君は泡沫にならない


   2

 肩に腕を回される感覚と同時に嫌な予感を覚えた綾人の第六感は正しかった。その腕を払いのけるよりも早く、やたらと近い距離から声が降り注ぐ。
「見たぞ〜、綾人ぉ」
 不必要にねっとりとした声色に、盛大に顔を顰めつつ身を捩って今度こそその腕から逃れようとする。廊下のど真ん中で立ち止まっている綾人たちのことを、同級生たちが避けて通っていく。
「キモい。離れろ」
 不快であることを全く隠すことなく直球で放った言葉にも、相手は全く怯むことなく、ニヤついた声音で続ける。
「お前、いつの間に小浜と仲良くなってたわけ? 水臭いねぇ」
「……あ?」
 ようやく肩に回された腕から逃れた綾人は、自分よりも背の高いその男の顔を正面から睨み返した。その鋭い視線を受けても、全く意に介することなく、綾人の友人――佐渡千羽哉(さわたりちはや)は含み笑いを浮かべていた。
「見たぞ、昨日」
「……何を」
 この時点でおそらく彼が何を言いたいのかをあらかた察してしまっていたものの、無駄な抵抗のように聞き返す。すると千羽哉は、予想していた通りの答えを返してきた。
「図書室にいたろ。小浜と」
 そういえば千羽哉は、茉白と同じ部活だった。彼女のことを「馬鹿みたいに泳ぎの速いやつ」と称していたのも、この男である。
 見られていたというのであれば、綾人とともにいるのが誰なのかも、当然一目でわかったことだろう。
「お前もいたのか? ろくに勉強しなさそうなツラして」
 綾人の嫌味はスルーして、千羽哉は首を横に振った。
「いや、この廊下から見えたから」
 そう言って彼は、窓越しに向かいの棟を指す。昨日茉白が言っていた通りだった。確かにこの廊下からは、図書室の窓が見えるようになっている。
 そのことを改めて認識して、次いで背筋がひやりとした。……ということはつまり、〝あの瞬間〟も見られていた?
「なーんか親しそうに話してたじゃん? なぁなぁ、なんの話してたわけ?」
 千羽哉はしつこくぐいぐい絡んでくるものの、あくまで「いつから仲が良いのか」やら「何の話をしていたのか」やらを聞き出そうとしてくるにとどまっていた。幸いにも、茉白にキスをされたあの瞬間は、見られていなかったらしい。
 密かに胸を撫で下ろすも、彼に見られていないからといって、他の誰かに見られていた可能性もある。昨日は突然のことについ呆然としてしまい、ろくに文句も出てこなかったが、次に茉白と話す際には一言苦情を入れる権利ぐらいはあるだろう。
 千羽哉の質問攻めは無視して、元々の目的であった男子トイレへと向けて歩みを再開すると、彼も当然のようにそれに着いてくる。千羽哉とは高校に入ってからの付き合いだが、なにかと絡まれることが多く、一緒にいる時間は長い。すげない綾人の態度にも慣れきっているように、千羽哉は次なる話題を振ってきた。
「それにしても、お前に彼女ができたっていうなら誘いやすくなったわ」
「……言っとくが、小浜は彼女じゃねぇ」
 ここだけはきっぱり否定しておかなければ、茉白にも迷惑だろう。そう思って千羽哉の「彼女」という発言を切り捨てると、彼は「そうなの?」と目を瞬かせる。
「そっかー、彼女じゃないんか。え、でも仲良くはあるんだよな?」
「別に、良くもないと思うが……」
「良くなかったら図書室でふたりきりになったりしねぇだろうがよー」
 ふたりきり、の後に不要なハートマークをつけられたような気がしたが、いちいち突っ込んでいてはキリがないので、聞き流すことにする。
「たまたま病院に行く途中で会って……そこから少し話すようになっただけだ」
「病院? 弟のとこ?」
「そう」
 弟の光希が入退院を繰り返しており、そのたびに綾人も見舞いに通っていることは千羽哉も知っている。しかし、病院というキーワードを出したことで誤解を生んだようで、千羽哉はわずかに眉間にシワを寄せた。
「え、小浜ってどっか悪いの?」
「ああ、いや。病院で会ったわけじゃなくて、その途中の道で……」
 と、そこまで言いかけて、綾人は自らの口を手で押さえた。あまり詳しい経緯を話すと、茉白がひとりで海にいたことまで喋ってしまいそうだった。
 結局、「海水に浸かっていないと死んじゃう」という彼女の明かした理由が真実だったのかどうなのかは、未だにわからないままだ。
 ──けれど、なんとなく。
 制服を着たままひとりぼっちで海の中に佇んでいた彼女の姿を思い返すと、あのときのことを誰かに話すのは気が咎めた。
「……とにかく、お前が思ってるほど深い付き合いじゃねぇし、会話だって言うほどまともにしたことない。それより、誘うってのは何の話だ」
 先程千羽哉がこぼしていた「誘いやすくなった」という言葉の意味が全くわからないため、話を逸らす意味も込めて問いかけると、千羽哉は「待ってました」とばかりに目をきらりと光らせた。
「そう、そのことなんだよ! 俺が言いたかったのは!」
 千羽哉が大きな声を上げるのとほぼ同時に、男子トイレに到着する。「うるさ」と悪態をつきながら扉をスライドさせ、中に入る。千羽哉はトイレ内を見回し、自分たち以外に誰もいないことを確認すると、ずいっと顔を近付けてきた。
