榊陽向は紗季より前に、中学校で仲良くなったもうひとりの親友。
ちょっぴり控えめでかわいいものが大好きで、ふわふわと笑った顔がやさしくて。癒し系っていう言葉がぴったりの女の子。
そんな陽向に、好きなひとができた。
さっきまでとは百八十度ぐるんと回った話題に、頭がついていかない。
だって、二次元の話ではない。三次元の話だから。文字通り、次元が違う。
「へ、へぇ……知らなかったよ」
「へぇ……なんて呆けてる場合じゃないの。文化祭と修学旅行が近いからか、最近あちこちでカップル誕生してるみたい」
心なしか、紗季の声のトーンがさっきよりすとんと落ちている気がする。
十一月下旬の修学旅行まで、あと約一ヶ月とちょっと。
二週間後には、文化祭も控えている。
今年の夏も長かった。九月になって涼しくなったと思ったら、またお日様が元気にてらてら。
夏さん、もうそろそろお帰りください。そんなことを何度も呟くほどの暑さが、やっと和らいできた今日この頃。
学校中が、少しずつ軽快なステップを踏むように、ととん、ととんと浮足立ってくるのを、わたしも感じていた。
同時にここ数週間、誰かのことを好きとか、告白したとかされたとか……積極的に首を突っ込まなくても、そんな話をちらほらと耳にするようになった気がする。
三次元……つまりこの世界。でも、わたしは。
「わたしは、零衣くんと一緒だからいいもん。今だってほら、こうしたらいつでも目が合うし」
わたしはペンポーチのファスナーをもう一度開けてみせる。
「ふふ。本当に好きなんだね」
紗季は、「ここ、跳ねてる」とポケットから櫛を取り出すと、わたしに窓の方を向くように促した。ボブより少し長めの髪を、ゆっくり梳かしてくれる。
「……もしかして紗季、焦ってたりする?」
髪にくすぐったさを感じつつ、訊いてみる。
「うーん。そういうわけじゃないんだけど」
頭に降ってきた声は、どこか悩ましげだった。
「紗季もね、累くんさえいればいいって言ってたから。ちょっとびっくりしちゃった」
「確かに累くんのことは大好きだし推してるよ。とはいえ、あたしたち十七歳じゃない? まさにアオハルど真ん中にいるわけよ」
「アオハルかぁ……」
「来年も再来年も、このままずっと二次元のキャラを推し続けてるのかな、そろそろ本物の恋もしてみたいな、なんて最近ちょこっと思ってて」
十七歳。
世間一般的に、きらきら眩しいお年頃。
クラス替えをしても女子は一軍二軍……となんとなく分かれているとか、進路について本格的に考え始めなければならないとか、小さな悩みの靄の渦を抱えながらも、毎日は楽しい。
しゅわしゅわ弾ける空色のサイダーみたいな、そんな一年を今、わたしたちは過ごしている。
そんな爽やかさ満点な日々の中、二次元の彼に恋をしているわたし、宮野桃音。
――本物の、恋。
ふと、空色がほんの少しだけ、濁った気がした。
もしかしてわたし、他の子とはちょっと恋の形が違っているのかな。
ううん。今気付いたんじゃない。前から薄々は感じていた。だから零衣くんを好きなことも、紗季と陽向にしか話していない。それも、あくまで二次元の「推し」としてだ。
本当は推し以上の感情を内に秘めているということは、心の奥底にそっとしまってある。たとえ親友でも、さすがに驚かれるかなってどきどきするから。
わたしの零衣くんに対する気持ちは本物だと思う。だって、姿を見るたびに、セリフを見聞きするたびにほっぺたが熱くなるから。心の中に切なくも温かな気持ちが、溢れ出すから。それにこれまで疑問を持ったことなんて、なかった。困ることだって、なかった。
だけど……。
きらきらぴかぴかの十七歳。紗季の言う通り、もっと現実に目を向けて、誰かのことを好きになるべきなのかな?
