6
いつもであればすぐさま通り過ぎてしまうプール脇を、無意識のうちに自転車を押しながらゆっくりと歩いてしまったのは、久々に部活動をする生徒たちの声が聞こえてきたからだった。そういえばテスト期間は部活も休みだったか、と思い、声の方へと目を向ける。
この学校では、プライバシー保護のため道路側に面するフェンスには目隠しがされているものの、生徒たちが利用する昇降口側の方はフェンス越しにプールが見えるようになっている。何とはなしに、茉白の姿を探してしまっていた。
彼女よりも先に、千羽哉を見つける。人一倍身長が高いので、嫌でも目立つのだ。
そうして、スタート台の方へと目を向けた時、今まさに飛び込もうとしている彼女を見つけた。上半身を屈めた姿勢で、しかもいつも見慣れている姿とは違い、あの長い髪はスイムキャップで隠され、目元もゴーグルで覆われている。だというのに、なぜかすぐに茉白だとわかった。
電子音が鳴る。他の数人の部員とともに、彼女は水面へと飛び込んだ。フォームも何も、授業で学んだこと以上の専門的な知識はわからない綾人だったが、それでもきれいに一直線に伸びた肢体は、美しいと思った。
水音とともに、飛沫が上がる。部員たちが、一斉にクロールで前へと進んでいく。
その中でも、茉白の速さは抜きん出ていた。水の抵抗などものともせず、まるで初めからそこが自分の生きる場所だと言うかのように。それこそ水を得た魚のように、彼女は進んでいく。
「速いね、あの子」
いつの間にか、完全に足を止めて見入っていた綾人は、いつの間にか隣に人が並んでいたことに気が付かなかった。
声の方に顔を向けると、静が同じように自転車を止めて傍らに立ち、プールの方を見つめていた。
「よお。お前も帰りか」
「そう。随分と熱心に見てるなと思って」
別に熱心に見ていたわけではない、と言おうとしたが、声をかけられるまで隣に人が来たことに気が付かないほど注視していたのは事実だった。反論の言葉が行き場をなくし、綾人は顔をそらして誤魔化した。
「……コウちゃん、まだ退院出来ないんだって?」
プールに視線をやったまま、静が尋ねる。突然出てきた弟の名前に反応し、彼女の方へと顔を戻した。
「……ああ。最初は、すぐ帰れるだろうっつってたのにな」
当初は念の為に入院という話で、親も光希本人も早々に退院出来るはずだと言っていた。
しかし入院して四、五日目あたりから微熱が続くようになり、医師から聞いた話だと息苦しさや動悸を訴えることもあるということで、退院は予定よりも延びてしまっている。
光希に負担を与えないため、昨日から面会も短時間に制限されてしまっている。
「心配だね」
「……ああ」
「夏休み前には、退院できるといいね。前にお見舞い行った時、学校に行きたいって言ってたし」
静の言う通り、光希としても長期休みに入る前に登校したいはずだ。学校の友達にも会いたいだろう。
「そうだな。……もう夏休みか」
「なに、改まって。今日だって祭りの話が出たばっかじゃん」
「いや、早いなと思って」
部活動に励んでいる目の前の彼らに比べれば、ずっと時間が有り余っているはずだ。それなのに、未だに進学先も将来の目標も決めず、なんとなくで日々を過ごしている。時の流れを早いと感じるのは、じわりと日々焦りが侵食してくるからだろうか。
「……そういえば、さ」
珍しく、少し口ごもるように静がそう切り出した。
彼女の方に視線を向けるが、その目はまっすぐにプールの方へと向けられている。プールサイドでは、泳ぎ終わった茉白が部員たちと笑顔で会話を交わしていた。
「未八祭り……一緒に行くことになったでしょ」
「あ? ああ、小浜と千羽哉とな」
「そう。……あの時、すぐには思い出せなかったんだけど」
静の話の行き先がわからず、首をかしげる。伏し目がちの気だるげな瞳で、プールサイドの方を……茉白を、見つめていた。
「昔、会ったことあるんだよね」
「……誰と?」
半ば確信に近い考えを抱きつつ、問う。
静は顎先を少し持ち上げて、答えた。
「あの子……茉白と」
* * *
兄の同級生の女子が亡くなった。静がまだ小学校低学年の、ある夏の日のことだった。
今ではすっかり顔も声も忘れてしまったが、静の家にも何度か遊びに来ていた子だった。兄がよく遊んでいたグループは、男女が三人ずつぐらい入り交じっていて、そのうちのひとりだったのだ。まだ幼い静も、遊びに加えてもらったことが数回あった。
そのため、母親に連れられて静も兄とともに通夜に参加することになった。初めて訪れた家の門に灯る、柔らかい提灯の明かりが、なぜだかとても印象に残っている。
幼いながらにも「死」がどういうことかは理解していたが、正直なところ数回遊んでもらっただけの相手に対して、強い悲しみを抱くことは出来なかった。棺の中を覗き込んで、眠っているようにきれいなその顔と対面しても、これでお別れなのだという感傷よりも、生まれて初めて見る「亡くなった人」という存在に対する恐怖のようなものが先に来た。
