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『今どこ? もうおうちに着いた?』
『落ち着いたら連絡ください』
『何時でもいいから』
昨夜の嵐はどこへ消え去ったのかと疑いたくなるような、鮮やかな日の光が射し込む自室で、十数時間ぶりに手に取ったスマートフォンには、何件もの通知が来ていた。
差出人は全て同じ。「ましろ」。
あの日連絡先を教えあったメッセージアプリを通じて、彼女は何度も自分にメッセージを送ってきていた。その最後の時間は深夜ニ時を過ぎている。もうとっくに眠っていてもおかしくはない時間だ。もしかすると、あんな急襲と言われても仕方ないような訪れ方をした綾人のことを気にかけて、寝るのを我慢して連絡を待っていてくれたのかもしれない。
それでも、着信ではなくメッセージだけが来ているところを見るに、彼女の方でも綾人がすぐに応答できる状態ではないということを、なんとなく感じ取っていたのだろう。
寝不足でぼんやりとする頭をなんとか動かしつつ、緩慢な指先でポチポチと文字を打ち込んでいく。
『家に帰った』
十秒ほどかけてたった一言を打ち込むと、アプリを閉じる。
しかし、スマートフォンの画面を落とす間もなく、すぐに軽快な音楽を鳴らしてそれは着信を告げた。
見ると案の定、液晶画面には「ましろ」の文字。
緑色で表示された「応答」の文字をタップし、スマートフォンを耳に当てると、すぐに彼女の声が飛び込んできた。
『綾人くん!? 大丈夫!?』
その問いにすぐに反応できなかったのは、そもそも大変だったのは俺じゃないんだが、という反論が頭をよぎったからで、しかし昨夜の様子しか知らない茉白からすれば、第一声がそうなるのも不思議ではないと、言葉を飲み込んだ。
返答がない綾人を不安に思ったのか、スマートフォン越しの茉白の声が、「綾人くん?」と心配そうなものに変化する。そういえばこいつは、いつの間に俺のことを下の名前で呼ぶようになったんだっけ。やはりろくに寝ていないせいか、全ての思考や動作が一拍遅れている気がする。
「……聞こえてる、大丈夫」
言葉を返すと、彼女がほっと安堵の息を吐いたのが、スマートフォン越しにも伝わってきた。
『おうちに帰ったって言ってたけど……あれからずっと、外に出てたってことだよね』
「そう……病院に」
『……弟さんのところ?』
その問いには、無言の肯定で返す。夕方が近いとはいえ、窓から入り込む夏の日差しはまだまだ強くて、目が少し痛い。ゆっくりとまばたきをした。
数秒の間が空く。先に口を開いたのは、茉白の方だった。
『今から会える?』
正直、身体は疲労困憊だった。精神的にも。
しかし、自分には説明責任がある。昨夜迷惑をかけた茉白に、きちんと事情を話さなければならない。
「わかった」
『……本当に大丈夫? 声、疲れてるけど』
「大丈夫だ。ただ、シャワーを浴びる時間ぐらいは欲しい」
『それはもちろん、構わないけど……』
こちらの体調を気遣っているのだろう、ためらうような様子を見せる彼女に、「じゃあ、あのバス停とかでどうだ?」と勝手に指定する。
あの、としか言っていないが、それだけで茉白には充分伝わったようだ。『わかった』という了承の後に、二時間後ぐらいでどうだと提案される。
「一回確認してからでいいか? すぐに連絡する」
『わかった。じゃあ、また後で』
「ああ。また、後で」
通話が切れる。
バス停を指定したのには、わかりやすさの他に、もうひとつ理由がある。昨夜はひとり自転車で病院まで向かったものの、帰宅するときは父親の車に乗ったからだ。つまり、自転車は病院に置きっぱなし。足がないのである。
疲れ切っている両親に、もう一度車を出してくれとは言えない。そこで、普段めったに使わないバスを移動手段にしたのだった。
スマートフォンで時刻表を検索してみる。一日に数本しか走っていないバスだが、通勤や通学の時間帯に合わせて朝方と夕方に三本ずつ出ているため、ちょうど一時間半後に最寄りのバス停から出るものがあった。
メッセージアプリに二時間後で構わないと連絡を入れると、すぐに茉白から「OK」のスタンプが返ってくる。
さて、彼女との待ち合わせに遅れないようにするためには、さっさとシャワーを浴びて来なければ。そうすれば、少しは頭もすっきりするだろう。
