恋人繋ぎは、アクスタと

「零衣くんに本物の恋をしているなんて思っていたのって、変だと思うの」

 わたしは夕暮れに満ちた公園に、弱々しい声を落としていた。
 
「わたし、まだ一度もこの現実で誰かを好きになったことがないの。こわいから。自分に自信がないから」
「……だからさっきやたらと高原のこと褒めてたのか」
「高原さんだけじゃないよ。みんな何かしらすごいところがあるのに、わたしには何もない」
「そんなことないと思うけど。イラスト描くの、うまいじゃん」
「うまくなんてないよ、ちっとも」
 航くんは何か言いかけたけれど、言葉をつぐんだ。

「……この前ね、紗季が言ってたの。本物の恋をしたいって」
「本物の恋?」
「それからずっと考えてた。わたしが零衣くんを好きなのって、恋とは違うんじゃないかって。漫画を読んで、アニメを見て、その度にドキドキすることも、まやかしか何かなんじゃないのかなって思ったの」

 航くんは、再び沈黙する。こんなことを言われて、答えに困るに決まっている。
「でも零衣くんのことを想うとね、うれしいときも疲れたときも、心がぽかぽかあったかくなる。何もできないわたしだけど、二次元の世界に浸っていると安心できてた。だけど思ったの。わたしはただ、そんな世界に依存して、甘えているだけなんじゃないかって」

 わたし、何を言っているんだろう?
 あれだけ大切で大好きだと思っていた零衣くん。二次元の世界。どんな願いも叶う世界。
 それを、わたしは。決して、壊したいわけではないはずなのに。
「急にみんな変わっていくんだもん。だからますますこわくなっちゃった。わたしだけが変われない。変わらないといけないのに、いつまでも自分の世界にこもりきりで」
 紗季も、陽向も、航くんまで……。
 みんなに置いていかれるみたいな、ひとりではないのにひとりみたいな感覚。
 自分の好きを貫いていたはずのわたしは、すっかり迷子になっていた。

 目の奥が熱を帯びて、一気に視界がぼやける。
 生まれたての涙たちが、カーディガンに、デニムのスカートにぽたぽたと音を立てながら、次々にまあるい染みを作っていった。

「ごめん、桃」
 顔を上げたけれど、航くんの顔は、涙のカーテンで見えない。
「どう……して、謝るの?」
「泣かせたから。桃の好きなやつのこと、軽く考えてたから」
「そんな、こと、ない……」
「そんなことある」
 カーテンのすきまからやっと滲んで見えた航くんの顔は、真っ直ぐにわたしを捉えていた。真剣そのものだった。

「好きの形ってさ、まわりと同じじゃなくてもいい。いろいろあっていいと俺は思う」
 
「これ、きれいだから」と航くんは紺色のタオルハンカチを差し出してくれた。受け取って目を覆うと、雨粒がとめどなく深い海に沈んでいくようだった。

「桃は本気で好きで『このひとのために毎日が楽しい、頑張れる』って思えるやつがいていいなって、そう思うよ。二次元とかそんなの、関係ない」
「楽しいよ。しあわせだよ。でも零衣くんには一生振り向いてもらえない。触れることも、話すこともできないんだよ。わかっているのに、わたしはみんなみたいになれない」
「それでも、漫画やアニメで会えるたびに、わくわくするんだろ? 会えなくなるのは、つらいだろ? ……それって、好きってことだよ」
 こくんと頷くことしかできないわたしに、航くんは「そっか」と空を仰いだ。

「じゃあ今、ここで無理に零衣への好きを偽物にしなくていいよ。絶対本物だって、他のひとと同じだって、無理に思おうとする必要もない」
「航くん……」
「それから。いつか桃も、この世界でも好きなやつができるかもしれない。できないって、決まったわけじゃないだろ」
「でもわたし、自信がない」
「俺は長い付き合いだし、桃のすごいところ、いろいろ知ってるけどな。あ、これ以上『そんなことない』なんて謙遜するの禁止な」
「……そう、なのかな」
「そうなの」
 航くんは、やっぱり真っ直ぐにわたしを見て、きっぱりと言い切った。そのたった四文字はとても気恥ずかしかったけれど、少しずつ涙が引いていくのを感じた。

「今は、思いっきり零衣を心の拠り所にしていてもいいんじゃないかな」
「二次元の男の子に寄りかかっていても、いいってこと?」
 わたしは、紺色の海に涙の残りをしっかり預けてから、航くんに訊いた。
「そう。この世界は、もっといい意味で曖昧でいいと思うんだよ」
「曖昧……」
「桃は自信がないことに加えて、まわりと同じようにならなきゃって不安になって、早く答えが欲しくて、少し混乱してるんじゃないかな。だからこそ俺は思うんだ。今、好きだと思えている存在を大切にして欲しい」

