プロローグ
果てしなく思えるこの海の向こうには、きっと無限の可能性とそのどれかを掴み取れる自分がいるに違いないと、幼い頃から漠然と思っていた。
右手に広がるどこまでも青い海を横目に見ながら、大井綾人はゆるりと長い坂道を自転車で上っていく。
梅雨のさなかだというのに、嫌に晴れた日だ。もう夕方だというのに、夏の太陽はまだまだ沈む気配を見せない。猛暑には遠い気温だが、海沿いで湿度が高いのもあって、じわじわと汗が滲んでくる。
額の汗を手の甲で拭いながら、綾人は「あつ」と独りごつ。人も車もめったに通らないこの道で、綾人のその声を拾うものは誰もいない。
無人のバス停を通り過ぎる。トタンで覆われた待合所はひっそりとしており、頻繁にこの道を通っていても、利用者がいるところをほとんど見たことがない。左手には緑が、右手には海が広がるだけの、何もない場所だ。それでも撤去されないということは、ある程度は需要があるのだろうか、などと考えながら自転車を漕ぎ続けていると、やがて海側に崖のせり出した部分が見えてくる。
その崖の下は入り江になっていて、秘密基地のような雰囲気がある。まだ小学生だった頃に、綾人も友人たちと何度か遊んだものだ。親からは、危ないので子どもだけで行くなと言われていたものの、幼い頃は禁止されるとむしろスリルを求めてやってしまうというものである。
流石に高校生にもなった今となっては、秘密基地で遊ぶようなことはしないが。それでもここを通るときには、なんとなく昔を思い出して、崖下に見えるその入り江に目を向けてしまうことが度々あった。
そして、この日も同じだった。
何気なく、いつものように、その入り江へと視線を向けたときだ。そこに、人影を見つけたのは。
それが子どもたちであれば、昔の自分たちのように遊んでいるのだろうと思ったし、釣り糸を垂らしている人であれば、穴場で釣りを楽しんでいるのだろうと思っただけで、気にもとめずに通り過ぎたはずだ。
けれど、その人影は腰のあたりまで浸かっていた。まだ海開きには早い、こんな梅雨の時季に。
しかも──服を着たままで。
咄嗟にペダルを漕ぐ足を止めた。頭の中に、瞬時に「入水自殺」の文字が浮かんだからだった。
上り坂の途中であるため、中学校に入学したときからずっと使用している愛車は、ブレーキをかけずとも車輪の動きを止めた。
人影はこちらに背を向けているが、おそらく女性だ。一度頭まで海に浸かるでもしたのか、上半身にまとっている白いシャツだけでなく、肩甲骨のあたりまで伸びた長い髪も、濡れそぼっていた。
止めなければ。
それは衝動のようなもので、正直何も考えていなかった。ただ、このまま見過ごすわけにはいかないと、その一心で。
「おい!」
綾人は、声をあげていた。
人影が、綾人の呼びかけに反応する。彼女がゆっくりと振り向く。その瞳がこちらを捉える前に、綾人の足はもう駆け出していた。
乱暴に乗り捨てた自転車が、ガシャンと悲鳴のように音を立てる。道路から崖下へは、舗装されていない急な斜面を降りていかなければならない。下手に焦ると足を滑らせるおそれもあったが、今はそんなことを考えている余裕はなかった。
なんとしても、止めないと。
岩肌に手をつきながら、ほとんど滑り落ちるようにして入り江へと降りていく。
靴の裏がようやく岩場の平面を捉え、そのまま彼女に駆け寄ろうとした綾人は、しかし思わず足を止めてしまった。
振り返った彼女は、ぱちりと目を丸くして、突然現れた綾人に驚いているようだった。白い肌の上を、水滴が滑り落ちていく。
その顔に、見覚えがあったからだ。
「……お前」
綾人も想定外だった。
まさか、入水自殺しようとしていたその人物が──クラスメイトだなんて。
「あははっ、だってまさか、そんな勘違いされるなんて思わなかったんだもん」
トタンで覆われた、バス停の小さな待合所。その中の木造りのベンチに腰掛けて、自身のカバンから取り出したハンドタオルで顔や体を拭きながら、彼女は能天気な笑い声を上げる。
先程乱暴に扱ってしまった自転車にどこか不具合が生じていないか、待合所の前で点検をしていた綾人は、恨めしい気持ちを隠しもせずに彼女を睨みつける。
「勘違いするだろうが。まだ六月だってのに、服着たまま海に入ってるやつなんかいるかよ」
「だからって、入水自殺だと思うなんて……」
ハンドタオルで挟み込むようにして長い髪を拭う彼女──クラスメイトの小浜茉白は、綾人の勘違いがよほどおかしかったのか、また口から小さく吐息のような笑いをこぼした。
「……笑うな」
「ごめんごめん。心配してくれたんだよね?」
ありがとう、と素直に謝罪と感謝を述べられてしまい、今度は感情の矛先をどこに向けたらいいかわからなくなる。そっぽを向いて、誤魔化すように大きくため息を吐いてみせた。
彼女は確かにクラスメイトだが、これまで話したことはほとんどない。同じクラスになったのも、三年生である今年が初めてだ。
ただ、名前は何度も聞いたことがあった。綾人の友人……いや、悪友と呼ぶべきか悩むところだが、ともかくその友人が、彼女と同じ水泳部なのだ。
そして、彼がよく口にしていた。
『馬鹿みたいに泳ぎの速いやつがいる』