もし好きなひとと気持ちが通じ合えたのなら、お付き合いして、話して、笑い合って、触れて……。
確かにそれは、とても素敵なことだと思う。
二次元の彼には決してできないことが、三次元では全てできてしまう。
だけどこの世界で、「わたしが」恋をするなんて、先行きが濃い霧に覆われていてイメージすることすら難しい。
だって、容姿も頭の良さも運動神経も、わたしは何一つ秀でているものがない。髪は丁寧に梳かしたつもりだったのに、今朝も跳ねてしまっていた。二時間目の数学は、小テストの点がなかなか伸びない。
唯一、少しだけできるのはイラストを描くこと。でもすごく上手いわけでもない。賞に入るわけでもない。その程度。
今のわたしは毎晩アクスタを撫でて、ベッドの中で小さなぬいぐるみ――ミニぬいをぎゅっとして目を瞑る。コスモトウキョウのビルのてっぺんにいる自分を、思い描く。
眠りに落ちる前のまどろみの中。零衣くんは、「桃音、君のことが世界で一番大切だよ」なんて、甘い言葉で耳をくすぐらせる。……もちろんそれは密かで小さな妄想で、自分で作り上げた世界。
でもそんな小さな世界でさえも、わたしの心は淡い想いで満たされる。
――そう。それで十分、しあわせ。しあわせ、だよね?
サイダーの泡がしゅわしゅわと、とめどなく生まれては弾けてを繰り返す。
わたしはその中に静かに沈む。ぶくぶく。ゆっくりゆっくり、泡を見つめる。
わたしもみんなみたいに、弾ける泡たちの行方を追わなくていいの?
「……はいオッケー! 桃音ったら、またボーッとしてる。大丈夫?」
紗季がわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれたから、慌ててそちらへ向き直る。
「あ、ありがとう。あのね、さっきの話だけど……二次元は絶対に裏切らないよ? 妄想し放題だよ?」
取り繕ったような言葉がこぼれた。指先で適当にフリックしたSNSの呟きみたい。
「それはそれで楽しいんだけどねー」
なんだか難しい顔をしている紗季にはっとする。せっかく話をしてくれたのに、自分の気持ちを押し付けてしまった。
頭の端から端まで考えて、掛けられる言葉を探した。紗季の手のひらからこぼれ落ちてしまわないような言葉を。
「あ、でもね。紗季に好きなひとができたら、わたし、もちろん超応援するよ」
「本当?」
「もちろん、本当。応援くらいしか、できないけど」
「ううん。うれしい。ありがと、桃音」
いつも通り笑ってくれて、ほっと胸を撫で下ろす。
たまに思う。紗季も陽向もわたしよりはるかにかわいいし、得意なこともたくさんあるのに、どうしてずっとわたしの親友でいてくれるのかなって。とてもうれしくて、ありがたいことだけれど。
「修学旅行、楽しみだね。その子とミニぬいも、一緒に連れて行くの?」
「うん! 写真撮ろうと思って。紗季、自由行動は絶対一緒に回ろうね」
紗季が大きく頷いたところで、キンコンと、チャイムが一日の始まりを告げる。
西田さんが今日もギリギリ、教室の扉に滑り込むのが見えた。それを見た紗季は苦笑いで自分の席に戻ろうとしたけれど、「そうだ」とわたしの顔を覗き込む。
「ね、桃音。明日の部活のとき、陽向に半田くんのこと、訊いてみようよ」
「う、うん。わかった」
紗季の髪が、さらりと深緑のセーラー服の肩を滑った。いつも通り、しっかりお手入れされた絹糸みたいな髪。
でも、「それ」はいつもと違っていた。
ふんわりと舞った、深い花の香り。お気に入りだと話していた、いつもの甘い桃の花の香りではなかった。
後で「シャンプー変えたの?」って訊いてみようかな……。
――でもわたしからはなぜか、訊けなかった。
「そういえばシャンプー、ナイトリリーっていう香りにしてみたの。前のよりちょっと大人な香りなんだ。モテ髪になれるといいな」
