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帰宅部であるがゆえに、夏休み中の学校というものを訪れる機会はなかなかなかった。想像していたよりも閑散とした印象を受けないのは、グラウンドで駆け回っている運動部の姿や、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の楽器の音色があるからだろう。先程通り過ぎた体育館の中からも部員たちの声だけでなく、ボールを打つ低い音や靴底と床がこすれる甲高い音が漏れ聞こえてきていた。
校舎内はまた少し印象が違うのだろうな、と思いながらも、昇降口の中に入ることはなく、グラウンドを回る。向かった先のプールには、すでに多くの人の姿があった。
茉白から教えてもらった、水泳部の引退式。この日は部員だけでなく、OBやOG、三年生の保護者なども応援に来ることができるらしい。そして同学校の生徒であれば、同様に立ち入ることが可能なのだと、茉白は言っていた。
そんなに広くはないプールサイドに、ずらりと人が並んでいる。その中によく知った小柄な姿を見つけ、見物人の間を縫うようにしてそちらへと向かった。
「よう」
声をかけると、すぐに彼女は顔をこちらに向ける。
「遅かったね」
「そうか?」
短い言葉を交わすと、すぐに彼女――静は、視線をプールの方へと戻した。
「ちょうどニ年生のラストが今から泳ぐところ」
「なら、ぴったりじゃねぇか」
茉白から大まかなタイムスケジュールを聞いていたため、三年生の出番に間に合えばいいと思いこの時間にやってきたのだが、どうやら時間の読みは正しかったようだ。
ピッ、という電子音とともに、一列に並んだ部員たちが水の中へと飛び込む。プールサイドから応援の声が上がる。水しぶきに陽光を反射させながら、部員たちは前へ前へと進んでいく。
「しかし、意外だったな」
歓声の波間に呟いた綾人の声を拾い、「何が?」と再び彼女がこちらを見る。
「お前が今日ここに来てること」
「言っただろ。誘われたから、来た方がいいのかなって」
そう、それも含めて〝意外〟だったのだ。
茉白から引退式を見に来てほしいと言われた後、一応静にも連絡を取ったのだ。せっかくなら彼女も連れて行った方が、千羽哉のやつが喜ぶだろうと思ったから。
静からの返信は予想外だった。彼女からのメッセージには、「この前佐渡にも誘われたから、行くつもり」とあったのだ。
まさか、知らないところで千羽哉が自発的に静に向けてアプローチしているとは思わなかった。正直、ほんの少しだけ見直した。
「あんたの方こそ」
と話を振られたので、なにかと思って彼女の小さな頭を見下ろす。
「最近大変そうだったし、もしかしたら今日も来られないかもって思ってたんだけど」
「ああ……」
綾人から直接静になにかを話した覚えはないのだが、家族ぐるみの付き合いゆえに、親経由で光希のことを知っていてもおかしくはなかった。
「ここにいるってことは、コウちゃんは大丈夫そうなの?」
「ああ。一般病棟に移ってからは、落ち着いてる」
その返答を聞いて、静は「そう」と目尻を和らげた。
実際、まだ退院は出来ないものの、順調に回復の兆しを見せている。昨日見舞いに行ったときは、ようやくシャワーの許可が下りたと嬉しそうに話していた。
「未八祭りまでには、退院できるかな」
「どうだろうな。出来たとしても、人混みの中は無理だろうしな」
「……だよね」
ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
綾人と光希と、静のところの三兄妹で出かけた、未八祭りの思い出。互いの家の両親に連れられて行ったものの、境内の中では子ども五人で好きに屋台を見て回っていたような気がする。
スーパーボール掬いが得意な静の兄が、カップに収まりきらないほど掬ってみせるのを、みんなですごいすごいと声を上げながら見ていた記憶。静がりんご飴を買ったはいいものの、飴の部分だけ先に食べ、あとはあんまり美味しくないと持て余していた記憶。射的に挑戦してみるも上手く当たらず、唯一取れた小さなラムネを光希にやった記憶。
そんないくつもの思い出が、朧気に浮かんでは消えていく。
「まあ、退院できてたらたこ焼きぐらいは買って帰ってやるかな……っと」
話しているうちに、いつの間にか二年生の泳ぎは終わっていたようだ。アナウンス係を務める部員が、三年生はこれが高校最後のレースであることを告げる。
観客席からの拍手が鳴り響く中、泳者たちがスタート位置に着いた。
「あ、佐渡だ」
スタート台に並んだメンバーの中からその姿を見つけたらしい静が、そう呟いた。頭ひとつ抜けた長身は、ゴーグルとスイムキャップをつけていてもよくわかる。
「あいつデカいから目立つな」
「そうだね」
珍しく、静の声に小さな笑いが混じる。
