「うん。私、半田くんのこと、好きだよ」
翌日の放課後。西棟三階の美術室。
うつむき気味の陽向はほっぺたを真っ赤にして、小鳥がさえずるような声でそう、打ち明けてくれた。
わぁっ、と紗季から小さな歓声が上がる。
恋をした女の子のほっぺたの色は、なんてきれいなんだろう、と思った。桃色……それとも林檎色? 夕焼けに染まった空の色?
ううん。どれでもない。どれにも例えられない。どんな高価な絵の具を混ぜても、きっと作れない。
陽向のほっぺたにしか生まれない「恋の色」。特別な色。
目の前には各々のイーゼルが並んでいるのだけれど、最早部活そっちのけで、恋する陽向と恋をしたい紗季は恋愛トークに花を咲かせている。秋だから、きっとその花はコスモス。赤にピンク、白。色とりどりの恋の色が咲き乱れているみたい。
美術部の活動は毎日でもないしゆるめだから、放課後なんとなく集まっておしゃべりするだけ、なんていう日も多い。とはいえ文化祭まであと少しだから、そろそろ顧問の松崎先生に突っ込まれそうだ。
「半田くんとはね、委員会が一緒になって、少しずつ話すようになったの。この前は黒板消すの手伝ってくれて。すごいの。一番上まで軽々届くんだよ」
「おおっ。そういうの憧れるなぁ」
紗季の声は興味津々そのもので、ポンポン弾んでいる。
そんな二人にどこか戸惑いを感じつつも、わたしも懸命に耳を傾ける。
そう。恋は素敵なもの。大丈夫。わたしだって恋をしている。みんなとは、少し形は違うかもしれないけれど。
開け放たれた窓から、秋の匂いをまとった風に乗って、グラウンドに広がる運動部の声が届く。サッカーにラグビー、陸上……確か半田くんはサッカー部だったはず。
何となく、サッカー部らしき声とホイッスルの音に耳を澄ませてみた。
「ねぇ桃ちゃん、ちょっと手貸して?」
「手? ……こう?」
マシュマロみたいにふんわり笑った陽向に言われるがまま、右手を差し出す。形の良い爪先だなと思っていた陽向の左手がそっとわたしの手を包んだかと思えば、ゆっくりと指が絡んだ。
「これこれ。恋人繋ぎって憧れるよね。普通に手繋ぐのよりも、通じ合ってるって感じ」
陽向の指に、そっと力が込められる。きっと半田くんといつかこうなれたらって願いを込めているのだろう。こちらが照れてしまうくらい、真っ直ぐな恋する乙女の睫毛は、静かに赤いままのほっぺたに影を落とす。
なのにわたしというと。
「陽向って、こんな手冷たかったっけ?」
繋いだ手を見つめたまま、なんとも気の利かない感想を口走ってしまった。
「桃音ったら、感想がお子様だー!」
紗季がくくっと笑うから、なんだかバツが悪くなってつい唇が尖る。
「わ、わたしも憧れないわけじゃないよ? その……恋人繋ぎ」
慌てて二人に同意しつつ、考える。お互い「好き」を紡ぎ合うたび、きゅうっと絡まった指のすきまに、恋の喜びも、切なさも、閉じ込めていくのかな、なんて。二人だけが開けることのできる、宝箱みたいに。
もし、零衣くんが私の手を取ってくれたら……わたしはその指先に応えてみたいな――。
「ね、航太くんも最近、告られたらしいよ?」
――えっ……。
またもや妄想に入りかけていたわたしを現実に引き戻したのは、陽向の思いもよらない一言だった。
「ほら、去年私たちとクラスが一緒だった、高原菜々ちゃん。航太くんは『とりあえず友達から』なんて返事したらしいけどね、まんざらでもないって話だよ」
「そっか、二人とも陸上部だもんね。そこで仲良くなったのかな。ね、桃音?」
すぐ隣にいる二人の声が、遠く感じる。
彼の名前を聞くのすら久々だったというのに、なぜ胸の奥がさわさわと音を立てているのだろう。
「桃ちゃん、どうしたの?」
「あ、あの航くんがね、まさかって驚いちゃった」
「もしかして桃ちゃん、知らなかったの? 前から仲良かったよね。よく漫画やアニメ雑誌の貸し借りしたりして」