重さを訴える身体に活を入れて、綾人は着替えを手に風呂場へ向かった。
バスのステップから降り立った瞬間、潮の匂いが鼻をくすぐる。日はぐっと傾いて、ずいぶんと水平線に近付いていた。先ほどまで揺られていたバスは、綾人ひとりだけを降ろすと、すぐに走り去っていく。
錆びついたトタンで覆われた待合所には、すでに彼女の姿があった。ラインの入った襟付きのシャツにショートパンツという私服姿で木造の椅子に腰掛ける茉白の傍らには、彼女の手荷物であろう生成りのトートバッグが置かれている。
綾人の姿を認めるなり、彼女は驚いたように小さく目を見張った後、少し微笑んで片手を挙げた。待合所の中に入ると、すぐに日差しが遮られ、僅かに暑さが和らぐ。
「バスで来るとは思わなかった。てっきり今日も自転車かと」
「ああ……まあ、色々と」
適当かつ曖昧な返答をすると、ベンチに腰掛けたまま綾人を見上げていた茉白が、眉をひそめた。
「やっぱり、疲れてる?」
そう言われて、思わず自身の顔に手で触れる。道中、バスに揺られながら数十分ほどうとうとしていたため、家を出たときよりもいくらか頭は冴えている気がするが、隠せない疲労が顔に出ていただろうか。
茉白の隣に腰を下ろす。軽く開いた両の太ももに肘を置き、指をゆるく組みながら、何から話したものかと考えた。
けれどやはり、まずは謝罪からだろう。
「昨夜は悪かった。急に押しかけて」
それを聞くなり、茉白は身を乗り出して両手を振った。
「ううん、それはいいの。ただ、何があったのか知りたくて……」
そうだよな、とひとつ呼吸をして、組んだ両の指に少しだけ力を込めた。
それから茉白には、昨夜病院の電話を受けた時からの一連の流れを、ありのままに話して聞かせた。
弟の容態が危ないと連絡を受けたこと。両親とともに病院に向かおうとした時、茉白の力について思い出したこと。彼女の力を使えば、弟を助けられるのではないかと思ったこと。
「……あの時は余裕がなくて、すっかり失念してたんだ。お前の力は、その命を代償にするものだってこと」
そこまで話したところで、ようやく彼女の顔を見た。かすかに眉尻を下げたその表情には、心配とも困惑ともとれる感情が浮かんでいる。
上半身ごと茉白の方に向き直り、綾人は深く頭を下げた。
「すまない」
頭上から、茉白が小さく息をのんだ気配が伝わってきた。
「……何を」
「忘れていたとはいえ、お前を犠牲にしようとした。そのことを謝りたかった」
沈黙が落ちる。その空気を、頭を下げた姿勢のまま受け止めた。どこか遠くから、ひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。
しばらくして、茉白がもぞりと身じろぎをしたのがわかった。
「頭を上げてほしいな」
その言葉に従い、ゆっくりと姿勢を戻していく。彼女も上半身をひねるようにして、綾人の方に向き直っていた。日陰のもとで色を濃くした瞳はまっすぐに綾人を捉えており、引き結ばれていた唇が開く。
「……それで、弟さんは?」
「ああ……」
そうだ、それも話さなければならない。綾人は頷いて、肩から少し力を抜いた。
「ひとまず山は越えて、今は小康状態だ。まだICUに入ってはいるけど、意識もだいぶはっきりしてきた」
その返答を聞いて、傍目に見てもわかるほど、茉白は安堵した様子を見せた。彼女のこわばっていた身体が、脱力したのが見て取れる。
「そう……良かった」
深く長い息を吐き、茉白は口端を小さく持ち上げた。
あの後、ずぶ濡れの状態で病院に到着した綾人に対して、理由も告げずに一体どこへ行っていたのだと両親は怒りはしたものの、光希に対する心配の方が上回っていたからだろう。叱責と追及は、さして長く続くことはなかった。病院側が厚意で貸してくれたタオルで全身を拭った後は、綾人も両親に加わって光希の様子を見守った。
長い長い夜だった。マスク型の呼吸器をつけて横たわる光希と、せわしなく動き回る医療スタッフをただただ見守ることしか出来ない時間。これまでに何度も味わった無力感が、圧縮されて一度にのしかかってくる。そんな時間だった。
夜が明け、外がすっかり明るくなった頃に、光希の呼吸は落ち着いてきた。モニターから鳴る音が減り、やがてうっすらとまぶたを開いた光希と目が合うようになる。その焦点はしっかりと、顔を覗き込む自分の家族たちへと結ばれていた。