そうこうしているうちに、長い笛の音が鳴り響き、泳者たちは飛び込みの姿勢を取る。
「Take your marks」
という号令がかかると、しんとした静寂がプール全体を包み込んだ。そして先ほどと同じ電子音が鳴り、直後に水音と歓声が重なり合う。
自由形のようで、多くはクロールだが違う泳法を取っている者もいた。そのうちのひとりが千羽哉で、彼はバタフライで泳いでいるようだった。スピードはクロールで泳いでいる生徒たちに比べるとやや遅れ気味だが、力強く前へ前へと推進していくその姿は、思わず目を惹きつけられるものがある。
あっという間に向かいの壁へとたどり着き、ターン。スタートから一貫して大きく張り上げられていた周りの歓声は、泳者たちがゴールに近付くにつれてより一層大きくなる。その中に、我が子の名を呼ぶ保護者の声をいくつも聞き取る。
綾人も静も声を上げることはしなかったものの、視線はまっすぐに千羽哉へと注いでいた。高校生活最後の泳ぎに、きっと持っている全ての力を出しきったのであろう友人の姿を見届けた。
全員がゴールすると、観客席だけでなく水泳部の後輩たちのいる場所からも拍手が湧き上がる。その音が鳴り止まないうちに、断続的に何度か笛が鳴らされ、泳者が入れ替わる。どうやら先に泳いだのが三年生男子、次に泳ぐのが三年生女子で、ちょうどそれぞれ1レースで泳ぎきれる人数になっているようだ。
その中に、今日この場に綾人を誘った茉白の姿もあった。長い笛の音が鳴り、彼女らはスタート台に上がる。「Take your marks」の号令とともに上半身をかがめる彼女のすらりとした腕が、下方に向けて伸ばされた。
呼吸すらも止めてしまうほどの静寂と緊張感。そして彼女らは、電子音の合図とともに水中へと飛び込んだ。
茉白の泳法はクロールだった。大きく回した両手で交互に水をかき、両足を上下に動かし水を蹴って進んでいく。他の生徒をぐんぐん引き離していく彼女は、まさに人魚のようだった。
文字通り群を抜く速さで反対側までたどり着いた茉白の身体がくるりと回転し、壁を蹴った推進力で残り半分の距離を泳ぎだす。スタート時から全く変わらないスピードで、流れるように前へと進む。
――私の勇姿を見に来てよ
これが、彼女の部活動の集大成。もともと泳ぐのは得意だという話だったが、全くの努力なしにここまで速く、ここまできれいに泳ぐことは出来ないだろう。自分が茉白のことをきちんと知ったのなんてごく最近で、この一度の観戦だけで知った気になるのはおこがましいのはわかっている。
それでも、茉白が泳ぐことをやめないでよかった、と思った。海辺で従姉を失ったこと、そして彼女の自責の念を思うと、茉白が泳ぎをやめてしまうのは有り得たかもしれない選択肢だった。もしかすると、泳ぎ続けたことにも彼女なりの何らかの思いがあるのかもしれない。それでも素直に、よかった、と思ったのだ。
しぶきが太陽を反射してきらめく。茉白のしなやかな腕が水をかく。圧倒的なスピードで泳ぐ彼女の姿が、なぜか動画をスロー再生しているように、一瞬一瞬ゆっくりと目に焼き付いた。
そうして、その指先が壁に触れてゴールした瞬間、綾人は無意識に拍手を送っていた。
いくつもの歓声と拍手が送られる中、水面から顔を出した彼女は、その光景を心に刻み込むようにプール全体をぐるりと見回した。
果たして、茉白が綾人に気がついたのか、それともただの偶然なのかはわからない。それでも確かに、こちらを向いた彼女の口元が、柔らかくほころんだのが見えた。
引退式が終わり、観戦に来ていた保護者や友人のもとへ部員たちがばらばらと散っていく中、肩にタオルをかけた千羽哉がこちらへやってくる。
「ヨネ、来てくれたんだな! お、綾人も」
「お前を見に来たわけじゃねぇけどな」
「あ、そっか。お前は小浜のために来たのか」
うっかり墓穴を掘ってしまったような気がして、口をつぐむ。そんな綾人にはすでに興味をなくしたのか、千羽哉はぱっと静に向き直った。ゴーグルを外した瞳が、期待に輝いている。
「ど、どうだった?」
感想を求める彼に、静はいつもと同じく感情の読めない顔つきでひとつ頷く。
「良かったと思う」
表情と同じく平坦な声音で、たった一言、簡潔に。
それでも千羽哉は嬉しそうに、
「そ、そうか!」
と声を弾ませた。勇気を出して誘ったのであろう彼の行動は、どうやら報われたらしい。「良かったな」と声には出さずに、心の中だけで言葉を贈る。
しかしその時、静の名前を呼ぶ別の声があった。見ると、水泳部員の女子生徒が彼女に向かって手を振っている。クラスは違うが、確か同級生だったはずだ。片手を上げてそれに応える静に、「ダチか?」と尋ねると、
「そう。ちょっと行ってくる」
そう言って、綾人と千羽哉からするりと離れていってしまった。
ほとんど会話をかわせなかったけれど、良かったのだろうか。そう思って千羽哉の方を見上げるが、彼は満足そうな顔をして友人のもとへ向かう静を見送っていたので、どうやら先ほどの一言をもらえただけで、もう心残りはないらしい。