確かに航くん、こと八代航太は小学生の頃から仲が良くて――よく二次元の話で盛り上がることが多かった。そう……今となっては過去形だけれど。
蔦宮市の中心地から少し離れた東蔦宮町。唯一ある小・中学校は、どちらも二クラスしかなくて、みんながきょうだいみたいに仲良しで、結束力も強めだった。
同じ中学出身の子は、大多数が同じ蔦宮南高校に進学した。だけどクラス数は一気に七つに増え、彼とも違うクラスになった。
最初こそ、校内ですれ違えば「元気?」なんて声を掛け合っていたのだけれど、それは、自然に少なくなっていって。
あれだけ語り合っていた日々の思い出が砂のようにさらさらと空気に溶けていく音を、微かに聞いた。でも、高校生の毎日は何かと目まぐるしい。そういうものだと思って気に留めなかった。
「私てっきり、桃ちゃんって航太くんのことを好きになるかと思ってたよ」
陽向の言葉に、わたしは慌てて首を横に振る。
「わたしが航くんを? それはないよー」
目を逸らした先のケント紙のパネルには、たくさんのフルーツに囲まれておめかしをしたかわいい黒猫……になる予定の、白猫。にゃあ、と催促されているみたいにわたしを見つめている。
「そうなの? 趣味も合うし家も近いのに?」
紗季は「ちょっともったいないかもー」なんて続けたけれど、いまいちわたしにはぴんとこない。
「うーん。でも高校ではクラス離れちゃったし、一度疎遠になったらそんなものかも」
「そっかー。七クラスもあるとだんだんそうなるよね。あたしも同じ中学出身の男子何人かいるけど、あんまり話さなくなったし」
「おーい。盛り上がるのもいいが、もうちょっと文化祭を意識しろよー」
振り向いた先には、苦笑いの松崎先生が立っていた。
「はぁい」
三人で口を揃えて作品に向き直ったところで、その日の恋愛トークはお開きとなった。
わたしはどこかほっとして、黒のアクリルガッシュをパレットにちゅう、と絞り出す。
さっき感じた胸のさわさわを絵筆に乗せて、ひたすらペタペタとパネルの白猫に落としていった。
翌日の放課後。西棟三階の美術室。
うつむき気味の陽向はほっぺたを真っ赤にして、小鳥がさえずるような声でそう、打ち明けてくれた。
わぁっ、と紗季から小さな歓声が上がる。
恋をした女の子のほっぺたの色は、なんてきれいなんだろう、と思った。桃色……それとも林檎色? 夕焼けに染まった空の色?
ううん。どれでもない。どれにも例えられない。どんな高価な絵の具を混ぜても、きっと作れない。
陽向のほっぺたにしか生まれない「恋の色」。特別な色。
目の前には各々のイーゼルが並んでいるのだけれど、最早部活そっちのけで、恋する陽向と恋をしたい紗季は恋愛トークに花を咲かせている。秋だから、きっとその花はコスモス。赤にピンク、白。色とりどりの恋の色が咲き乱れているみたい。
美術部の活動は毎日でもないしゆるめだから、放課後なんとなく集まっておしゃべりするだけ、なんていう日も多い。とはいえ文化祭まであと少しだから、そろそろ顧問の松崎先生に突っ込まれそうだ。
「半田くんとはね、委員会が一緒になって、少しずつ話すようになったの。この前は黒板消すの手伝ってくれて。すごいの。一番上まで軽々届くんだよ」
「おおっ。そういうの憧れるなぁ」
紗季の声は興味津々そのもので、ポンポン弾んでいる。
そんな二人にどこか戸惑いを感じつつも、わたしも懸命に耳を傾ける。
そう。恋は素敵なもの。大丈夫。わたしだって恋をしている。みんなとは、少し形は違うかもしれないけれど。
開け放たれた窓から、秋の匂いをまとった風に乗って、グラウンドに広がる運動部の声が届く。サッカーにラグビー、陸上……確か半田くんはサッカー部だったはず。
何となく、サッカー部らしき声とホイッスルの音に耳を澄ませてみた。
「ねぇ桃ちゃん、ちょっと手貸して?」
「手? ……こう?」
マシュマロみたいにふんわり笑った陽向に言われるがまま、右手を差し出す。形の良い爪先だなと思っていた陽向の左手がそっとわたしの手を包んだかと思えば、ゆっくりと指が絡んだ。
