへ書いていた円周率を思い出した。

 3.14159。

 そこまでしか知らなかった数字に、一桁増えて、

 3.141592。

 前までの数字が消える訳ではない。

 それまでの全部を含んだまま、ほんの少しだけ先へ進んでいく。

「なに?」

「え?」

「人の顔見てぼーっとしてるから」

 気付けば、綾瀬が怪訝そうにこちらを見ていた。

「いや、別に」

「変なの」

「綾瀬に言われたくない」

「私、普通だよ?」

「普通の奴は円周率見て『ずっと途中だからいい』とか言わないと思う」

「あ、それまだ覚えてたんだ」

「まぁ」

 そう答えると、綾瀬は一瞬きょとんとしたあと、さっき問題が解けた時よりも少しだけ柔らかく笑った。

「ふーん」

「なんだよ」

「別に」

「絶対なんかあるだろ」

「ないない」

 そう言いながら、綾瀬は妙に機嫌良さそうに問題集へ視線を戻す。

 意味が分からない。

 たった一言覚えていただけで、なにがそんなに嬉しいのか。

 けれど悪い気はしなかったし、むしろ彼女が嬉しそうにしている事を俺まで嬉しいと思っている自分に気付いて、少しだけ居心地が悪くなった。

 人間の心なんて、そんなものなのかもしれない。

 一見するとバラバラで、時には矛盾して見えるけれど、それでも本人の中には、その人なりの理由がある。

 だったら、もっと知れば分かるのだろうか。

 どうして一人になりたがる時があるのか、どうして人にはすぐ手を貸すくせに自分は頼ろうとしないのか、どうして俺が言葉を覚えていたくらいであんな顔をするのか。

 そうやって一つずつ続きを増やしていけば、いつかこの分かりにくい人間の輪郭も見えてくるのかもしれない。

 そう考えた時、俺はふと、自分でも妙な事に気付いた。

 以前なら、人の考えている事なんて分からなくても別に困らなかったし、分からないものは分からないまま放っておけばいいと思っていたのに、綾瀬の事だけはそうはいかなかった。

 なぜそんな行動を取るのか。

 次にはどんな顔をするのか。

 俺の知らない綾瀬が、あとどれだけ続いているのか。

 それを、もっと知りたい。

 ・・・・・・別に、好きになった訳じゃない。

 ただの好奇心。

 きっと、それだけだ。

 俺はそう結論付けて、問題集の次のページをめくった。

 その時の俺はまだ知らなかった。

 複雑なものには理由があり、法則を知ればもっと理解出来るという俺の考えは、別に間違っていた訳じゃない。

 ただ一つ。

 理解出来る事と、その続きを知る事は、同じではなかった。

 そして、分からないからこそ知りたいと思うこの気持ちに、もう別の名前が付き始めていた事も。