それが、小浜茉白だった。
水泳の授業は男女別で行われるため、綾人は実際に彼女の泳ぎを見たことがない。ただし、友人曰くとても速くて無駄のないきれいな泳ぎをする、とのことだった。
まるで、魚のように。
「大井くんも、ちゃんと体拭いた方がいいよ? 風邪引いちゃう」
「……タオル持ってねぇから」
「えっ、そうなの? 言ってくれたらこれ貸したのに。どうしよ、私も今日はこれ一枚しか持ってない……」
茉白はそう言いながらカバンの中をごそごそと漁っていたが、やはり予備は見つからなかったようで、諦めたように肩を落とした。
「私が使った後だけど……それでもよかったら、これ使う?」
彼女が差し出してきたのは、先程まで体を拭っていたハンドタオルだった。
「……いや、いい」
「まあ、そうだよね。人が使った後のとか嫌だよね」
しゅんと顔を曇らせる茉白は、多少なりとも罪悪感を覚えている様子だ。そんな表情を見ていると、かえって綾人の方がいたたまれなくなってくる。
「別に……飛び込んだのは、俺が勝手にやったことだし。小浜のせいじゃない」
──あの後。相手がクラスメイトだとわかって思わず足を止めたものの、綾人はすぐにまた「助けなければ」という思いに返り、衝動のままに岩場から海へと飛び込んでいた。
服が濡れることなんて、全く考えていなかった。ただ、一刻も早く彼女の腕を掴まなければと思ったのだ。
茉白は驚いた様子ではあったが、逃げるような様子もなく、綾人がそばにやって来るまでその場に立ち尽くしたままだった。
海水をかき分けるようにして彼女のもとへとたどり着き、そのほっそりとした腕を掴んだ。
『何バカなことしようとしてんだ!』
怒鳴りつけると、茉白はさらに大きく目を見開いた。彼女がなにかを言い返す前に、いいからこっちに来いと、細腕を引いて岩場へと連れ戻した。
自分もずぶ濡れにはなってしまったが、ひとまず茉白を引き上げることができて安堵し、体の力を抜いたところ、まだ状況がうまく飲み込めていない様子の茉白から言われたのだ。
『大井くん、もしかしてなにか誤解してる?』
と。
そして、とりあえず落ち着けるところに移動して体を拭こう、ということになり、ふたりでバス停へと移動したわけだ。
茉白は綾人の慰めを聞いても、まだ居心地が悪そうに、手にしたハンドタオルをもじもじと弄んでいた。確かに服や体が濡れたままなのは不快極まりないが、致し方のないことだ。
「気にすんなって。チャリ漕いでたら、そのうち乾く」
その言葉を聞いて、茉白はちらりと綾人の自転車に目を向けた。
「……そういえば、どこに向かってたの?」
問われて、一瞬言葉に詰まる。
こんなずぶ濡れの状態じゃ、今日は行けないなと思ったからだった。
「病院。身内が入院してるから」
「えっ、でもその状態じゃ行けないよね?」
「ああ。だから今日はこのまま帰るかな」
茉白はますます申し訳なさそうに、身を縮こめてしまった。
先程告げたように、勘違いして海に飛び込んだのも、タオルを持ち歩いていないのも、綾人の問題なのだ。茉白がそんなに恐縮する必要はない。
ただ、まだ〝理由〟を聞いていないことに思い至り、「なあ」と口を開いた。
「そういえばお前、なんで制服着たまま水ん中に突っ立ってたんだ?」
一体どんな理由があれば、入水以外の理由で着衣のまま海に入ることがあるのだろうか。
綾人の疑問に、茉白の顔から一瞬、表情というものが抜け落ちた。しかしそれは刹那のことで、次に彼女は、ゆるりと目を細めて口の端を上げてみせた。
「私、人魚だから」
「……は?」
「だから、海水に浸かってないと死んじゃうの」
はぐらかしているのか、と眉をひそめる。茉白は微笑を浮かべたまま、ぷらぷらと脚を揺らした。海水の染み込んだ靴と靴下を脱いだ白い素足には、当然ながら鱗など生えてはいない。
「……泡になって消えるとでも?」
戯言を跳ね除けるように肩をすくめると、茉白は笑みを深めた。上半身を前に乗り出し、首をかすかに傾けた彼女の肩から、湿り気を帯びた長い髪が滑り落ちる。
「それはアンデルセンの童話の方だよね。人魚姫の方」
「違う人魚がいるのか?」
あいにく、童話だとか寓話だとか、その類のものには詳しくない。
自分の知らない人魚の話でもあるのかと思い質問を重ねると、まるでとっておきの面白い物語でも口にするように、茉白の目が細められる。
「日本の人魚伝説って知ってる?」
「……日本の?」
「そう。八百比丘尼っていうお話が有名なんだけど」
やおびくに、と口の中で言葉を反芻する。昔話に出てきそうな響きだと思ったが、綾人はその物語の内容は知らなかった。
「不老長寿の体を得た女の人のお話でね。その人が不老長寿になったきっかけっていうのが……」
おもむろに、茉白が人差し指を立てた。彼女はその指を自身の口元へと持っていく。
そして、その指の背に軽く歯を立てるような仕草をしてみせた。
「人魚の肉を、食べたからなの」
口元に指を添えたまま、視線だけを上げて茉白は綾人を見つめてきた。
その瞳には、どこかおどけるような、それでいてこちらの反応を興味深く窺うような、爛々とした光が宿っていた。
──それが、小浜茉白と初めてまともに会話をした日の出来事だった。

