13
窓の外に広がる空は、夏らしく青々としていて、目に眩しいくらいだ。
たった二日の間だが世話になったベッドの周りを、ぐるりと見回す。大してものを持ち込んでいないとはいえ、忘れ物があってはならない。
床頭台に置かれた時計を確認すると、そろそろ母親が迎えにやってくると伝えられていた時間だった。病室から出てドアの傍にある長椅子で待っていようと思い、荷物の入ったスポーツバッグを肩にかける。
年配の同室者が、「元気でな」「もう無茶するんじゃないぞ!」と笑いも交えながら見送ってくれる。ぺこりと頭を下げながら挨拶をして、病室を後にした。
病室を出てすぐ脇には、薄青色の長椅子が置かれている。そこにスポーツバッグを置き、自分も腰を下ろした。廊下を見渡すも、まだ母親の姿はない。こつんと壁に頭を預け、軽く目を閉じた。
病院には光希の見舞いでしょっちゅう訪れていたが、彼が入院するのはいつも個室であるため、大部屋というのはなかなかに新鮮な心地だった。気の良い人たちで緊張することもあまりなかったとはいえ、普段自室でひとりで悠々と寝ている身としては、どことなく気が休まらなかったのも事実だ。
ようやく帰れる、と思ったところで、同じく今日退院を予定している静のことを思い出す。彼女の方も、もう誰かが迎えに来たのだろうか。
あの後。
病院に運ばれた四人は、それぞれ診察を受けた。
外傷は全員似たようなもので、軽い打撲と擦り傷や切り傷……それだけだった。
そのため千羽哉は外来処置のみでその日のうちに帰れることになったのだが、綾人と静は一時的とはいえ意識を失っていた経緯があるため、念のために検査入院することとなった。
そして、茉白は。
目を開ける。
事故の翌日、一度家に帰ってから見舞いに訪れた千羽哉は、最初に綾人に向かって深く頭を下げた。自分があの場所に行こうなどと言い出さなければ、事故は起こらなかった。ガーゼを貼り付けた顔に後悔を強くにじませながら、千羽哉は絞り出すような声でそう言った。
しかし、綾人は彼ひとりの責任だとは思っていない。あの時、最終的に全員が千羽哉の提案に賛成し、行くことを決めた。だから責任は平等にある、と告げると、まだ申し訳なさそうな表情をしてはいたものの、一応は気持ちに折り合いをつけたようだった。
そしてその後、綾人のベッドの傍に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしながら、首をかしげた。
「しかし、あの時絶対に骨折れてると思ったんだけどなぁ……急に、嘘みたいに痛みが引いたんだよな」
不思議そうにそう言う千羽哉に、綾人は曖昧に「そうか」と返すことしか出来なかった。
綾人とて、明らかに出血した形跡があるというのに、頭部のどこにも裂傷が見つからないものだから、医者にずいぶんと不思議がられたものだ。
その理由も知っている。しかし、彼女の秘密を綾人が勝手に他人に明かしていいものだとは思わなかった。だから、何も言わずに黙っていた。そもそも、話したところで信じる人がいるかどうかわからない。
——いや。
もしかすると、信じる人もいるかもしれない。
あの日以降、一度も意識を取り戻していない、彼女のことを知れば。
「兄ちゃん」
よく知った声に、回想にふけっていた思考を引き戻される。見ると、マスク姿の光希がこちらへ向かってくるところだった。
壁に預けていた身を起こす。
「光希。お前も来たのか」
「うん。母さんが退院手続きしてるから、先にこっち来ちゃった」
てっきり、母親だけが来るものだと思っていたので、素直に驚いた。
光希は近付いてくると、そのまま綾人の隣に腰を下ろす。
「僕が退院したと思ったら、その後すぐ兄ちゃんが入院するなんてね」
「……ほんとだよな」
親不孝者だよな、とふたりしてひっそりと笑い合う。
長く入院していた光希が退院できたのは、未八祭りの数日前だった。予想していた通り、まだ人混みに出ることは難しい光希のために、祭りの日は帰りになにか屋台飯でも買ってやろうと思っていたのだ。それがこの有り様である。
「でも、ほんとにびっくりしたよ。土砂崩れに巻き込まれるとか」
「……理由が理由だから、情けないことこのうえないんだがな」
