君は泡沫にならない


   1

 授業が終わると学校の中は、部活へ向かう者やすぐさま帰宅する者、教室に残って友人と雑談に興じる者などで、一気に騒がしくなる。
 そのうちのどれにも加わることなく、綾人はカバンを手に持って廊下に出た。
 常であればそのまま昇降口へと向かい、帰宅する生徒たちの波に乗るのだが、今日は寄りたい場所があった。
 ケホ、とひとつ咳払いをする。こんな調子では病院にも行けなさそうだし、そうなると急いで帰る用事もない。
 のんびりと足を進めていると、不意に呼び止める声があった。
「綾人」
 聞き慣れたその声音に足を止めて振り返ると、小柄な女子生徒がひとり、こちらに歩み寄ってくるところだった。
「ヨネ、どうした」 
「お母さんが、コウちゃんの見舞いに行きたいって言ってんだけど。大丈夫そうなの」
「あー、行ってやってくれ。あいつも喜ぶ」
 綾人の返答に、彼女はこくりと小さく頷いた。
 違うクラスの米子静(よねこしずか)──通称ヨネは、いわゆるご近所さんというやつだ。
 幼い頃からよく知った仲で、保育園、小学校、中学校から高校まで一緒という、腐れ縁とでも呼ぶべき仲である。
 小さなころから互いの家に出入りしており、綾人の弟や静の兄姉も交えて遊んでいたため、相手の家族のこともよく知っている。昔から何かと入退院を繰り返すことが多い綾人の弟、光希(こうき)のこともとても気にかけてくれていて、入院した際には見舞いにも行ってくれていた。
 子どもたちの中で一番年下であり、また光希自身が大人しく優しい性格をしていることもあってか、静や彼女の家族は彼のことをとても可愛がってくれている。
「お前も行くなら、ついでに……」
 と言葉を続けようとしたところで、咳き込んでしまった。
 珍しいものでも見るように、静が目を丸くする。
「なに、風邪?」
「多分。昨日、濡れたままチャリ漕いだから」
「はぁ?」
 バカじゃないの、と思い切り眉をしかめられる。この静という女は、ふわふわのショートボブヘアーと低い身長も相まって小動物のような見た目をしている割に、意外と容赦がないのだ。
 それでも、見た目につられてホイホイと引っかかるやつがいるのだが。
「だから、お前も病院行くなら、ついでに俺がしばらく行けないこと、光希に伝えといてくれ」
「……まあ、いいけど。逆にあんたが心配かけてどうするんだよ」
 彼女の言うことはもっともなため、言い返せなくて口を噤む。
 静は、これ以上は特に用事はないというようにひらひらと手を振り、
「そんじゃ、さっさと帰って寝て治しな。ちょっと前から雨降り始めたみたいだし、悪化させないようにね。それじゃ」
 と綾人に背を向けて廊下を歩いていった。
 その小さな背中を見送り、なんとなく居心地が悪い思いで頭をかく。
 静にはさっさと帰れと言われたが、今日はそのつもりはないからだ。
 窓の外を見る。彼女の言う通り、小雨がパラパラと降り注いでいた。梅雨明けはまだ遠いらしい。
 違和感が消えない喉奥から小さな咳をこぼしつつ、綾人もまた止めていた歩みを再開させた。

『日本の人魚にまつわる言い伝え
 日本には各地に人魚にまつわる伝承があり、特に「八百比丘尼伝説」が有名である。
 八百比丘尼とは、人魚の肉を食べたことで不老長寿となった尼僧の名前であり、十六歳から十七歳ほどの若々しい姿のまま、八〇〇歳まで生きたとされている。
 「八百比丘尼」の読みについては、地方によって違いがあり──』
 パタン、と小さな音を立てて、開いていた本を閉じた。
 学校の図書室で調べられることなど、限られている。特に「日本の人魚」などという特定の物事に対する記述は、めぼしいものをあらかた漁ってみたところで、大した量は出てこなかった。
 それでも、大まかな概要は知ることができた。
 昨日、茉白が言っていた「日本の人魚伝説」とやらは、確かに存在するらしい。彼女が言っていた通り、八百比丘尼という女性は人魚の肉を食べて不老長寿となったようだ。
 ……しかしながら。だからといって、茉白の言葉の真意を推し量ることは難しかった。
(あいつは、自分のことを人魚だって言ってた。……だからなんだって言うんだ?)
