君は泡沫にならない


   エピローグ

 まだ肌寒さを残した風が強く吹き、彼女の長い髪をさらった。茉白が「わ」と小さく声をあげて、風に弄ばれた髪を押さえる。
 無人駅のホームには、ふたり以外の姿はない。閑散とした光景だが、屋根のほとんどない駅の頭上には気持ちよく晴れ渡った春の空が広がり、寂しさは感じられない。
 えっと、と言って茉白がスマートフォンに目を落とす。
「電車が来るまで、まだちょっと余裕があるみたい。早めに出てよかったね」
「乗り遅れたら次が来るまで一時間はあるからな。早く着いて困ることはないし」
「ふふ、そうだね。送ってくれてありがとう」
 にっこりと微笑んで礼を言ったかと思うと、彼女の笑みが少しからかうような類のものに変わる。
「それにしても、まだあんまり運転したことないって言うから、最初はちょっとドキドキしてたんだけど。上手でびっくりしちゃった」
 どういう反応を返せばいいのかわからず、ごまかすように後頭部をかく。先日免許を取ったばかりの自動車の運転は、自分ではまだ自信がない。最初はドキドキしたと茉白は言ったが、綾人自身もまだ車を発進させる瞬間は緊張する。
「車の中に忘れ物とかしてねぇよな。なんか貴重品忘れててもすぐに持ってってやれねぇぞ」
「え、そう言われたら不安になってきた。ちょっと待って」
 焦った表情で、肩から下ろした鞄を傍らのキャリーケースのうえに置くと、中身を確認し始める。その姿を、感慨深いような、感傷を伴うような気持ちで見つめる。
 茉白は今日、この町を旅立っていく。

 あの夏の日から、あっという間に七ヶ月が過ぎた。季節は移り変わり、受験や就職活動で皆が慌ただしくするうちに、卒業の日を迎えた。
 進学のために実家を離れ、遠い地で一人暮らしを始めるものも多い。小浜茉白もそのうちのひとりで、当初は引っ越しの手伝いのために彼女の両親も同行する予定だったのだが、どうしても仕事の都合がつかなかったらしく、茉白だけ先に行って家の鍵を受け取る段取りになったとのことだった。両親は明日、彼女の一人暮らし先にやってくるそうだ。
 そして、駅までの足がないという茉白に急遽、送迎係として任命されたのが、免許を取り立ての綾人だった。
 車が必須の田舎では、自由登校期間に免許を取りに行くものも少なくない。どうやら高校によっては在学中の免許取得が禁止されているところもあると噂で聞いたが、綾人たちが通っていた学校にはそのような規則はなかった。そのため綾人も、自由登校期間から教習所に通い、約一ヶ月かけて無事に免許を取得したというわけだ。