自分の顔を覆い隠すように、膝に両肘をついて組んだ指に目元を押し当てる。それに対し光希は、かすかに息を吐くような笑い声をこぼした後、ぽつりと言った。
「いつも僕が入院する側だったから、逆の立場は新鮮だな」
その言葉に、思わず顔をあげて光希を見る。彼はスニーカーを履いた足先をぱたぱたと小さく上下に揺らしていた。
「すごい心配した。怪我のことももちろんそうだし、退屈してないかなとか、不便なことはないかなとか。あと、ちゃんと眠れてるのかなとか」
まるで親のようなことを言う光希になにか言い返そうとしたが、それは幾度も入退院を繰り返している彼だからこその、実感のこもった「心配」のように思えた。
「……兄ちゃんたちは、いつもこんな気持ちなのかなって思った」
じんわりと深く、自身の心の海に静かに潜っていくような声音で、光希が言う。彼の顔を見るも、その視線は正面の壁を捉えているようでいて、その実どこか遠くに向けられているようだった。
「ねぇ、兄ちゃん」
「……なんだ」
光希が目を細める。まだ幼さを残す顔立ちの彼のその仕草は、なぜだかひどく大人びて見えた。
「兄ちゃんが、ずっと僕に対して、引け目みたいなの感じてること、気付いてたよ」
心臓がざわりと音を立て、一瞬だけ口の中に苦い味が広がった。
隠し通せていると思っていた。ふとした瞬間に自身を蝕む、弱さも無力感も。ただでさえ病気と闘っている弟に、自身の気持ちの問題など悟られてはならないと、そう思っていたのに。
しかしおもむろにこちらを向いた光希の表情の穏やかさに、その苦さはすぐに溶けていく。
「そんなの、全然必要ないのに。責任感が強すぎるのかなぁ」
「……そういうわけじゃねぇよ」
むしろ、逃げようとしていた。光希のためにできることを、必死になって探そうともせず。
——それでいて、きっと心のどこかで、自分の未来を決めきれないことを、光希のせいにしていた。
「でも、僕は僕だし、兄ちゃんは兄ちゃんだよ。別の人間なんだから、何もかもを兄ちゃんが背負い込むことはないと思う」
滲むように、胸が熱くなった。
いつの間に、光希はこんなに大きくなっていたのだろう。傍で見ていたものだから、気付けなかった。
ずっと、彼のためになにかしてやらなければと思っていた。いや、してやりたいと思っていた。
しかし光希はもう、モンスターと戦う強さを手に入れていた。
手を伸ばし、そのまぁるい頭に載せる。柔らかい髪の毛を、くしゃりと撫で回してやった。
「弟離れ、ってことか」
「なぁに、それ」
照れくさそうに笑いながらも、どこか嬉しそうに、光希は綾人の手のひらを受け入れる。
温かく穏やかなものが、身体の中心から溶け出していく。
もうずっと、十数年も抱え続けていたくすぶりが、優しく融解していくようだった。
それを自覚した時、綾人は自然と微笑むことが出来た。
「……あ、そうだ」
あることを思い出し、光希の頭から手を離す。
「ちょっと、荷物と一緒にここで母さん待っててくれねぇか?」
「うん? いいけど……トイレ?」
「いや、そうじゃねぇんだが……ちょっと用事があって。すぐ戻る」
こくりと頷いた光希に荷物を任せ、綾人は記憶を頼りに歩き出す。昨日も何度か訪れた、とある病室へ。
病院を出る前に、もう一度彼女に会いに行こうと思ったのだ。
綾人に力を使い、気を失った茉白は、あれから一度も目を覚ましていない。
病院に運び込まれた彼女は全身に軽い怪我を負ってはいたものの、頭部に衝撃を受けたような痕は見当たらなかった。故に医者も「原因不明の失神」と判断するしかなかったようだが、綾人は力の使いすぎによる消耗だとわかっていた。
今はゆっくりと身体を回復しているのだと自分に言い聞かせてはいるが、いつ意識が戻るかわからないというのは、やはり怖かった。
かつて従姉を助けられなかった代わりに、自分の命を使って誰かを救わなければならないと言っていた茉白。
一体、何を思ってあの時、最後に綾人に力を使ったのか。
早く、彼女と話がしたかった。
たどり着いた病室のドアをノックする。
入るぞ、と一声かけて返事を待ってみたが、応じる声はなかった。肩を落としつつも、ドアを開く。