 もちろん、茉白の言っていたことを鵜呑みにしているわけではない。自身のことを人魚だというのも、単なる戯言だろう。
 結局あの後は、早く帰ってシャワーを浴びたほうがいいと言う茉白に半ば強引に帰宅させられたため、人魚の話に関する詳しい内容を聞くことはできなかった。詳しい内容も何も、咄嗟に思いついた法螺話であるなら、それ以上の情報などないのかもしれないが。
 とはいえ、なんの脈絡もなく日本の人魚伝説の話が出てくるとも思えない。綾人が人魚姫の物語だと思って口にしたことを、彼女はわざわざ訂正したのだ。
 茉白は自身を人魚だと言った。そして、人魚の肉を食べると、不老長寿の体を得るのだという。
(……まさかな)
 一瞬、グロテスクな想像が脳裏を過ぎりそうになって、すぐに打ち消す。 
 彼女の肉体を口にすれば、年を取らないまま常人よりも遥かに永く生きることができるとでもいうのだろうか?
 そんなバカな話……。
「何してるの?」
 分厚い本の裏表紙を見つめながら考え込んでいたところ、突然影が落ちた。
 影の正体を見ると、昨日会話を交わしたばかりの彼女がそこにいた。机の向かいに腰掛け、先ほどまで綾人が読んでいた本を興味深そうに見つめている。机の上で両腕を組むようにして身を乗り出している彼女が顔を上げると、思っていたよりも距離が近く、思わず少し椅子を引く。驚いた拍子に、また喉奥から咳が零れた。
「読書? それとも意外と勤勉家とか?」
「……『意外と』ってのはどういう意味だよ」
 綾人の質問には答えず、茉白はふふっと口もとだけで小さく笑った。戯れにすぎない会話はそれ以上は繋がることなく、すぐに話題が移り変わる。
「で、何読んでるの?」
 茉白の質問には、本をひっくり返して表紙を見せることで答える。
「何これ……『日本の伝説事典』?」
 表紙の右上部分、白の囲みに縦書きで記された題名を読み上げて、茉白は首をかしげる。しかし、すぐに何かに思い至ったように、目を輝かせながら顔を上げた。なんとなく気まずい思いで視線を逸らす。
「もしかして、私が昨日話したことについて調べてたの?」
「……まあ」
 素直に頷くのもなんとなく癪で言葉を濁す。それでも茉白は、ほっそりとした指を組んでそこに顎を預けながら、嬉しそうに笑って見せた。
「てっきり、信じてないと思ってた」
「別にまるっきり鵜呑みにしてるわけじゃねぇ。ただ、気になったから調べてみただけだ」
 彼女とは同じクラスであるがゆえに、今日も当然ながら顔を合わせ、それこそ視線が交差するようなタイミングもあったが、もともとが親しいわけでもない相手だ。特に会話を交わすようなことはなく、今の今まで昨日の出来事について触れられもしなかった。
 きっと昨日のことは、ほんの一瞬、偶然にも自分たちの時間がほんの一瞬だけ交差したにすぎない。このまま、顔見知り程度の関係として、大して話すことなく残りの高校生活数ヶ月を過ごすものだと思っていた。
 だからまさか、こうして興味本位に図書室で調べ物なんかをしている最中に、彼女の方からやってくるとは思わなかったのだ。昨日の会話の内容をそれなりに気にしていることを知られてしまったのが、言いようもない気恥ずかしさで綾人を苛む。
 咳払いをした後、それを誤魔化すようにひとつため息を吐いてから口を開く。
「まさか、尾行してきたのかよ」
「ううん。でも、あっちの廊下歩いてる時に、大井くんが窓から見えたから」
 あっち、と彼女の細い指先が示した方向を目で追う。図書室のある第四棟は、三年生の教室が並んでいる第三棟と隣り合わせになっている。教室から出て廊下を歩いているときに何気なく第四棟の方を見れば、確かに図書室にいる人物が窓越しに目に入る配置になっていた。
 普段図書室を利用しないものだからうっかりしていた、と再びため息を吐く。それを聞いた茉白は、「そんなにため息ばっかだと幸せ逃げるよ」と使い古された迷信を口にした。
「それに、今日は雨が降っちゃってるから。部活休みになったし、ついでに図書室で勉強でもしていこうかなーって思って」
 言いながら、彼女は自身の鞄を机の上に載せる。ファスナーを開けてノートや文房具を取り出す茉白に、ああ、と納得して再び視線を窓の向こうへ遣った。細い糸のような雨筋が、さあさあと止めどなく落ちていくのが目に入る。
 そういえば、彼女は水泳部だった。天気によっては、こうして突発的に部活が休みになる日もあるのだろう。
 泳いでいる茉白の姿を想像しかけて、再び彼女が口にした「人魚」という単語が頭を過ぎる。綾人の友人は、小浜茉白のことを「馬鹿みたいに泳ぎが速い」と評していた。
 今、目の前で数学の教科書を広げようとしている彼女は、どこからどう見てもただの人間でしかない。
 けれど、もしも本当に。遥か昔、その肉を食した人間に不老長寿の体を与えた人魚と同じ力が、彼女にあるとしたら……あるとしたら?
