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カリカリ、と筆記用具を走らせる音だけが教室の中に響く時間は、否が応でも緊張感が高まって仕方がない。
もっとも、勉強のできるやつであればとっくにすべての問題を解き終わってこの時間はただ暇なものでしかないのだろうが、あいにく綾人の成績は中の中。頑張ればそれなりに結果は出せる程度の頭の出来であって、時間内にどうにか回答を埋められはする、というレベルだ。余裕といえるほどの余裕はない。
ようやく最後の空欄を埋め、半分ほど見直しを終えたところで、静寂を終わらせるチャイムが鳴り響いた。途端に生徒たちから漏れる声は、解放感に満ちたものだったり、成果を嘆くものだったりと様々だ。その感嘆に割って入るようにして、教師の声が飛ぶ。
「一番後ろの席の人、回収して教卓まで持ってきてー」
指示をされた回収係に回答用紙を手渡した後、綾人は集中してこわばった肩から力を抜いた。
今日はこれで終わりだが、テスト期間はまだ一日残っている。さっさと帰って昼食を済ませたら、ラストスパートをかけなければ。
気合いを入れ直すように、首を左右に傾けると、軽くコキコキと音が鳴る。
教卓に立つ教師は回答用紙をすべて集めると、「それじゃ、残り一日も気を抜くなよー」と適当な励ましを送って、さっさと教室を出ていった。
すでに帰宅の準備に入っている生徒もいれば、教科書を取り出して悩んだ設問の正解を確認する生徒もいる。
綾人は筆記用具を鞄にしまうと、特に誰とも雑談を交わすことなく、ひとりで廊下に出た。
「大井くん」
昇降口まで来て、自らの靴箱からスニーカーを取り出して床に放ったところで、名前を呼ばれた。
親しい相手からはもっぱら下の名前で呼ばれているため、そんなふうに呼んでくる人物はそう多くはなかった。
予感を覚えながら振り返ると、思った通りの顔がそこにあった。
「一緒に帰ろうよ」
あの日、図書室で会って以来、まともに会話を交わしてこなかった相手……小浜茉白が人懐っこい笑みを浮かべて立っている。
「なんで」
「なんでって……ほら、普段は私、部活してるじゃない? 一緒に帰れるタイミングって、なかなかないかなーって思って」
「そうじゃなくて、なんで俺なんだよ」
傍目に見ただけの印象だが、彼女にはたくさんの友人がいるイメージがある。明るく、人当たりの良い茉白の周りには、いつだって笑顔が絶えない。そんな印象だ。
それなのに、どうしてわざわざひとりで静かに帰ろうとしている自分などに声をかけてくるのか。
綾人の質問に、少し離れた位置の靴箱から自身の革靴を取り出していた茉白が、きょとんと目を瞬かせる。
「え、だって、大井くんともっと話してみたいし」
恥ずかしげもなく言ってのける茉白に、隠すことなく大きなため息を吐き出した。
おそらくこういうところが、彼女が人に好かれる所以なのだろう。だが、綾人からするとどうにもやりにくくて仕方がない。
「ほら、秘密を打ち明けた仲じゃない」
上履きから革靴へと履き替えながら、茉白がさらりと口にする。
一瞬、言葉に詰まった後、「勝手に打ち明けただけだろうが」と悪態をついた。
頭上に広がるのは曇り空だ。
七月に入っても、まだ梅雨明けは遠い。例年通りであれば、あと半月は続くだろうか。
からりとした夏らしい青空が広がるのは、まだ随分と先のように思えた。
「七夕ってさ、毎年だいたい雨だよね」
同じようなことを考えていたのか、自転車を押しながら歩く綾人の隣で、茉白が独り言のように呟いた。
「絵本とかだと、天の川が出てくることが多いじゃん。だから私、小さい頃は天の川が見られるのをすごく楽しみにしてたんだけど、全然叶わなくて」
昔のことでも思い出しているのか、彼女は目を細めてくすくすと笑っていた。
「今でも、七夕が近づくとちょっと楽しみな気持ちにはなるんだけどね。でも、どうせ今年も雨だろうなーって諦めの気持ちがすぐに出てきちゃうんだよね」
七夕か、と思い出を振り返ろうとしてみるも、あまり特別な記憶はない。
小学校までは毎年の行事として、願い事を書いた短冊を笹にくくりつけていたものだが、そこに何を書いていたのかももう思い出せない。
……もしかすると、弟の健康でも願っていたのかもしれないが。