「これこれ。恋人繋ぎって憧れるよね。普通に手繋ぐのよりも、通じ合ってるって感じ」
陽向の指に、そっと力が込められる。きっと半田くんといつかこうなれたらって願いを込めているのだろう。こちらが照れてしまうくらい、真っ直ぐな恋する乙女の睫毛は、静かに赤いままのほっぺたに影を落とす。
なのにわたしというと。
「陽向って、こんな手冷たかったっけ?」
繋いだ手を見つめたまま、なんとも気の利かない感想を口走ってしまった。
「桃音ったら、感想がお子様だー!」
紗季がくくっと笑うから、なんだかバツが悪くなってつい唇が尖る。
「わ、わたしも憧れないわけじゃないよ? その……恋人繋ぎ」
慌てて二人に同意しつつ、考える。お互い「好き」を紡ぎ合うたび、きゅうっと絡まった指のすきまに、恋の喜びも、切なさも、閉じ込めていくのかな、なんて。二人だけが開けることのできる、宝箱みたいに。
もし、零衣くんが私の手を取ってくれたら……わたしはその指先に応えてみたいな――。
「ね、航太くんも最近、告られたらしいよ?」
――えっ……。
またもや妄想に入りかけていたわたしを現実に引き戻したのは、陽向の思いもよらない一言だった。
「ほら、去年私たちとクラスが一緒だった、高原菜々ちゃん。航太くんは『とりあえず友達から』なんて返事したらしいけどね、まんざらでもないって話だよ」
「そっか、二人とも陸上部だもんね。そこで仲良くなったのかな。ね、桃音?」
すぐ隣にいる二人の声が、遠く感じる。
彼の名前を聞くのすら久々だったというのに、なぜ胸の奥がさわさわと音を立てているのだろう。
「桃ちゃん、どうしたの?」
「あ、あの航くんがね、まさかって驚いちゃった」
「もしかして桃ちゃん、知らなかったの? 前から仲良かったよね。よく漫画やアニメ雑誌の貸し借りしたりして」
確かに航くん、こと八代航太は小学生の頃から仲が良くて――よく二次元の話で盛り上がることが多かった。そう……今となっては過去形だけれど。
蔦宮市の中心地から少し離れた東蔦宮町。唯一ある小・中学校は、どちらも二クラスしかなくて、みんながきょうだいみたいに仲良しで、結束力も強めだった。
同じ中学出身の子は、大多数が同じ蔦宮南高校に進学した。だけどクラス数は一気に七つに増え、彼とも違うクラスになった。
最初こそ、校内ですれ違えば「元気?」なんて声を掛け合っていたのだけれど、それは、自然に少なくなっていって。
あれだけ語り合っていた日々の思い出が砂のようにさらさらと空気に溶けていく音を、微かに聞いた。でも、高校生の毎日は何かと目まぐるしい。そういうものだと思って気に留めなかった。
「私てっきり、桃ちゃんって航太くんのことを好きになるかと思ってたよ」
陽向の言葉に、わたしは慌てて首を横に振る。
「わたしが航くんを? それはないよー」
目を逸らした先のケント紙のパネルには、たくさんのフルーツに囲まれておめかしをしたかわいい黒猫……になる予定の、白猫。にゃあ、と催促されているみたいにわたしを見つめている。
「そうなの? 趣味も合うし家も近いのに?」
紗季は「ちょっともったいないかもー」なんて続けたけれど、いまいちわたしにはぴんとこない。
「うーん。でも高校ではクラス離れちゃったし、一度疎遠になったらそんなものかも」
「そっかー。七クラスもあるとだんだんそうなるよね。あたしも同じ中学出身の男子何人かいるけど、あんまり話さなくなったし」
「おーい。盛り上がるのもいいが、もうちょっと文化祭を意識しろよー」
振り向いた先には、苦笑いの松崎先生が立っていた。
「はぁい」
三人で口を揃えて作品に向き直ったところで、その日の恋愛トークはお開きとなった。
わたしはどこかほっとして、黒のアクリルガッシュをパレットにちゅう、と絞り出す。
さっき感じた胸のさわさわを絵筆に乗せて、ひたすらペタペタとパネルの白猫に落としていった。