「……八尾比丘尼の話をそのまま受け取るとしたら」
 教科書に視線を落としていた茉白が、綾人の言葉に顔を上げる。
「お前を食えば、不老長寿になるってのか?」
 綾人の質問に、茉白は驚きはしなかった。しかしすぐに答えることもせず、窓越しに聞こえてくる微かな雨音だけがふたりの耳を支配する、そんな時間がほんの数秒流れた後。
「どうだろうねぇ。それは、わかんない」
 ゆるりとした笑みを浮かべながら、そう答えた。
 その返答に、ほっとしたのか、それとも残念に思ったのか。綾人が自分でも図りかねているうちに、茉白が手のひらの上に顎を載せて窓の外を見る。
「うちの家系ってさ、人魚の血が流れてるんだよね。まあ、厳密に言うと血統とはちょっと違うんだけど」
「……お前ん家が、この八百比丘尼の血を引いてるってのか?」
「まさか。でも、近いような伝説が伝わってる」
 ふたりのいる自習席は図書室の入り口から離れた奥まった場所にあり、周りには誰もいない。話し声を聞き咎められることもない中、内緒話のように、密やかに茉白は語り出す。
「大昔に受け継いだ人魚の血だから、今はだいぶ薄れてきてるのね。でも、隔世遺伝なのか何なのか、私にはかなり濃く影響が出てるみたいで」
 法螺話と言って笑い飛ばすには、彼女の声はあまりに真に迫るものがある。淡々とした口調は、物語を聞かせるというよりは、ただ説明を並び立てているという風だった。それは、いつも友達に囲われて明朗快活に笑っている茉白の印象と、随分かけ離れていた。
「濃いとか薄いとか、どうやってわかんだよ」
 まさか、服に隠された彼女の体のどこかに、鱗でも生えているというのだろうか。
 そんな綾人の推測など知る由もない茉白は、「力だよ」と答えた。
「力?」
「そう。人魚の血を引く私たちには、普通の人とは違う力が宿ってるの。その力が、私は強いんだ」
 ますます御伽噺じみてきた、と顔を顰める。ゲホッと大きめの咳が出て、口元を手で覆った。
 それを見て、茉白が大きな瞳をくるりと丸くする。
「さっきから咳してるけど、ひょっとして具合悪い?」
「……大したことない」
 昨日濡れたまま帰ったから、などといえば、要らぬ罪悪感を彼女に与えてしまうだろう。そう思って曖昧に誤魔化したのだが、勘が良いのか、茉白はすぐに気付いてしまったようだった。
「もしかして、私のせい? 昨日海に入ったりしたから……」
「濡れたせいではあるけど、小浜のせいじゃない。昨日も言ったろ」
 深く息を吐いて、背もたれに体重を預ける。そんな綾人の様子を茉白はじっと見つめていたが、やがて小さな声でぽつりとつぶやいた。
「……優しいね」
 よく聞き取れなかったその言葉に綾人が問いかけを投げるより早く、茉白は何かを閃いたかのように口角を上げた。
「そうだ、ならちょうど証明できるかもしれない」
「証明?」
「そう。私が力を持ってるって証明」
 そう言ったかと思うと、彼女は徐に席を立った。カタン、と椅子が揺れる微かな音が、図書室の中で静かに響く。
 そのまま茉白は、机に両手をついてこちらに身を乗り出してきた。急に眼前に迫った顔に、思わず息が止まる。
「……人魚の肉は、食べた人に不老長寿をもたらす。それはつまり、とてつもない生命力を与えるのと、同じこと」
 吐息を感じられるほどの至近距離で、茉白が囁く。図書室の奥まった場所、ふたりのことを見ている者は、ここには誰もいなかった。
「私の力はね」
 呆然としている間に、茉白の顔がさらに近付いた。互いの前髪が触れ合う。
「人に生命力を与えることができるの」
 柔らかい感触が、唇に触れる。
 絶え間なく降り続けている雨の音が、やけに耳についた。
 おそらく、時間にしてみればほんの一瞬のことだったろう。けれど、茉白の顔がゆっくりと離れていくその間も含めて、まるでスローモーションで流れる映像を見ているかのように、全てのことがやたらと長く感じられた。
 距離をとった茉白が、どこか得意げな笑みを浮かべる。
「喉、治ったでしょ?」
 言われて、自身の喉に片手をやる。
 先ほどまで感じていた刺すような違和感は、いつの間にか綺麗さっぱりと消えてなくなっていた。