君は泡沫にならない


   3

 綾人の弟である光希が入院しているのは、この小さな町で唯一の総合病院だ。一昨日茉白を見かけた海沿いの道を上っていけば、やがて丘の上にある白亜の建物が見えてくる。
 幸いにも、今日は曇り空でありながらも雨は降らなかった。通い慣れたそこへとやってきた綾人は、軽く息を切らしながら自転車を降りた。
 何度やってきても、この緩やかで長い坂を立ち漕ぎで一気に上りきるのは、いくら男子高校生といえど疲れるものがある。とはいえ、部活動にも入っておらず、体育の授業以外でろくに体を動かしていないことを考えれば、多少は良い運動になっているのかもしれないが。
 数台の車が止まっている駐車場、その片隅に備えられている駐輪場まで自転車を押していき、そこに停める。
 カゴから鞄を取って肩にかけると、外ポケットに入れていたマスクを取り出し、顔につけながら入院棟の玄関に向かう。自動ドアをくぐってすぐ右手にある面会受付へと向かうと、すでに顔なじみとなっている事務の女性が、綾人を見てにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、綾人くん。光希くんの面会ね?」
「はい」
 窓口の脇に置かれている消毒液を手のひらに出し、両手に擦り込むようにしてから、差し出された面会申込書に慣れた手つきで記入する。それを提出すると、交換するような形で面会者カードが差し出された。
「念の為に、検温もお願いね」
 非接触型の体温計を額に近付けられ、熱を計られる。数秒後にピピッと音が鳴り、液晶画面を向けられる。そこに表示されていた数字は平熱を示すものだった。
 ……昨日、帰宅後に計ってみたときに出た数字と、ほとんど変わらない。茉白の「力の証明」の後から、喉の違和感や咳はすっかりと消え失せ、風邪の予感など微塵も感じられなくなっていたから、案の定というような感じではあったが。それでも昨日は、念の為に面会を控えたのだ。
 受け取った面会者カードを首から下げると、事務の女性に一礼してから光希の病室へ向かって歩き始めた。

 綾人の四つ下の弟、光希は、先天性の心疾患を抱えている。
 両親から仔細を聞かされているわけではないのだが、生まれてすぐの検査にて異常が見つかり、まもなく隣の市の大病院にて手術が行われたそうだ。しかし合併症を引き起こしており、現在も心臓に障害が残ってしまっている。
 小さなころは、風邪や胃腸炎でも症状が重くなることが多く、頻繁に入退院を繰り返していた。最近は落ち着いてきて、ほとんど普通の日常生活が送れるようにはなってきているが、不整脈を起こしたり運動後に体調が悪くなったりするため、体育の授業は制限されているし、部活も運動部ではなく美術部に入っている。
 今回の入院も、軽い心不全を起こしてしまったのが原因だった。一昨日──つまり茉白を海で見かけたあの日。六限目が終わってスマートフォンを確認したところ、母親からメッセージが入っていた。光希が学校で体調不良になり、そのまま病院に運ばれたとのこと。検査も兼ねて入院することになるが、そこまで心配はいらないという内容だった。
 心配不要とは言われたものの、やはり弟のことは気にかかる。見舞いに行ってやろうと病院に向けて自転車を走らせ……その途中で、彼女に出会ったというわけだ。
 さすがにびしょ濡れの状態では病院には行けず、昨日は昨日で風邪気味の状態で面会に訪れるわけにはいかなかったため、結局入院の連絡を受けた日から二日も経ってしまった。
 母親から聞いた病室の番号を探して歩いていくと、そう迷うことなく目的の部屋は見つかった。入り口には光希の名前が記載されたネームプレートのみが掲げられている。個室らしい。
 コンコン、とノックをすると、すぐに反応があった。声変わり前の中性的な声で返された「はい」を受けて、病室のドアをスライドさせる。
 ベッドの上に横になっていた光希は、綾人の姿を見るなり驚いたような顔をして上半身を起こした。そしてサイドテーブルの上に置いてあったマスクを手に取ると、綾人と同じようにそれで顔の下半分を覆う。
「兄ちゃん、来てくれたの? 静ちゃんから、風邪気味だからしばらく来られないって聞いてたのに」
 病室の中に入りベッドへと近づいていく綾人に、光希はあどけなさの残る大きな瞳を不思議そうに瞬かせて問いかけてくる。
 そうだ、そういえば静にそういう伝言を頼んでいたのだった、と彼に言われてから思い出した。
「あー……治った」
「そうなんだ。良かった」
 ほっとしたように目尻を緩める光希に、なんとも言えない気持ちになる。入院しているのは彼の方だというのに、心の底から兄を心配している様子を見せるのだ。光希はいつもそうだった。
「……それより、体調は」
「うん、大丈夫。すぐに退院できると思うよ」
 軽い調子で笑う光希に、今度は綾人の方が安堵の息を吐いた。確かに今は顔色も良い。
「そっか。……てか、暇だろ。なんかゲームでも持ってきてやればよかったな」
「あ、でも、昨日静ちゃんたちが漫画持ってきてくれたんだよ。だからそんなに退屈はしてないかな」
 そう言って、光希は窓際に置かれている来客用の一人掛けソファの上を指さした。そこには紙袋が置かれており、確かに漫画の表紙らしきものが覗いている。サイドボードの上にも、数冊積まれているようだ。
「……またなんかエグいやつ持ってきてんじゃねぇだろうな、あいつら」
「結構面白いよ」
 光希はにこやかな表情を浮かべるが、綾人は少し心配になる。
 あそこの兄妹は、昔から少しマニアックな漫画を好む傾向にあるのだ。中には、綾人ですら眉をしかめてしまうような奇っ怪な内容のものもある。
 光希が温和な性格の子なので、どうしても妙なものを見て不快な気持ちになるのではないかと心配してしまうのだが、当の本人は意外と気に入っているらしい。
「まあ、お前がいいならいいんだけどよ」
「ていうか、みんなにお見舞いに来てもらっちゃって、なんか申し訳ない気がするな。そんなに長い入院でもないのに」
 紙袋に目を向け、光希は眉尻を下げて苦笑を浮かべる。その表情に、うっすらとした靄のようなものが、綾人の心を覆った。
「……申し訳ないとか思わなくてもいいだろ。みんな、来たくて来てんだし」
「そうかな。兄ちゃんも、確かもうすぐ期末テストだって言ってなかった? 無理して来なくてもいいからね」
「だから、無理とかじゃ……」
 声が少し大きくなってしまったことに気が付き、途中で言葉を切ると、自らを落ち着かせるために深く呼吸をした。
「……お前も、もうすぐだろ。期末テスト。漫画ばっか読んでないで、ちゃんと勉強しろよ」
「わかってるよ」
 光希はにっこりと笑う。その笑顔を見つめながら、胸の中を漂う靄を、無理やり打ち消した。