ろくに相槌も打たない綾人を気にすることなく、茉白はひとりでぺらぺらと喋り続けている。
「そういえばさ、七夕の日の給食って、ゼリーが出なかった? 星型のナタデココが入った……」
「お前さ」
話を遮るように呼びかけると、彼女は素直に「なに?」と首をかしげる。
「こんなんで、一緒に帰ってて楽しいわけ」
不意をつかれたように瞬きを繰り返した茉白だったが、すぐににんまりとした笑みを浮かべ、綾人の顔を覗き込むように見上げてくる。
「んー、楽しい」
「……そうかよ」
「楽しいっていうか、嬉しい?」
嬉しい。
〝楽しい〟以上にそぐわない言葉に感じられて、思わず足を止める。
「何が?」
「大井くんのことを知れるのが」
一体、今の会話から何を知ったというのだろうか。
もはや呆れて彼女を見返す綾人に、茉白は言葉通り嬉しそうに微笑んでいる。
「なんだかんだ言いながら、一緒に帰ってくれるの。やっぱ優しいなーって」
「……勝手にすればいいって思ってるだけだ。別にお前に付き合ってるわけじゃねぇ」
「でも、ほら」
そう言って、茉白が指をさす。
その先は、綾人が学校からずっと押している自転車に向いていた。
「勝手にしろって言うなら、私のこと置いてさっさとひとりで自転車で帰っちゃえばいいのに」
「……」
「そうやって置いていかないとこ、優しいよね」
なんだか、瞬時に体温が上がったような気がする。
サドルにまたがろうとした綾人を、茉白が慌てて止めてくる。
「待って! 照れたからって急に置いてこうとしないで!」
「うるせえ! 照れてねえ!」
胴体に回された手を振り払うと、茉白はおかしそうに声を上げて笑った。
左右を田畑に囲まれた広い道路は、道幅の割に通る車も少なく、騒がしいふたりを気に留める者は誰もいない。
「ごめんって。ていうか、自転車通学なことすっかり忘れててごめんね。そういえば、あの日も自転車乗ってたよね」
あの日、がいつのことを指しているのかはすぐにわかった。
「病院に行くって言ってたけど、てことはおうちはまた違う方面?」
「……そうだよ」
綾人が、自宅がある地区の名前を告げると、茉白は「ああ、あっちの方なんだ」と頷く。
「じゃあ、病院からだと結構距離あるね」
「……小浜の家は」
徒歩通学ならそこまで離れてはいないだろう、と予想をつけながら尋ねると、彼女は広大な田畑の向こうに見える集落を指で示した。
「あそこの集落なの。階段みたいになってるの、わかる?」
「……ああ」
目を凝らしてよくよく見てみれば、確かに階段状になった土地に数軒ずつ、民家が並んでいるのがわかる。茉白はその中の、「一番上の段」に家があるのだと教えてくれた。
確かにあそこの集落なら、少し距離はあるが徒歩での通学も可能だろう。
「小学校も中学校も高校も、ぜ~んぶ家からそんなに離れてないところにあるの」
「羨ましい限りだな。朝ギリギリまで寝られるじゃねぇか」
「そうかなぁ」
茉白は小さく唇を尖らせていた。
「なんていうか、狭い世界って感じがしない? 保育園から高校までずっと一緒の子だっていっぱいいるし。田舎って、どこもそうなのかな」
「……小浜は、この町を出たいのか」
その時、綾人の胸に去来したのは、不思議な高揚感だった。
彼女も、自分と同じなのか。早くここを出て、どこかへ行きたいと思っているのだろうか。
そんな一方的に芽生えた仲間意識に対し、しかし茉白はふっとまぶたを伏せた。
「出られない、かな」
落とされた言葉は、やたらと硬い声音を伴っていた。
勝手に抱いた期待が急速に消えていくのを感じながら、そんな自分に気付いて内心で自嘲する。バカバカしい。
「……何か、ここでやりたいことでもあんの?」
「うーん、具体的になにかがあるってわけじゃないんだけどね」
茉白は、まっすぐに前を見据えた。
長く長く続く、田畑に囲まれた道。車も人もなかなか通らない、田舎の道路だ。
「贖罪をしなきゃいけないから」
しょくざい。
頭の中で、その漢字を正しく書くことは出来なかった。けれど、意味はわかる。犯した罪を、あがなうこと。
罪? 一体、茉白はどんな罪を犯したというのだろうか。
思わず彼女の顔を見るが、視線は合わなかった。
「この前さ、私に力があること、証明してみせたでしょ?」