開いた先の病室は、綾人が先程までいたそれとは違い、ベッドがひとつ置かれているだけだ。綾人たちと違い個室なのは、大きな外傷がないにもかかわらず意識が戻らないということで、より慎重に観察する必要があると判断されたのかもしれない。
その個室にぽつんと置かれたベッドのうえ、茉白は静かに横たわっている。
後ろ手にドアを閉めて足を踏み入れる。傍まで歩み寄ると、穏やかな表情で目を閉じている彼女がいた。呼吸にあわせて緩やかに上下する身体も含め、本当にただすやすやと眠っているだけに見える。
聞こえていないとわかりつつも、なにかを話しかけようとして、唇がむずむずと不器用に歪む。けれど結局、口に出来たのは事務連絡のような言葉だけだった。
「……一足先に、退院する。お前も、早く起きろよ」
それでもなんとなくすぐには立ち去り難く、長いまつ毛が伏せられた彼女の顔を、しばらく見つめていた。
しかしやがて、そんなことをしても茉白が目覚めるわけではないと、頭を振る。
そろそろ戻るかと、踵を返そうとした。その時だった。
なんの前触れもなく、茉白のまぶたがぱちりと開いた。
「うおおっ!?」
予期せぬ出来事に、思わず大きな声を出してしまう。身体も驚きにのけぞってしまった。
ドッドッと心臓が早鐘を打っている間に、茉白の視線がゆっくりと綾人に向けられる。
「……退院、おめでとう」
その声にも、瞳にも、眠りの残滓は見られなかった。
もしかして。
「……狸寝入りしてたのか、お前」
鼓動を落ち着かせながら問いかけると、茉白はどことなく後ろめたそうな様子で目をそらした。
「だって、なんか……何を話せばいいのかって思ったら、とっさに寝たふりしちゃって」
つまりは綾人が来る前から起きていて、病室の前で声をかけたタイミングから今までずっと、狸寝入りだったというわけだ。
まるでただ穏やかに眠っているようだ、と考えた自分が、なんだか少し恥ずかしい。眠っているどころか、嘘寝だったわけだ。
軽くため息をついてから、壁際に置かれていたパイプ椅子を引き寄せる。腰を下ろすと、先ほどより茉白との目線が近くなった。
「……いつ目が覚めたんだ?」
「今日の明け方ぐらい。午前中に色々検査したけど、現状では異常なしだから、数日様子見したら退院できそうだって」
それを聞いて安心した。万が一にも、体力の消耗以外にもなにか不調が発生している可能性が、嫌でも頭をよぎってしまっていたからだ。
「体調はどうだ?」
そう尋ねると、彼女は掛け布団の中から自分の右手を出し、顔のうえで握ったり開いたりする。
「全身がだるい感じはあるけど、動けないってほどじゃないよ。いっぱい寝てればそのうち良くなると思うし」
目が覚めたとはいえ、やはりまだ快復したわけではないようだ。
思わず重ねるように、
「頭が痛いとかは?」
と聞くと、彼女はくすりと笑ってこちらに顔を向けた。
「大丈夫だってば。心配性だなぁ」
ようやく、しっかりと視線が合う。
絡んだ眼差しに、彼女の顔からゆっくりと笑みが引いていく。そうして、右手を自分の胸元あたりに下ろすと、そっと目を伏せた。
「……目が覚めてから、ずっとね。綾人くんに、なんて言おうか考えてて」
ためらいがちに口を開いた彼女の声に呼び寄せられるようにして、一昨日の夜のことが思い出される。
あの時、力を使う直前に、茉白が言ったこと。
——えらべなくて……ごめんね
彼女が何を「選べなかった」のか。何を謝っていたのか。
茉白が目を覚ますまでは、ただ体調のことが心配でなかなか頭に上ってこなかった疑問が、今改めて彼女と会話を交わすことによって、再び浮上してくる。
その真意を問いたかったが、おそらく言葉を探しているのだろう茉白の瞳が、虚空を捉えたまま何度かまばたきを繰り返すのを見守った。
やがて彼女は、ゆっくりと口を開く。
「……あの時、私が最初に動けたじゃない?」
「ああ」
最初の時点で、最も軽傷だったのは彼女だった。周囲を見回した茉白は、他の三人の状態を見て取って、そして自分の成すことを決めたのだ。
「他のみんなは、動けなかったり頭を打ってたりしてて、結構怪我が重かったよね。だから、私……」