その頃になってようやく、医師から小康を得たと告げられた。危険な状態からは脱し、一時的に安定している状態であると言われ、まだ完全に安心できる状態ではないとわかっているものの、やはりどうしても緊張の糸が解けるのは禁じ得なかった。
「まだここから快方に向かうって決まったわけじゃないから、こまめに病院に行くことにはなると思う。けど、一旦俺達も少し休もうってことで、家に帰ってきたってとこだ」
静かに綾人の話に相槌を打っていた茉白は、そこまで聞き終えると、「えっ」と小さく声を上げた。
「待って、ほんとに帰ってきたばっかりで連絡くれたってこと?」
「そうだけど」
「じゃあ全然寝てないんじゃん! うわ、ごめん。明日とかにすればよかったね。……直接顔を見て話したいって思っちゃって」
握った拳を両膝に置いて、しゅんとうつむいてしまった茉白に、綾人は首を横に振った。
「いや、気にしなくていい。俺も、お前にちゃんと説明しなきゃと思ってたから、少しでも早くその時間が取れてよかったと思ってる」
「……そっか」
頷きつつもまだ気にする様子を見せていた茉白だが、そう言われた以上はなにか反論するのもおかしな話だと考えたのか、やがて待合所のコンクリートの地面に向けていた視線を、真っ直ぐに持ち上げた。
それからしばらく、ふたりは言葉を交わさなかった。通行人もなく、車が何台か通り過ぎていったが、それだけだった。ただただ夏の夕暮れの、じんわりと暑くて、ひぐらしの鳴き声だけがさざめく、静かな時間が流れていく。
「……あの日ね」
先に口を開いたのは、茉白の方だった。
「命日だったの。従姉の」
あの日。いつもより鈍い思考をぐるぐると回して、そうしてたどり着いたのは、彼女が入り江に立っていた日のことだった。
このバス停から少し行った場所にある、崖の斜面を下った先の入り組んだ場所。綾人が初めて、小浜茉白に声をかけた場所だ。
「もう、ずっと昔のことなんだけど。……従姉がね、あの場所で亡くなったの」
静から聞いた話が脳裏をよぎる。静の兄と同級生だったという、亡くなった少女。その葬儀で出会った、彼女の従姉妹で茉白と名乗った女の子。
それから、ふっと思い出すことがあった。
あの入り江は、綾人も小学生の頃に友人たちとよく遊んでいた、秘密基地のような場所だ。しかし、親からは危ないので行くなと言われていた。
そう、その時に……亡くなった子もいるんだから、というような話を、耳にした記憶がある。
「従姉っていうのが、近所に住んでてさ。私より五つ上でね、三姉妹の長女だったの。私は一人っ子だから、従姉妹たちにはよく遊んでもらってて」
懐かしい思い出を辿っているのだろう。茉白の口元が、柔らかく弧を描いていた。
「あの日も、子どもだけでこっそり入り江に遊びに行ってた。まだ海水浴には早い時季だから、足元だけ水に浸かって遊んでたんだけど。……そのうち、誰かのサンダルが流されちゃって」
茉白の声のトーンが落ちる。カナカナカナ、とひぐらしが鳴く。
「気付いたときには、崖の向こう側まで流されちゃってたんだけど。従姉が、探しに行くって言って。私たちは、その場に残って待ってたの」
あの場所は随分と入り組んでおり、いくつもの突出した岸壁によって、視界が遮られやすくなっている。離れていった従姉の姿も、きっと茉白たちが待機していた場所からはすぐに見えなくなってしまったのだろう。
「でも、全然戻ってこなくて……みんなで探しに行ったんだ。そしたら」
視線を落とした彼女の横顔を、長い髪がさらりと覆った。
「お姉ちゃんが、うつ伏せで浮かんでて。……誰かの悲鳴を聞いて、大人が来てくれた」
従姉が発見されたのは、小学校低学年の子どもでも足がつくような浅瀬だったという。しかし、そういった場所での水難事故は少なくない。足を滑らせて、急に深くなっている場所に落ちてしまうこともあれば、波に巻き込まれてしまうこともある。茉白の従姉に関しても、事件性はなくそういった事故の類で間違いないと判断されたらしい。
両手の指を組んだ彼女の手に、力がこもるのがわかった。
「パニックになってたから、お姉ちゃんを見つけた直後のことは、あんまり覚えてないんだけど」
その声がかすかに震えをはらんでいるのを感じ取り、綾人は促すようにひとつ頷いた。
「ただひとつ、どうしても忘れられないことがあるの。……私、その頃にはもう、自分の家が人魚の血を引いてることは、なんとなく知ってたんだけど」