お昼休みにそんなことを紗季から聞いて、わたしはなぜか、ほんの少し胸の奥がきしんだ。
ちょっぴり控えめでかわいいものが大好きで、ふわふわと笑った顔がやさしくて。癒し系っていう言葉がぴったりの女の子。
そんな陽向に、好きなひとができた。
さっきまでとは百八十度ぐるんと回った話題に、頭がついていかない。
だって、二次元の話ではない。三次元の話だから。文字通り、次元が違う。
「へ、へぇ……知らなかったよ」
「へぇ……なんて呆けてる場合じゃないの。文化祭と修学旅行が近いからか、最近あちこちでカップル誕生してるみたい」
心なしか、紗季の声のトーンがさっきよりすとんと落ちている気がする。
十一月下旬の修学旅行まで、あと約一ヶ月とちょっと。
二週間後には、文化祭も控えている。
今年の夏も長かった。九月になって涼しくなったと思ったら、またお日様が元気にてらてら。
夏さん、もうそろそろお帰りください。そんなことを何度も呟くほどの暑さが、やっと和らいできた今日この頃。
学校中が、少しずつ軽快なステップを踏むように、ととん、ととんと浮足立ってくるのを、わたしも感じていた。
同時にここ数週間、誰かのことを好きとか、告白したとかされたとか……積極的に首を突っ込まなくても、そんな話をちらほらと耳にするようになった気がする。
三次元……つまりこの世界。でも、わたしは。
「わたしは、零衣くんと一緒だからいいもん。今だってほら、こうしたらいつでも目が合うし」
わたしはペンポーチのファスナーをもう一度開けてみせる。
「ふふ。本当に好きなんだね」
紗季は、「ここ、跳ねてる」とポケットから櫛を取り出すと、わたしに窓の方を向くように促した。ボブより少し長めの髪を、ゆっくり梳かしてくれる。
「……もしかして紗季、焦ってたりする?」
髪にくすぐったさを感じつつ、訊いてみる。
「うーん。そういうわけじゃないんだけど」
頭に降ってきた声は、どこか悩ましげだった。
「紗季もね、累くんさえいればいいって言ってたから。ちょっとびっくりしちゃった」
「確かに累くんのことは大好きだし推してるよ。とはいえ、あたしたち十七歳じゃない? まさにアオハルど真ん中にいるわけよ」
「アオハルかぁ……」
「来年も再来年も、このままずっと二次元のキャラを推し続けてるのかな、そろそろ本物の恋もしてみたいな、なんて最近ちょこっと思ってて」
十七歳。
世間一般的に、きらきら眩しいお年頃。
クラス替えをしても女子は一軍二軍……となんとなく分かれているとか、進路について本格的に考え始めなければならないとか、小さな悩みの靄の渦を抱えながらも、毎日は楽しい。
しゅわしゅわ弾ける空色のサイダーみたいな、そんな一年を今、わたしたちは過ごしている。
そんな爽やかさ満点な日々の中、二次元の彼に恋をしているわたし、宮野桃音。
――本物の、恋。
ふと、空色がほんの少しだけ、濁った気がした。
もしかしてわたし、他の子とはちょっと恋の形が違っているのかな。
ううん。今気付いたんじゃない。前から薄々は感じていた。だから零衣くんを好きなことも、紗季と陽向にしか話していない。それも、あくまで二次元の「推し」としてだ。
本当は推し以上の感情を内に秘めているということは、心の奥底にそっとしまってある。たとえ親友でも、さすがに驚かれるかなってどきどきするから。
わたしの零衣くんに対する気持ちは本物だと思う。だって、姿を見るたびに、セリフを見聞きするたびにほっぺたが熱くなるから。心の中に切なくも温かな気持ちが、溢れ出すから。それにこれまで疑問を持ったことなんて、なかった。困ることだって、なかった。
だけど……。
きらきらぴかぴかの十七歳。紗季の言う通り、もっと現実に目を向けて、誰かのことを好きになるべきなのかな?