 今わたしが、好きなひと。心の支えにしているひと。

 わたしは、トートバッグの奥にいた零衣くんを外に出してあげた。なんとなく、そうしたくなったから。
「なんだ、ちゃんとそこにいたのか。好きなやつ」
 航くんが、静かに笑った。

 アクスタの零衣くんは、いつもと変わらずちっちゃくてかわいくて、何よりかっこいい。やさしい笑顔にも安心する。変わることなく、一緒にいてくれる。
 うん。わたしは零衣くんが、やっぱり好き。
 みんなとは少し違う場所にいる存在だけれど、わたしの心を守ってくれている。何かと小さな靄が渦巻くこの世界で疲れたときに、ふわふわの綿雲に包み込んでくれる。
 それを否定する必要なんて、ない。否定したくなんてない。

「だいたい俺だって、不安なことだらけだぞ。それこそ、その……本物の恋ってまだよくわからないし」
「好きって言ってくれる子がいても不安になるの?」
「そりゃ、まぁ。不安だらけだよ。それ以上に楽しくもあるけど」
 
「だから桃と同じ」と、航くんはわたしを見つめた。
 変わったこともある。変わらないこともある。それが世界の「曖昧さ」のひとつなのかもしれない。
 わたしたちは、そんな中でも生きていかなければならない。時にはおぼつかなさを感じながら、泣いたり笑ったりして。

「俺も高原のこと、本気で好きだって思えるようになれるかな。なりたいとは、思ってるんだけど」
「大丈夫だよ。根拠があるわけではないけど、そんな気がする。相手が高原さんだからかな?」
「そこは俺だから、じゃないのか」
 航くんが、少し困ったように笑う。
「あ、ごめん」
「いや。確かにそれはそう」
 妙に納得したような素振りを見せるから、わたしも思わず、笑ってしまった。

「変わらず零衣を大切にしていて、そのうち他に好きなやつができたら、協力するよ。こう見えて結構顔広いんだぞ、俺」
「じゃあもしそのときが来たら、お願いするね」
 航くんのすらっとした横顔を見ていて、ふと、思った。
 もし紗季たちが言うように、わたしが航くんを好きになっていたのなら、きっと毎日楽しかっただろうな。
 ――なんて、もうそんなこと、有り得ないけれど。

「あ、わたし今日は、航くんに返さないといけないものがあって」
 紙袋を取り出そうとしたら、航くんが「あぁ」と思い出したように呟いた。
「『めいよに』の特装版に付いてた小説だろ?」
「……気付いてたの?」
「うん。でも桃なら大事にしてくれてるだろうと思って、言わなかった。それに、実は俺も桃に返してないDVDがあるんだよな。『劇場版・唯我独尊スペースプリンセス』。ごめん。完全に借りパクしてた」
「あ……! それ、なくしたと思ってたの。航くんが持ってたんだ」
「今度必ず返しに行くから。それまでそいつは人質……本質(ほんじち)? にしといて」
「なにそれ」
 わたしたちは声を出して笑い合った。すごく、すごく久々だった。

「まっ、というわけだからまた話そう」
 冷えてきたなと航くんがベンチを立つから、わたしもそれに続く。
「零衣くんのことでも、いい?」
「もちろん。俺も話したいし。女心っていうのを教えてくれ」

 航くんは「じゃ、また学校で」と手を振って、夕焼けの中を歩き始める。
「あ、ありがとう! またね。航くん」
「おう」ともう一度手を上げてくれた彼の背中を、わたしは見えなくなるまで見つめていた。

 内緒にしておこう。
 さっき、航くんの手に少しだけ触れてみたいと思ったのは。
 手を繋がなくてもいい。一瞬だけで良いから、触れてみたかった。
 わたしの淡くもろい恋心を否定しなかった、初めてのひと。
 でも、彼がその指の隙間に一緒に思い出を閉じ込めていく、大切になるであろう女の子は、もう側にいる。
 
 だからわたしは、今はアクスタの彼の手を握っていよう。
 桃色の綿雲に包まれたなら、恋人繋ぎを夢見てみよう。
 そのうちこの世界でも恋をするかもしれない。
 思ったよりも早いかもしれないし、もっとずっと先のことかもしれない。
 青春のサイダーはまだちょっぴり濁ったままだけれど、それでももう少し、二次元の世界に心を委ねていよう。
 この世界はわたしが思っている以上に曖昧で、自由なのだから。
 
 ――零衣くん、これからもよろしくね。
 わたしはトートバッグの中のアクスタに、そっと呟いた。