そう言うなり、彼女は傍らのトートバッグに手を伸ばす。何が出てくるんだと思い見つめていると、茉白はそこから一冊の本を取り出した。
ひどく古い、和綴じの本だった。慎重に扱わないと紙もすぐにボロボロと崩れてしまいそうな印象のそれを、彼女は丁寧な手つきで膝の上に乗せる。
「これが、うちに代々伝わる人魚の血について記した本」
「……そんなもの、持ち出して大丈夫なのか?」
見るからに時代を重ねたであろうその本は、茉白の家で大事に保管されてきたのではないかと思い、尋ねる。
「ほんとはダメなんだろうけどね」
そう言って茉白は苦笑した後、膝の上の本を優しく撫でた。
「でも、なんていうか……」
彼女は一度、考えるように口を引き結んだ。そして数秒ののち、ゆるりと唇を開く。
「昔は、重要な力って考えられてたみたい。それこそ、百年とかそのくらい前の話なんだけどね? お医者さん代わりみたいな感じで、集落で病人が出たら癒やしてたこともあったみたい」
そこまで言って、茉白は本に落としていた視線を上げる。彼女の視線の先で、僅かに橙色を帯びた雲が流れていく。
「だけど時代が流れて、血がどんどん薄れていって、次第に周りの人たちも、うちがそんな力を持ってることなんて忘れていって。だからこのまま、小浜家の人たちすらも、人魚の血のことを忘れていくんじゃないかと思う」
「……そうか」
それになんと返せばいいのかわからず、ただ頷くことしか出来なかった。
昔から続いてきたものが、徐々に失われていくこと。そのことを、茉白自身はどう思っているのだろう。やはり、どこか物寂しいと思うのだろうか。それとも。
「話がそれちゃったけど、小さい頃におばあちゃんがこの本を子ども向けのわかりやすい表現にして、何度か読み聞かせてくれたことがあってね。だから従姉の事故が起きた時、私はすでに自分に人魚の血が流れてること知ってたんだ」
どんな力を持っているのかも含めて、と茉白は続ける。
「……だからあの時、私は助けようと思えば助けられたはずなの。お姉ちゃんのこと」
「でも、それは」
とっさに口を挟まずにはいられなかった。
茉白はそう言うが、彼女の力は代償に命を減らすものだ。もしも幼い茉白が従姉に力を使っていたとしたら、無事では済まなかっただろう。
それに、発見された時点ですでに息がなかった可能性だって高い。彼女の力が、生きている人間にしか効力のないものであるならば、それはもうどうしたって助けられなかったはずだ。
反射的に声を上げた綾人を制するように、彼女がこちらに視線をやる。
「うん、わかってる。でも、聞いて」
そう言われてしまえば口をつぐまないわけにはいかなかった。乗り出しかけていた姿勢を正して、彼女の話を聞く意思を示す。
「あの時の私は、自分がどういう力を持っているのか知ってはいたけど、どうすればそれを使えるのかは知らなかった。というか、パニックになってて、自分がそんな力を持ってること自体、すぐには思い出せなかったんだと思う」
「……」
「さっき、ひとつだけ忘れられないことがあるって、言ったでしょ」
「……ああ」
「お姉ちゃんを乗せた救急車が走り去っていくのを見送って、そのサイレンが遠くなったあたりでようやく我に返ったの。それで、そのタイミングで、力のことを思い出した」
そのときに彼女が何を考えたのかがわかってしまい、胸が引き絞られるようだった。
従姉の葬儀で茉白が静に呟いた言葉。「ましろのせいなの」。
悔やんでも悔やみきれない後悔。
贖罪という単語。
「『私には助ける力があったのに』って思った。あの時何も出来なかった自分のことが、ずっとずっと許せなくて仕方なかった」
何も出来ない自分で、ごめん。
その感情には、覚えがあった。
「……だから、贖罪?」
尋ねると、茉白は目尻を下げて微笑んだ。どこか力なくも見える笑みだった。
「あの時出来なかった代わりに、自分の命を使って誰かを救わなきゃいけないって思ってた。そうすることで、ようやくお姉ちゃんを見殺しにした罪から逃れられるんだって」
幼い茉白の心に焼き付いた後悔と懺悔は、彼女が高校生になってもなお、その胸に巣食い続けていた。学校ではいつも明るくて、快活に笑っていて、そんな茉白が密かにずっと抱え続けてきた、「誰かのために死ななければ」という重すぎる使命感。