もし好きなひとと気持ちが通じ合えたのなら、お付き合いして、話して、笑い合って、触れて……。
確かにそれは、とても素敵なことだと思う。
二次元の彼には決してできないことが、三次元では全てできてしまう。
だけどこの世界で、「わたしが」恋をするなんて、先行きが濃い霧に覆われていてイメージすることすら難しい。
だって、容姿も頭の良さも運動神経も、わたしは何一つ秀でているものがない。髪は丁寧に梳かしたつもりだったのに、今朝も跳ねてしまっていた。二時間目の数学は、小テストの点がなかなか伸びない。
唯一、少しだけできるのはイラストを描くこと。でもすごく上手いわけでもない。賞に入るわけでもない。その程度。
今のわたしは毎晩アクスタを撫でて、ベッドの中で小さなぬいぐるみ――ミニぬいをぎゅっとして目を瞑る。コスモトウキョウのビルのてっぺんにいる自分を、思い描く。
眠りに落ちる前のまどろみの中。零衣くんは、「桃音、君のことが世界で一番大切だよ」なんて、甘い言葉で耳をくすぐらせる。……もちろんそれは密かで小さな妄想で、自分で作り上げた世界。
でもそんな小さな世界でさえも、わたしの心は淡い想いで満たされる。
――そう。それで十分、しあわせ。しあわせ、だよね?
サイダーの泡がしゅわしゅわと、とめどなく生まれては弾けてを繰り返す。
わたしはその中に静かに沈む。ぶくぶく。ゆっくりゆっくり、泡を見つめる。
わたしもみんなみたいに、弾ける泡たちの行方を追わなくていいの?
「……はいオッケー! 桃音ったら、またボーッとしてる。大丈夫?」
紗季がわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれたから、慌ててそちらへ向き直る。
「あ、ありがとう。あのね、さっきの話だけど……二次元は絶対に裏切らないよ? 妄想し放題だよ?」
取り繕ったような言葉がこぼれた。指先で適当にフリックしたSNSの呟きみたい。
「それはそれで楽しいんだけどねー」
なんだか難しい顔をしている紗季にはっとする。せっかく話をしてくれたのに、自分の気持ちを押し付けてしまった。
頭の端から端まで考えて、掛けられる言葉を探した。紗季の手のひらからこぼれ落ちてしまわないような言葉を。
「あ、でもね。紗季に好きなひとができたら、わたし、もちろん超応援するよ」
「本当?」
「もちろん、本当。応援くらいしか、できないけど」
「ううん。うれしい。ありがと、桃音」
いつも通り笑ってくれて、ほっと胸を撫で下ろす。
たまに思う。紗季も陽向もわたしよりはるかにかわいいし、得意なこともたくさんあるのに、どうしてずっとわたしの親友でいてくれるのかなって。とてもうれしくて、ありがたいことだけれど。
「修学旅行、楽しみだね。その子とミニぬいも、一緒に連れて行くの?」
「うん! 写真撮ろうと思って。紗季、自由行動は絶対一緒に回ろうね」
紗季が大きく頷いたところで、キンコンと、チャイムが一日の始まりを告げる。
西田さんが今日もギリギリ、教室の扉に滑り込むのが見えた。それを見た紗季は苦笑いで自分の席に戻ろうとしたけれど、「そうだ」とわたしの顔を覗き込む。
「ね、桃音。明日の部活のとき、陽向に半田くんのこと、訊いてみようよ」
「う、うん。わかった」
紗季の髪が、さらりと深緑のセーラー服の肩を滑った。いつも通り、しっかりお手入れされた絹糸みたいな髪。
でも、「それ」はいつもと違っていた。
ふんわりと舞った、深い花の香り。お気に入りだと話していた、いつもの甘い桃の花の香りではなかった。
後で「シャンプー変えたの?」って訊いてみようかな……。
――でもわたしからはなぜか、訊けなかった。
「そういえばシャンプー、ナイトリリーっていう香りにしてみたの。前のよりちょっと大人な香りなんだ。モテ髪になれるといいな」
お昼休みにそんなことを紗季から聞いて、わたしはなぜか、ほんの少し胸の奥がきしんだ。