言い淀んだ彼女の手が握りしめられ、シーツにシワを作る。
「死ぬかも、って思った。みんなの怪我を完治させたら、私が死ぬかもって」
実際、その通りだった。綾人の制止を聞かずに三人全員に治癒の力を使った茉白は、極度の消耗により意識が戻らなかったのだから。
「下手したら、二人分の怪我しか治せない可能性もあって。でも、なんとかしなきゃって思って。特に静ちゃんは意識がなかったみたいだから、一刻も早くどうにかしたくて」
そうだ。そうして茉白の力のおかげで、静は自力で動けずとも意識を取り戻すまでには回復した。
「その後、佐渡くんの怪我も治して……最後が、綾人くんだった」
彼女の声に罪悪感が滲むのがわかった。
綾人の怪我の回復を最後にまわしてしまったことを、申し訳ないと思っているのだろうか。しかしそれなら、あの夜にも伝えたはずだ。茉白は充分にやってくれた、謝罪はいらないと。
思わず口を開こうとしたのを遮るように、茉白が言う。
「なんで私が、綾人くんを最後にしたか、わかる?」
「……怪我の重さで判断したんじゃねぇのか。あるいは、小浜が倒れてた位置から近かった順番とか」
実のところ、考えたことすらなかった。
綾人にしてみれば、茉白が全員を助けてくれたという事実が何よりも大きくて、順番についてあれこれ考察する必要がなかったのだ。
「それもある。でも、一番の理由は……」
そこで彼女は再び言い淀んだが、沈黙は長くはなかった。
「死ぬかも、って、思ったときね。怖かったの」
「……ああ」
「ひとりで死ぬの、怖いなって。それで……」
茉白の瞳に、薄く涙の膜が張る。
そのさきを口にすることに、彼女がとてつもない勇気を振り絞っているのがわかった。
「もしも、もしもね。私が二人分の怪我しか治せずに力尽きたら……三人目は、力尽きた私と一緒に、このままここで死ぬことになるのかなって」
「……」
「だったら、それは綾人くんが良いなって……思っちゃった」
ついに核心に触れた彼女の唇が、自嘲の形に歪む。
「……だから、俺が最後だった?」
「そう。綾人くんはあの台風の夜、私の命を選んでくれたのにね」
光希の容態が危ないと病院から連絡を受け、茉白の家を訪れた夜のことだ。
あの時、彼を助ければ茉白の命が危うくなると思い至った綾人は、光希のために力を使ってくれとは言えなかった。
「選んでくれたのに……私は、綾人くんの命よりも、自分の怖さを埋めることを考えてしまった。だから……ごめんなさい」
そう言って、茉白は両腕を交差させるようにして、自らの目元を覆った。薄く開かれた口から、はは、と乾いた笑いがこぼれる。
「あーあ。醜くて嫌になっちゃう」
自嘲気味に、茉白が吐き捨てた。
彼女の言った「選べなくて」は、綾人の命を「選べなくて」ということだったのか。
腑に落ちる。しかし同時に、反論も湧き上がった。
「でも、最終的にお前は俺の怪我を治すことを優先したじゃねぇか」
すでに疲弊していた身で、それでも茉白は綾人を治癒したのだ。
その点については、あまり納得のいっていない部分もある。助けてもらった身で何をという話ではあるが。
あの時、助けを呼びに行った千羽哉を信じて大人しく待っていれば、茉白は必要以上に消耗することはなかったのだ。
どうして茉白は、綾人の制止を聞かず、力を使ったのか。
綾人の言葉を聞いて、いびつな笑みを浮かべていた彼女の口元が、真一文字に引き結ばれる。少しの沈黙の後、目元を隠していた腕がそっと退けられた。
天井を見つめたまま、茉白はぽつりと口を開く。
「……なんでだろうね」
ごまかしている風ではなかった。本当に、彼女にも自身の行動がわかっていないのか。
「今になって思うと、綾人くんの言う通りにするべきだったと思うよ。その方が、家族にもみんなにも、余計な心配かけなくて済んだし。……でも、あのときは」
その時のことを回想するように、茉白の目が細められる。
「綾人くん、血がいっぱい出てて。痛そうで。だから……早く、治してあげたくて」
彼女の視線が動く。交わる。
綾人の目をじっと見つめながら、
「それだけ」
と茉白はつぶやいた。
僅かに潤んだその瞳には、小さな熱が灯っている。
行動の理由など、それだけで充分に思えた。