そんなものを背負う必要はない、と伝えることは簡単だ。事実、従姉が死んだのは彼女のせいではない。
しかし、そんなありきたりな一言で茉白の考えがあっけなく変えられるのであれば、こんなに年数が経ってもなお彼女が苦しんでいるはずがなかった。
あの日……命日だというその日に、入り江で制服のまま海水に濡れて佇んでいた茉白は、ひとり何を考えていたのだろう。
「……町から出られない、ってのは」
帰り道で一緒になったときに彼女が口にしていた言葉を掘り返すと、「よく覚えてるね」と茉白はからからと笑った。
「それは、気持ちの問題、かな。この町から離れたら、自分の罪のことを都合良く忘れちゃいそうで嫌だから」
ショートパンツから伸びる脚をパタパタと揺らす彼女のつま先で、引っかかった黄色いサンダルが揺れる。
「だからね、私はずっとこの町で、誰かのために死ねるその時まで、ひっそりと生きていくんだと思ってたし……今でもそう思ってる」
パタン、と彼女の片足からサンダルが落ちた。まるで物語の終止符を打つようなその音に、待合所内の温度が少し下がったように錯覚した。
しかし、「でもね」と茉白は静かに続ける。
「……綾人くん、さっき謝ってくれたでしょ」
「……昨日のことか?」
「うん。……あのね、嬉しかったの」
そう言ったかと思うと、彼女はすぐにぱっと顔を上げて、
「あ、違うの。謝ってほしかったとか、そういうことじゃなくて」
と弁解したかと思うと、再び視線を落とす。
「私の命を犠牲にしようとしたことを、悪いと思ってくれたんでしょ。……それが、嬉しくて」
彼女は、これまでに見たことのない表情を浮かべていた。
僅かにうつむけた横顔には、淡い色の髪がかかっている。その顔を彩っていたのは、微笑だった。柔らかく緩められた目元と口元には、まるで赤子を見守る母親のような、あるいは昔を懐かしむ老婦人のような、表現しがたい不思議な穏やかさが宿っている。
「ずっと償わなきゃって思ってたから。だから、そんな私の命を惜しんでくれる人がいたことが、嬉しかったの」
変だよね、と茉白の声に僅かに自嘲の色が乗る。綾人はそれを首を振るだけで否定して、続けた。
「お前の家族とか、友達とか……周りにいるやつらだって、同じこと思うに違いねぇよ」
長年沈殿している茉白の心の澱が、すぐに洗い流せるとは思えない。
けれど、それでも。もしも自分の言葉で、彼女が少しでも嬉しかったと言うのなら、せめてこの事実だけは、届いてほしいと思った。
「誰かを助けるためにお前が犠牲になったところで、喜ぶやつなんていない」
「……そうかな」
「ああ」
ちらりと視線だけで茉白を見遣ると、彼女はなにかを考えるような目をしていた。けれどその視線は地面ではなく、まっすぐ遠くへと向けられている。
やがて彼女は小さな声で、
「うん、そう……そうだね。……ありがとう」
そうつぶやくなり、おもむろに立ち上がった。落ちていた片方のサンダルを履き直して数歩進んだかと思うと、待合所から一歩出たところで足を止め、後ろ手を組んだ。夕日が彼女を照らし、陰の中から見るその姿はやけに眩しく見える。風が吹いて、長い髪がふわりと涼しげに揺れた。
「ねえ」
くるりと体ごと振り返った茉白は、もういつもの顔に戻っていた。
「今度、水泳部の引退式があるの。来ない? もちろん、弟さんの容態が落ち着いたら、でいいんだけど」
「引退式? ……そうか、もうそんな時期だもんな」
むしろ、他の運動部に比べると遅い方だろうか。自分は帰宅部のため詳しくは知らないが、運動部に所属しているクラスメイトの多くは、確か六月や七月上旬頃の大会で引退したと話していたように思う。
「もちろん、佐渡くんも出るよ」
「あいつは別に見なくてもいい」
即座に反論すると、茉白はなぜか「仲良いね」とおかしそうに笑う。どこをどう見ればそういう感想にたどり着くのかわからなくて、思わず眉間にシワが寄る。
「じゃあ、よかったら私の勇姿を見に来てよ」
冗談めかして笑う彼女の表情はまるで猫のようで、ひどく楽しげだ。先程、命がどうとか償いがどうとか話していたとは思えないような明朗さ。
それに、どこか安心している自分がいた。
「……わかったよ」
仕方がない、という態度を装って頷くと、それすらも見透かしたように彼女が微笑む。
潮風をまといながら、夏の夕暮れが過ぎていく。

