数日後の土曜日。わたしは朝からせっせと部屋の片付けをしていた。
みんなの恋模様に触れて以来、なんとなく心の中に不透明さがあった。こういうときは、気分転換に模様替えをしてみようと思い立ったのだ。部屋の乱れは心の乱れ、なんていうから。
昨日発売の週刊コミカは、思いがけず巻頭カラーに零衣くんが描かれていた。凛々しくこちらを見つめる姿にうっとりして、ページを折らないように気を付けて、何度も何度も読み返した。
そう。わたしだって次元が違うとはいえ、好きなひとがいる。それでいいの、桃音。
零衣くんは今週も強くてかっこいい。大好き。
ページをめくっている間は、そう思えた。
でもその夜、眠る前にミニぬいを抱きしめて思い浮かんだのは、いつものコスモトウキョウの夜景ではなかった。
『本物の恋とはなんでしょう?』
『あなたのその恋、本物ですか?』
クイズ番組のテロップみたいに大きく強調される言葉。
わたしの恋は、本当に本物なの? みんなと同じなの?
桃色の綿雲は、くすんで灰色混じりで……身体を預けても、キシキシと鈍く歪む音がするみたいに感じた。当然、よく眠れなかった。
そんなわけで今日も正直、気もそぞろだったのだけれど、大好きな本に触れていればきっと大丈夫――そんな思いでまずは本棚のレイアウトをもう少し見やすくしてみることにした。棚を乾拭きするために、漫画や雑誌、ラノベを全部引っ張り出していた、そのとき。
「あれ? これ……」
それは、大切にしていたアニメ雑誌の間にちょこんと挟まっていた。ハードカバーの薄い小さな本。キラキラのブルーの背表紙。
でも、手に取った瞬間それがなんなのか、すぐわかった。
『冥夜の縁士』、六巻の特装版……に付いてくるスピンオフ小説。
頭の中の記憶の引き出しを、開けて閉めてを何度か繰り返す。
これ……もしかしなくても航くんのもの?
わたしが『めいよに』を知って、零衣くんを大好きになったきっかけは、航くんだった。
高校生になったばかりの、四月の初め。まだその頃は、漫画の貸し借りをしていた。
彼は最近の一押しだよと、当時出ていた単行本をまとめて貸してくれたのだった。
『全部初版で特装版なんだ。俺って絶対見る目あると思うぞ』なんて、それは自慢気な顔をしていたっけ。
航くんが勧めてくれた漫画はどれもセンスが良くて、いつだってわたしの心を揺さぶった。
そしてとりわけ、『めいよに』は特別な作品になった。返したあとも自分でも単行本を少しずつ集めて……そして、いつの間にか零衣くんのことを目で追うようになっていった。
わたしが持っている単行本は十巻まで通常版だから、これは航くんのもので間違いない。
困った。航くんと最後に話したのはいつだったっけ?
夏休み前に廊下ですれ違ったとき、軽く目が合った気がして小さく会釈をしたけれど、気がしただけで、彼は気付いていなかったかもしれない。だから、きちんと話したのはもっとずっと前だった気がする。
航くんの家は歩いて十分もかからない。今更になってしまったけれど、返しに行かなければ。
でも、どことなく気まずい。だって航くんには、前向きにお付き合いを検討している彼女候補がいるんだもの。
幼なじみで一応「女友達だった」わたしが、昔のノリで軽々しく家に行くのはあまり良くないんじゃないかな。高原さん、気を悪くしてしまわないだろうか。
でも航くんのおかげで、わたしは零衣くんと出会えた。毎日が彩られた。水曜日と金曜日の真夜中が、楽しみになった。
借りたものはきちんと返しましょう。返さないのはドロボウです。
――そんな当たり前のお約束がくるくるループして、心がチクリと傷む。
その日の夜もまた、机の上にブルーの表紙を置いたままなかなか眠れなかった。ぽふんと飛び込んだ綿雲の色は、ますますくすんでいた。
結局月曜日の夕方、わたしは航くんの家へ行くことにした。
学校で返すことも考えたのだけれど、二年四組から一組へのたった数十メートルの距離をやけに遠く感じて、どうしても足が向かなかった。
家に帰って適当な服に着替え、部屋の窓を開ける。秋空の青に、淡いグレーが混じったオレンジが滲んできていた。空の色は作るのが難しいって、つくづく思う。
意を決して立ち上がり、カーディガンを羽織った。
陸上部の活動時間を考えると、まだ家には帰っていないはず。航くんのお母さんに渡しておいてくださいとお願いしよう……ずるいなとは思ったけれど、今のわたしにはそれが精いっぱいだった。
一応中身が見えないよう、小花柄の紙袋に、小説と「ずっと借りててごめんね 桃音」とだけ書いたメッセージカードを入れた。プレゼントみたいでどうかと思ったけれど、手頃なものが他になかった。
トートバッグに紙袋とスマホ、お財布、それに零衣くんのアクスタを専用のクリアケースに入れてそっとしまう。
夕飯を作ってくれているお母さんに散歩だと伝えて、スニーカーの靴紐をいつもよりゆっくり丁寧に結ぶ。深呼吸をして玄関のドアを開けた。
秋は人恋しくなるなんて最初に言ったのは誰なんだろう。少し肌寒い風がゆっくりと辺りを抜けていくから、思わずそんなことを考える。
双葉公園の木々は、少しずつ秋色に色付き始めていた。この公園はちょうどわたしと航くんの家を結ぶ道の真ん中辺りに位置していて、よくここで待ち合わせて漫画の貸し借りをしたものだった。
この時間にはもう、ブランコも滑り台も、遊び相手がいなくてただ静かに佇んでいる。
どうしてだろう。
トートバッグの中には零衣くんがいるのに、どこか心細いのはやっぱりこの季節のせい?