しかし兄や母は当然そんなことはなかった。兄は涙すら流さなかったものの、自分の感情を噛み殺すように強く口元を引き結んでいたし、母は涙ながらに他の参列者と会話を交わしていた。「可哀想に」という言葉が何度も耳に入ってきた。
人々の沈痛な空気で溢れかえっており、静はなんとなくそこから逃げ出したくなって、庭の人気のない方へと密かに進んでいった。
そこで、池の傍でしゃがんでいる、ひとりの少女を見つけたのだ。
同い年くらいに見えた。長い髪を低い位置で束ね、喪服に身を包んだその子は、水面をじっと見つめていた。だから、鯉でも眺めているのかと思って、静は声をかけた。
「なにかいるの?」
しかし、少女は答えなかった。静は気にすることなく、同じように池の縁にしゃがみ込み、水面を覗いてみた。暗くてはっきりとは見えないが、何匹か鯉が泳いでいるのが見える。見ていて特段楽しいものでもないが、あちらで悲しげな面持ちで話している人たちの輪に加わるよりは、こちらにいる方がマシかもしれない。
「あっち、つまんないよね」
そう言うと、今度こそ少女はゆっくりと顔を上げて、静の方を見た。ぱっちりとした瞳が、静を捉える。
「……おねえちゃんの、ともだち?」
お姉ちゃん、というのはおそらく亡くなった子のことを指しているのだろう。そう察して、静は首を横に振った。
「ううん。ともだちだったのは、うちのにいちゃん」
「……そう」
静の返答に、少女はまた視線を水面に落とした。
お姉ちゃんと呼んだということは、あの子の妹なのだろうか。そう思って尋ねてみるが、彼女は首を横に振った。
「ううん。……いとこ」
従姉妹。つまり、姉妹ではないけれど親戚ということだ。それなら、ただ連れられてきただけの自分と違って、故人との思い出も色々あるだろう。少女が先程からずっと暗い雰囲気をまとっているのも、納得がいった。
ただ、それに対してうまく慰める術を知らず、静はただ「そうなんだ」と返すことしか出来なかった。そうして、ふたりの間に沈黙が落ちた。
「……ましろが、いけばよかったんだ」
静寂の中、突然ぽつりと落とされた声。すぐには、その意味がわからなかった。
「おねえちゃんじゃなくて、ましろがサンダルさがしにいけばよかった。およぐのとくいだから」
堰を切ったように話し始める少女に戸惑いながらも、静は彼女の言葉を咀嚼しようとした。
「サンダルって?」
「サンダルが、ながされたの。ましろと、おねえちゃんと、ほかのいとこたちとうみであそんでるときに」
それで、と言って彼女は小さな背を丸めた。それは自分をなにかから守ろうとしているようにも、あるいは自分の内側から溢れ出そうになるなにかを必死に抑えようとしているようにも見えた。
「おねえちゃんがさがしにいって、そのままおぼれちゃった」
膝に顔を埋めた少女の声は、こもって聞こえた。彼女が話しているのが、事故が起きたときのことだとわかり、その生々しさに幼い静は戸惑った。
それでも、少女がひどい自責の念にかられていることは伝わってきた。だから、咄嗟に思ったことをそのまま口にしていた。
「あんたのせいじゃ、ないでしょ」
しかし少女は、そんな静の慰めに、激しく首を横に振った。
「ましろのせいなの。ましろは、ほんとうは、たすけることができのに。力があったのに」
彼女の言うことが理解出来ず、まるで何かに取り憑かれているかのようにも思えて、徐々に恐ろしさを覚え始めた。その時だった。
「静? そこにいるの?」
背後から、母の声がした。はっとして振り返ると、庭の正面へと続く方から、母が明かりを背負ってこちらを覗いていた。
「勝手に入り込んじゃダメじゃない。こっちにおいで」
母に手招きされて、静は少女の方を見る。彼女は膝に顔を埋めたまま、全く動こうとしない。
「……かあさんがよんでるから、いくね」
静のその言葉にも、少女は返事をしなかった。
小走りに母のもとへと向かった静は、立ち去る前にもう一度振り返ったが、少女は蹲ったまま身動ぎひとつしなかった。
* * *
「……結局、あの子が言ってたことは何ひとつわかんなかったんだけど。『ましろのせいなの』って言葉が、やけに頭にこびりついてて」
期末テストのときに茉白と並んで歩いた、左右を田畑に囲まれた広い道を、今は静とともに進んでいた。
彼女が語った昔話は、初めて聞くものだった。そして綾人には、静が出会った少女が、単に同じ名前のよく似た子どもなどではなく、間違いなく自分がここ最近よく会話を交わすようになったクラスメイトの「小浜茉白」だという確信があった。
茉白が口にしていた「贖罪」という言葉。そして、少女の「力があったのに」というつぶやき。
それらが、頭の中で繋がっていく。
「あの時のあの子、従姉が亡くなったことがよっぽどショックだったのか、様子おかしかったからさ。今は元気にしてるみたいで安心したよ。すっかり忘れてた私が言っても、説得力ないけどね」
静はそう言って、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
それに小さく頷きを返しながら、しかし綾人はわかっていた。
茉白の中では、従姉の死は決して過去のことではない。
消えることのない傷として、彼女の心に残り続けていることを。