不意打ちのように、あの図書室での出来事についての話が出てきて、不覚にも顔が熱を持った。それを悟られないように、顔を背けながら「ああ」と頷く。
「あれって、もちろんなんの代償もなしに使えるわけじゃないんだよね」
「……代償?」
どことなく不穏な響きに、思わず聞き返す。
「そう。当たり前だけど、人に生命力を分け与えたら、その分私の生命力が失われるって話で」
「は」
弾かれたように、背けた顔を彼女の方へと戻す。
茉白は平然と言ってのけたが、それはつまり。
「お前……なら、あんな簡単に力なんて使うんじゃねぇよ!」
あの日、図書室で力を使ったときも、彼女の生命力が消費されたということだ。
激昂する綾人に、茉白はけろりと笑ってみせた。
「あの程度なら、大したことないから安心して。ちょっと身体がだるいなーってなるぐらい。それに、一晩寝たら回復するし」
ゲームとかのHPと一緒だよ、と彼女は言うが、そんなに軽い話なのだろうか。
ぐぐ、と口を引き結ぶ綾人に気付いているのかいないのか、「それでね」と茉白は話を続ける。
「贖罪っていうのは……私はこの力を、ちゃんと使わなきゃいけないってこと」
自分の胸元に手を置いて、茉白はそっとまぶたを伏せた。きれいに整えられた爪が、やけに目についた。
力をちゃんと使う。
それはつまり、彼女の生命力をもって、ということだろうか。そこまでしなければならないほどの罪を、彼女が背負っているということだろうか。
どこまで踏み込んでいいのか迷い、言葉を探している間に、彼女の方が先に口を開いた。
「大井くんは? 卒業したら、どこか遠くの大学でも行くの?」
話を逸らされたことはわかったものの、引き戻すのも憚られ、もやもやとしたものを抱えつつも次の話題に乗っかることにした。
「そのつもりだ」
「へぇ、じゃあ夏休みも忙しくなるね。オープンキャンパスとか行くんでしょ? どこの大学目指してるの?」
「……まだ、決めてない」
綾人の返答に、茉白は瞳を瞬かせる。
「そうなんだ? いくつか候補があって、決めかねてる感じ?」
「いや……」
はっきりとした答えを返せない自分が、途端に不甲斐なく感じられてしまう。やりたいこともないくせに、卒業したら町を出てどこかの大学へ行きたいという、ふんわりとした設計図だけを描いているのは事実だった。
「ただ、ここから離れたくて」
独り言のようにこぼした綾人になにかを思ったのか、茉白が不意に足を止めた。つられるように、歩みを止める。
彼女がこちらの顔を見上げてくるのを視界の端に捉えたが、自転車のカゴのあたりを見つめたまま、視線を返さなかった。
「田舎だから?」
先程の会話の流れからだろう、そう問いかけてきた茉白に首を横に振る。
自分は何を話そうとしているのだろう。誰にも打ち明けたことのない胸中を、一欠片でも、なぜ彼女に吐露してしまったのだろう。
ゆっくりと歩みを再開すると、茉白もそれに合わせておもむろに足を進め始める。同じ制服を着た生徒が、自転車でふたりを追い抜いていく。緩やかに巻き起こった風が、茉白の淡い色の髪を揺らした。
「……弟が、いるんだが」
「うん」
茉白の頷きは柔らかかった。その声音に背中を押されるようにして、言葉が口からするりと出ていく。
「生まれつき、病気があって。今も、よく入退院を繰り返してる」
「……ひょっとして、この前病院に行くって言ってたのも」
「ああ、そう。あの日、入院したっておふくろから連絡があって」
一度軽く唇を噛んだ後、続けて口を開いた。できるだけ、湿っぽくならないように、恨みがましくならないように、無意識に声色に気を遣っていた。
「昔から、あいつがしんどい思いしてるのを傍で見てきて……家族として力になってやりたいとか、支えてやりたいって思うのが普通だろ」
「……大井くんは、違うの?」
「思わないわけじゃねぇ。ただ……」
もとより弁舌に優れているわけではない。上手な言葉を選べずに、何度も小さく口を開閉させる。
そんな綾人を急かすことなく、茉白はのんびりと歩みを合わせてくれていた。
「なんにも出来ない無力さを覚えることが、しょっちゅうある。俺は医者じゃないから、あいつの病気をサポートしてやることは出来ないし、親じゃないから医療費を支払ってやることも出来ない。……一、二年の頃は、ちょっとでも足しになればと思って、バイトして貯めた金を親に渡したこともあったんだがな。それは自分のために使えって言われちまった」