アスファルトを蹴る音が、躊躇うように止まる。
少し靴紐を緩く結び過ぎたかも……そう、スニーカーに視線を落としたときだった。
「あ、桃」
「……!」
聞き慣れた声に顔を上げると、少し離れた先に航くんと高原さんが並んでいた。
「桃音ちゃん、久し振り!」
高原さんがぶんぶん手を振って、こちらに駆け寄ってくる。早歩きで、航くんが続いた。
「ど、どうして……早い……」
言葉にならない焦燥を、二人に投げかける。
「早い? あぁ、今日は顧問の先生いなくてさ。早めに切り上げようってなったんだよ」
予想外の展開に、心臓の音が大きくなっていく。
ずるをしようとしたからこんなことに、なんて根拠のない思いが冷や汗になって滲み出る。
「桃音ちゃん、お家この辺なの? 八代くん家と近かったんだね」
高原さんのほっぺたは、赤く染まっていた。あぁ、また恋の色だ。やっぱり、きれい。
「あっ、そうなの。小学生の頃にうちが後で引っ越してきてからは、よく一緒に遊んでたよ」
しまった。つい見惚れてしまって、物凄く余計なことを言ってしまった。
「そっかぁ。幼なじみ、だね。いいね、そういう関係!」
にも関わらず、高原さんは気にする様子もなく、いつも通り弾けるような笑顔で肯定してくれた。
「散歩でもしてた?」
そう訊く航くんもまた、屈託のない笑顔だった。
なあんだ。二人って、わたしが思っていた以上にお似合いだ。
「う、うん。たまには」
「じゃあ、この辺で帰ろうかな。八代くん、一緒に帰らせてくれてありがとう。また明日ね」
高原さんは気を遣ったのだろうけれど、わたしは何も言えなかった。
「ううん、俺こそこんなところまでありがとな。また明日」
「桃音ちゃんも、またね」
「う、うん。またね」
航くんは揺れるポニーテールの彼女に向かって、手を振り続けた。控えめに、だけど、バス停に向かう角の向こうに姿が見えなくなるまでずっと。
久々に航くんが、近い。
元々背は高めだけれど、ハードルをやっているだけあって、すらりと伸びた手足はブレザーの制服姿すらもさまになっている。
「喋るの、久々だな。何だか」
どぎまぎしていたところに航くんが、ぽつりと切り出す。今日もたくさん走ったのだろう。見上げると微かに汗のにおいがした。
「う、うん」
「元気してた? ――って、少し前に廊下ですれ違ったっけ」
「あ、そういえばそうだったかも」
やっぱりあの日、目が合ったのは気のせいではなかったらしい。
「……ねぇ航くん、高原さんの方から告白されたんだよね?」
何を話そうか考えあぐねていた割に、直球ストレートな問いを投げかけてしまった。
「何でそれを――」
「ごほん。JKの情報網を舐めてもらっては困りまーす。そこかしこに張り巡らされてるんだから。ワールドワイドウェブっていうやつだよ」
「こわっ」
航くんが、大袈裟なくらいたじろぐ。けれどわたしは追撃を仕掛ける。そんな自分がどこか滑稽に感じつつも、止まらない。
「高原さんって、帰る方向反対だよね? 少しでも一緒にいたかったんだね。航くんったら本当に愛されてるんだからー。邪魔しちゃってごめんね。かわいいもんね、あの子」
「さっきからめっちゃ早口だし。……まぁ、うん。かわいいとは思ってるけど」
「そうそう。わたしなんかと比べてさ、天と地の差だよね」
「……ん? 桃と比べてって言われると、そこまでの差は無いと思うけど?」
「えっ!?」
何をそんなに驚いているのだと言わんばかりに、航くんはきょとんとしている。
「ちょっと! ダメだよ」
「何が?」
「せっかく好きって言ってもらえたんでしょう? その言い方は高原さんに失礼。超失礼!」
むうっとしたわたしに航くんは動揺していた。同時に気付く。わたしも、動揺しているって。
「なんでそんなにムキになってるんだよ」
「ムキになってなんかないよ!」
「……桃。ちょっと座ろう」
航くんは、双葉公園の入り口を指差した。