「ここみたいな田舎だと、どこ行くにも必須だからな」
 綾人がそうこぼすと、茉白は目を細めて「そうだね」と微笑む。
 ──不思議なものだ。あんなにこの町から離れることを望んでいたにもかかわらず、結局綾人は、茉白のように地元を出て一人で暮らすことを選ばず、ここで生きていく選択をした。
 あの夏の日々を経て、不思議と自分の中で、以前のような「ここから逃げたい」という気持ちがなくなっていることに気がついた。それは、退院の日にようやく光希ときちんと気持ちを交わせたことが、大きかったのだと思う。
 だからこそ、あの日茉白にもらった言葉が、綾人の選択を後押しした。
『新しい場所でも、どこでもさ。思いがけずなにかを見つけられたら、それって素敵なことだよね』
 なにかを見つけることは、きっとどこでだってできる。自分が視界を閉ざさずに、前を見据えていれば。
 だから、それを見つける日まで、ここにとどまってもいいかなと思ったのだ。確たる目的もないまま、当て所なくどこかへさまよわずとも、地に足をつけながら、ゆっくり探していくのもいいだろう。
 幸いにも、春からの就職先は決まっている。父の昔からの知り合いが営む建設会社で雇って貰えることになり、建設の現場で働く予定だ。
「お仕事にも車で行くんでしょ? じゃあ次に会う時は、もっと運転上手になってるね」
「どうだかな。さっさと慣れたくはあるが」
「じゃあ、帰省するときも綾人くんにお迎え頼んじゃおっかな」
「……都合良く足として使おうとしてないか?」
 じと、と睨めつけると、茉白は「そんなことないよー」と両手を振ってからからと笑う。
「じゃ、運転代として髪切ってあげるからさ」
 そう言って茉白は、片手でハサミを動かすような仕草をして見せる。
「次に帰省するのっていつだ?」
「んー、夏休みかな?」
「それじゃまだ大して技術も身についてないだろ。プロになってから頼むわ」
「えー! 信用ないなぁ」
 頬をふくらませる彼女にからかうような笑みを向けるが、実のところは半ば冗談で、もともと器用そうな茉白であれば、きっと技術を身につけるのも早いのだろうと思っている。
 ──綾人とは反対に、この町を離れることを決めた彼女は、以前から興味があった美容師の道へ進むという。
 そのことを打ち明けられたのは、秋の入り口のあたりだった。綾人の方から細かくあれこれと聞き出したわけではないが、おそらく彼女の方でも、今年の夏に起きた様々な出来事、特に例の事故をきっかけに、心境の変化があったのではないかと思う。
 彼女の中で贖罪は済んだのか。それとも贖罪の意識そのものが消えたのか。それはわからない。
 ただ、話の最中に茉白がつぶやいたことが、印象に残っている。
『あの嵐の日、綾人くんが私の命を尊重してくれたこと。これからは、ちゃんと覚えておきたいなって』
 入院している最中にも、彼女のもとにはたくさんの見舞い客が訪れたそうだ。茉白の死を望んでいる人間など、どこにもいない。彼女には、大切に思ってくれる家族や友人が、たくさんいる。それはきっと、茉白が自分で考えている以上に。
 彼女から「贖罪」の話を聞いた時に思ったことが、きちんと伝わったのだろうか。そうだといい。
 己のやりたいことを見出し、進行方向を定めてからの茉白は、以前にも増して活力に溢れていたように見える。残り半年の高校生活を全力で楽しみ、悔いがないように過ごしてきた彼女は、今日新たなステージへと旅立とうとしているのだ。
 そうこうしているうちに、電車の時間が近づいてきていた。再びスマートフォンを確認して「そろそろかな」と茉白が呟く。
 線路の先を見つめる彼女の横顔に、小さく告げる。
「元気でな」
 振り向いた茉白が、微笑む。柔らかな笑みには、少しの寂しさも滲んでいたが、それ以上の期待が目に宿っているように見えた。
 タタン、タタン、と近づいてくる音に、先程茉白が見ていたのと同じ方向へ目を向けた。青色の電車が、こちらに向かって走ってくる。
 海の色だ、と思ったところで、唐突に思い出した。
「あ」
 キャリーケースを引き、乗車位置につこうとしていた茉白が、その声に足を止める。
「そういや、お前に聞こうと思ってたんだ」
「何?」
 小さく首を傾げる彼女の動きに合わせて、長い髪が肩から滑り落ちる。
「あの事故の時、お前みんなの怪我治してくれたよな」
「え? うん」
 突然半年以上も前のことを蒸し返されるとは思わなかったのだろう、茉白は話の流れが掴めないというふうにきょとんとしている。
「あの時は、体に触れるだけで力が使えてたみたいだったが」
「うん、そうだね。私の力は、基本的に相手に触れれば使えるから」
「んじゃ、なんで、その……」
 言い淀む綾人に、数回瞬いた茉白は、彼の言いたいことに思い当たったようで、その表情をにぃっと変化させた。猫を思わせる笑みのまま、茉白が声を潜めて言う。
「なんで最初の時、キスしたのか、って?」
 顔が瞬時に熱を持つ。視界の端に、電車がゆっくりとホームに滑り込んでくるのが見える。
 もうすぐ彼女は旅立ってしまうというのに、どうしてこんな話をしているんだ。もどかしさと焦りと羞恥が、舌をもたつかせる。
 何も言えなくなって視線を下げそうになった、その時だった。
 一瞬。柔らかいものが、唇に触れる。
 すぐに離れたそれを追いかけるように、彼女の髪からだろうか、花を思わせる香りが鼻を擽った。
 ブレーキの甲高い音を立て、電車が停止する。
 キャリーケースの持ち手を掴んだ彼女が、乗車位置に移動する。
 くるりと振り返った茉白は、ほんのりと色付いた頬で、綻ぶように笑った。
「じゃ、また夏に!」
 プシュ、という気の抜ける音とともにドアが開き、彼女がキャリーケースとともに乗り込む。
 他に乗車する客はいない。彼女は閉まりゆくドアの前で、こちらに向かって手を振った。
 片手を上げて、それに応える。
 電車は、やはりゆっくりと速度を上げて、ホームを出ていく。
 その青い車体が見えなくなるまで、見送り続けた。彼女を乗せて、遠くの街へと走っていく。
 けれどこれは、別れではない。終わりではない。
 先へ進む希望と、期待があるから、歩いていける。
 また、次の夏に。

        END