「あとニヶ月もないだろ、未八祭りまで!」
「……はぁ?」
 唐突に出た言葉に、頭に疑問符を浮かべながら顔をしかめる。
 少し遅れて、確かにもうそんな時季か、と思い至る。
 未八祭り。この小さな港町──未八町で毎年行われている夏祭りで、八月の上旬に開催される。
 町の中でも一番大きな神社を中心に、境内だけでなく周囲の道にも屋台がずらりと並び、夜八時ごろになると花火も打ち上がる。
 特にこの町特有の変わった催しがあるというわけではないが、イベントごとの少ないこの未八町の中では、老若男女問わず多くの人間が楽しみにしている行事のひとつだ。日が近くなってくると神社近くの商店街も活気づき、町全体がそわそわとしているような空気に包まれる。……もっとも、人混みが大して好きではない綾人は、中学生にもなる頃には未八祭りを心待ちにするという感情を失ってしまったのだが。
 それはそうとして、先程までの会話と千羽哉の口から飛び出た未八祭りという単語が結びつかず、綾人は無言で彼に説明を求めた。
 千羽哉はというと、そんな綾人の視線に待ってましたとばかりにひとりで頷きながら話し始める。
「つまりだ。グループデートをしようという話で」
「断る」
 早々に話を遮った綾人に、千羽哉は悲痛な声を上げた。「なんでだよぉ」という情けない嘆きを聞きながら、千羽哉の言わんとすることを察してしまった綾人は、大きくため息を吐いた。
 要するに。こいつの魂胆は。
「お前、ヨネを誘う口実に俺らを利用したいだけじゃねぇか」
 呆れた声をこぼす綾人に、しかし千羽哉は怯むことなく、
「そこを何とか!」
 と両手まで合わせてくる始末だ。
 ──そう。この佐渡千羽哉という男は、綾人の幼馴染みである米子静に好意を抱いているのだ。
 綾人と千羽哉は一年生のときに同じクラスになり、入学して早々に行われたオリエンテーションで同じグループになったのをきっかけに話すようになった。その数日後、廊下で違うクラスの静が綾人を見かけて声をかけてきたところを、たまたま千羽哉に目撃されていた。
 そして静がその場を去った次の瞬間には、綾人は猛烈な勢いで千羽哉に問い詰められていた。「あの子は誰だ」「お前とはどういう関係だ」……と。
 要するに、一目惚れである。
 入学してすぐに片思いが始まり、かれこれ二年以上が経っている。だというのに、進展は全くないようだ。それもこれも、ひとえに千羽哉がヘタレなせいである。
「いい加減に俺を巻き込むんじゃねぇ。さっさと告白して振られろ」
「なんで振られるの前提なんだよ! 応援してくれよ! 俺ら友達じゃねーのかよぉ!」
 両肩を掴みがくがくと揺さぶってくる千羽哉に、心の底から「うぜぇ」と返す。
 千羽哉とて、全くアプローチをしてこなかったわけではない。それは傍で見ていたから、綾人にもよくわかる。
 しかし、どうにも思い切りが足りないというか、せいぜい綾人と静が一緒にいるときに話しかけたり、学校行事で近くにいくチャンスがあれば声をかけたり、その程度のことしかできていない。ふたりで帰ろうだとか、どこかに出かけようだとか、そういう誘いが一切できていないのだ。
 そんなふうに中途半端なものだから、残念ながら静の方は千羽哉の好意に全く気がついていない。
 曲がりなりにも友人という立場である以上、協力してやろうという気持ちが微塵もないわけではなかった。しかし、こうも前進する様子が見られないとなれば、いい加減うざったくもなってくる。
「誘いたいなら勝手に誘え」
「それができないからこうして頼んでるんだろぉ! なあ、お願いだよ。卒業したら町を離れる可能性だってあるんだし、これが最後のチャンスかもしれないじゃんか!」
 千羽哉のその言葉に、いい加減用を足そうと踏み出しかけていたつま先がぴたりと止まる。
 ──町を、離れる。
 少しの沈黙の後、半ば自分でも意識しないままに、綾人は小さく頷いていた。
「……そうだな」
 突然綾人の態度が変わったことに千羽哉は少し驚いた様子ではあったが、それ以上に喜びの方が大きかったようだ。すぐに飛び上がらんばかりに大仰に感動してみせた。
「え、いいの? まじで?」
「言っとくが、小浜は知らん。一応声はかけてみるが、来るかどうかはわかんねぇぞ」
 綾人と茉白はなんだか妙なきっかけから話すようになったとはいえ、まともに会話したのはたったの二回だ。茉白と千羽哉は同じ部活ではあるが、彼の口ぶりからすると特に親しい間柄というわけでもなさそうである。茉白と静との関係性に至っては完全に未知数だ。
 果たしてそんなグループに誘って、彼女は応じてくれるだろうか。
 しかし千羽哉は、それでも良いと何度も大きく頷いた。
「ありがとう綾人! いやー、さすが持つべきものはダチだよな!」
「……もっと早くお前との縁を切っときゃよかった」
 組まれた肩を振りほどき、このままだといい加減次の授業に間に合わなくなると、本来の用を済ませるために動き出した。