「そっかぁ。うん、そのご両親の気持ちは、なんとなくわかるかな」
お前は人の親じゃねぇだろ、と言いかけて、しかし飲み込んだ。
なんとなくわかるのは、自分も同じ気持ちだ。もっとも、直截的に親にそう言われるまでは、全く思い至らなかったのだが。むしろ、これでようやく光希のためになにかしてやれるとまで思っていた。
「何も出来ねぇんだ、本当に。……その無力感を度々突きつけられて、お前は役立たずだって言われてるようで……それが、嫌になる」
自分がどれだけ矮小な存在なのか。光希の近くにいると、そんなことばかりを考えてしまう。
「だから……高校を卒業したら、この町を出たい。あいつの傍を離れたい。……俺は卑怯だから、そんなふうに考えちまう」
光希がいない場所に行くことで、ようやく「自分にできること」が、弟とは全く関係のないところで見つけられるような気がするのだ。
「逃げ、なんだろうな。他のやつらみたいに、なりたい職業があるとか、挑戦したいことがあるとか、そんな前向きな気持ちで進学するわけじゃない。……ここから、離れたいだけだ」
手のひらにじわりと汗が滲んだ気がして、ハンドルを握る力を強くする。
本当に、なぜ茉白にこんなことを話しているのかと、再度思う。けれどこれは、彼女が自分の秘密を打ち明けてくれたことに対する、ほんの少しの返礼のようなものなのかもしれなかった。
「逃げ、なのかな」
細い顎先に指を添えて、彼女はぽつりと口にした。
思わず、なにかを期待するように茉白を見遣る。考え込むように視線を道路に向けたまま、彼女は続けた。
「大井くんが言ったことも、私からしてみればすごく前向きに聞こえる」
「……耳がおかしいんじゃねぇの?」
「失礼な!」
ぷん、とわざとおどけて頬を膨らませた後、茉白は顔に笑みを浮かべてみせた。
「だって、これから大井くんにとってのまっさらな世界で、自分が得意なこととかやりたいこととか見つけていきたいって話でしょ? それって、前向きじゃない?」
綾人がこぼした後ろめたい話も、茉白なりに翻訳するとそういうことになるらしい。まだ腑に落ちない思いで眉間にシワを刻むと、彼女は目尻を柔らかく下げた。
「大井くんって、弟さんのこと愛してる?」
愛、という単語を突然持ち出されて、内心うろたえてしまう。
そんなことを口にするのは小っ恥ずかしいという気持ちが、どうしても胸に湧き上がってきてしまう。
しかし、そんな感情は一旦置いておいて、自分の内面と向き合ってみる。
間違いなく言えるのは、自分は光希が生まれてから今日までずっと、彼を大事に思っているということだった。
「……ああ」
それでもやはり、愛という単語を口にするのは照れくさくて、頷くだけにとどめておいた。
茉白はそんな綾人の返答でも、満足したというふうに笑みを浮かべた。
「うん、話を聞いててわかったよ。大井くんは、弟さんのことをすごく大切に思ってるんだって。そうじゃなかったら、何も出来ないって自分を責めたり歯がゆく思ったりしないもん」
まるで、これまで表現しづらかった綾人の心を解き明かすように、茉白は明快に言葉にして紡いでいく。
彼女が後ろ手に持った鞄が、足を進めるたびに踊るように小さく跳ねていた。
「だから、ここを離れたいって考えてることを、そんなに後ろめたく感じなくてもいいと思うよ。新しい場所でも、どこでもさ。思いがけずなにかを見つけられたら、それって素敵なことだよね」
ふたりの間を、梅雨の風が吹き抜けた。それは不思議と、先程までよりも湿度が低く、軽やかに感じられた。
選択しなければならないときは、すぐにやってくる。
けれども、先の未来のことなんて、まだわからない。自分がどうしたいのか。何を選ぶのか。
これからのことなんて、未だに不透明だけれど。
「……ありがとな」
ずっと長い間、胸中に巣食っていた靄が、かすかに晴れていくのを感じていた。
呟いた感謝の言葉は、自分ですら聞き取れるかどうか怪しいほどの、小さな小さなものだった。
それでも茉白は、綾人をくるりと振り返って、笑顔を浮かべる。
長く続く道の先で、梅雨の曇り空を割るように、一筋の陽光が差し込んでいた。
期末テストの前に退院できると見込まれていた光希は、未だに家に帰っていなかった。