「おつかれ」
声を掛けると千羽哉は綾人の方を見て、にかっと気持ちのいい笑みを浮かべた。
「おう! これでようやく受験勉強に専念出来るわー」
「……お前、大学行くんだっけ?」
そういえば、こいつと進路のことをあまり話したことはなかったな、と気がつく。
千羽哉は首から下げたタオルで、まだ顔に残っている水滴を拭いながら頷いた。
「ああ。去年のうちにいくつかオープンキャンパス行って進学先決めといたから、あとはもう必死こいて勉強するだけよ」
部活もあって忙しかったろうに、彼はいつの間にかしっかりと自分の行く先を見定めていたようだ。
「……すごいな」
素直な気持ちで称賛を送ると、千羽哉はカラカラと笑った。
「いやー、俺って頭悪いからさ! 先に進む方向決めといた方が、後々勉強することに専念出来るかなって」
謙遜でも嫌味でもない、さっぱりとした言い方に、いつの間にか綾人の表情も和らいでいた。
「何系に行くんだ?」
「農学部。ほら、うちって農家だからさ」
「ああ……なんかそんなこと言ってたな」
家の手伝いをしている話を、たまに耳にしていた。特に、ゴールデンウィークは田植えがあるから連休だけど毎日遊ぶわけにはいかない、と話していたのを覚えている。
「そうそう。いずれは俺が継ごうとは思ってるけど、親もまだ元気だし、一回ちゃんと学んでから帰ってくるのも良いかなって思って」
これから先のことをそんなふうに語る千羽哉の目には、微塵の揺らぎもなかった。自分の歩む道を決めて、踏み出そうとしている目だ。
もちろん、彼とてひとつも悩まなかったわけではないだろう。綾人の知らないところで、様々なことを考えて、そして自分の将来を選んだのだ。
そんな千羽哉の姿は、なんだかとてもまぶしく見えた。
「頑張れよ」
小さくエールを送ると、彼は少し驚いたように目を見張った後、いつもの通り快活な笑みを浮かべて見せた。
そして何気ない様子で部員たちの方に目を向けた千羽哉は、なにかに気が付き「あ」と声を上げた。
「ちょっと他の奴らとも話してくるわ」
「ああ」
彼にとって高校最後の部活動だ。水泳部の同級生や後輩たちと、色々話したいこともあるだろう。
なぜか千羽哉は、去り際にぽんとひとつ、綾人の肩を叩いていった。それをいささか不思議に思いつつも見送っていたが、理由はすぐにわかった。
「綾人くん」
弾んだ声が耳をくすぐり、顔を向けると茉白が嬉しそうに微笑みながらやってくるところだった。
すぐに、千羽哉が要らぬ気を使ってここを離れたことに思い至る。彼女がこちらに向かってくることに気が付き、そそくさと移動したのだろう。
まったく、と内心でため息を吐きつつも、千羽哉の時と同じように「おつかれ」と声をかける。
「来てくれてありがとう」
「まあ、な」
首の裏を掻きつつ、曖昧に返す。「弟の調子もいいし」と付け加えると、茉白はぱっと表情を明るくした。
「そっか! 良かった」
その顔を見て、彼女もあの日以降ずっと光希のことを気にかけてくれていたのだとわかった。
目元を和らげながら、「やりきったか?」と今日の泳ぎについて尋ねると、
「ばっちり!」
と彼女は指を二本立てて見せる。その表情は晴れやかで、何の心残りもなさそうだった。
茉白といい千羽哉といい、他の三年生も含めて、皆良い顔をしているなと思う。高校の部活動に自身の力を注ぎ込み、それをやり遂げた人たちの顔だ。
自分は自分で、家の事情もあり帰宅部を選択したことを後悔してはいないものの、彼らのその姿は少しだけ羨ましく、そして眩しく映った。
「でも、引退式が終わったらいよいよ高校最後の夏休みだなーって気がしてきちゃう。なんだかんだ言って夏休みって短いよねー」
「まだ半分以上あるだろうが」
「あっという間だよ」
くすくすと茉白は笑う。あっという間、か。確かにそうかもしれない。毎年、特に大きなことをしたわけでも何かに夢中になっていたわけでもないのに、気がついたら夏休みが明けていたような気がする。
「そういえば、未八祭りももうすぐだね」
首元のタオルの端を両手で握りしめながら、茉白がそう言って笑いかけてくる。先ほど、静との会話にも出てきた未八祭り。あと十日もすればその日になる。年を追うごとに特別に楽しみにするほどでもなくなっていった、地元の祭り。
しかし、今年は少し違う。
目の前の彼女を含め、初めてのメンバーで行くことになる。この夏が始まる前は、まさか小浜茉白と祭りに出かける仲になるなど思いもしていなかった。
「楽しみだね」
約束の日に思いを馳せて、茉白が目を細める。こちらを見上げるその瞳は、陽光にきらめいていた。
期待に弾む彼女の声と向けられた笑みに、綾人の口端も自然と緩んでいた。
「そうだな」
こうして彼女の、そして彼らの高校最後の部活の日は、真夏の燦々と照る太陽のもと、賑やかに、そして晴れ晴れと幕を閉じていった。