 面会を終えて病院の外に出ても、夏の空はまだまだ明るい。顔を覆っていたマスクを外すと、息苦しさから解放された。ほんのりと潮の匂いをはらんだ風が、肌を撫でていく。
 鞄の外ポケットにマスクを突っ込み、その鞄を前カゴに入れてスタンドを上げると、自転車を押して駐車場の中を歩いていく。
 不意に足を止め、入院病棟を振り返る。事務の人と顔見知りになるほど、通い慣れた場所。
 昔から、弟を見舞うためにここを訪れるたび、病室で光希の姿を見るたび、いつだって言葉にしがたい後ろめたさに襲われていた。そしてそれは、十数年経った今でも変わらない。 
 〝申し訳ない〟〝無理しなくていい〟──光希は優しいやつだから、そんなふうに見舞いにやってきた側を気遣うようなことを言う。思うようにいかない身体に、何度も繰り返す入院生活に、もっと苛立って泣き喚いてくれれば。八つ当たりでもいいから、感情をぶつけてくれれば、綾人はもっと光希の気持ちをわかってやれたかもしれないのに。
 それすらせずににこにこ笑っている弟を見ていると、「お前にできることなど何もない」と突きつけられるようだった。
 入院病棟に背を向け、サドルにまたがる。そこからはもう振り返ることなく、車通りの少ない坂道へと自転車を漕ぎ出した。来るときと違って、長い下り坂が続く帰り道は、風が吹き付けて気持ちがいい。冬になるとこれが冷たい海風に変わるので、全く正反対の感想になるのだが。
 ──光希の病状は、確かに幼い頃より落ち着いている。しかし、このまま放っておけば完治するものではないことを、綾人は親から聞かされて知っていた。
 むしろ成人期以降は様々な症状が進行するとされていて、一生涯にわたって専門医のフォローが必要な病気だという。
 綾人にできることは何もない。実際にその通りなのだ。
 生まれたときからずっと傍にいても、血の繋がった兄弟でも、綾人にできることは何ひとつないのだ。近くにいればいるほど、その無力感に苛まれるような気がして。
 眼下には海が広がっている。水平線の向こうには空が続いているばかりで、何も見えない。
 早くこの小さな港町から離れて、その向こうへと行ってみたいと思うのは、単なる逃げなのだろうか。