炬燵に足を滑り込ませ、母から受け取った通帳の残高を眺めながら、何度目かの溜息をついた。開いては閉じ、また開く。何度繰り返しても、記載された金額が変わることはない。ふと、ハンガーラックに掛けられたワンピースが目に入った。その姿を思い出した途端、通帳の残高を何度も確認していた自分が、ひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
公園から手を引いて連れ帰ると、母は驚くほど素直に家までついてきた。今は脱衣所から、シャワーの水音と一緒に、母の鼻歌が聞こえてくる。ついさっきまで泣いていたのが嘘のような、妙に明るい鼻歌を聞きながら、通帳を鞄の中へ放り込むと、のまま炬燵に身体を預け、仰向けに寝転んだ。
電灯から垂れ下がる紐を見つめながら、悠馬が側にいてくれたら、どんなに心強かっただろうと、心の底からそう思った。
こんなとき、いつもなら悠馬に相談していた。私が何を言っても、悠馬は一度黙って聞いて、それから「大丈夫だ」と言ってくれた。その言葉を思い出すだけで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩む気がした。
机に向かう悠馬の広い背中が蘇る。医学部に入学した悠馬は私たち家族の自慢の兄だった。「親父の後を継ぎたい」が口癖で、そのための努力を怠った姿を、私は一度も見たことがない。そんな悠馬が、今は警察に捕まっている。
何度考えても、その二つがうまく結びつかない。あの悠馬が、女の人にあんなことをするなんて。信じたくないというより、私の知っている悠馬と、聞かされた話が、別人のものに感じた。
それでも、もし本当だったら――。あの大きな背中が、急に受け入れがたいものに思えてしまう。考えたくない。
「美幸ちゃーん。お風呂あがったわよー」
大切なひとりの時間が、考えたくもないことを考えるだけで過ぎてしまった。
見上げた冬の空は、どこか頼りなかった。青とも白ともにつかない曖昧な色が、頭上に引き伸ばされている。まるで誰かが薄い硝子の幕を一枚、天井にそっと張り付けたかのような。
強く息を吐きかければそれだけでパリン、と音を立てて割れてしまいそうな、危うい質感だった。
息を吐きだすと白い煙がまっすぐに昇って、その薄い膜に溶けて見えていく。
「今日も寒くなりそうだね」
隣を歩く高雄が、マフラーに顔を半分埋めたまま呟いた。彼の呼気もまた、白い絵の具を水で薄めたように、冬の空へと滲んでいく。
「ほんとにね。ラケット持ってないけど、今日は部活ないの?」
「ん?ああ、今日はちょっとな。昨日の夜、親父が倒れちゃって。学校が終わったら病院に行かなきゃならなくなっちまった」
「え、大輔さんが?大丈夫なの?」
「そんな顔すんなって。これが一度や二度じゃないんだ。別に大したことじゃねえよ。親父さ、酔うと気が大きくなって、大声で騒ぎだすんだ。そうやって興奮しすぎると、貧血起こしてよく倒れるんだよ」
あまりにも淡々と語られたその話は、私にとって初めて聞くものだった。少なくとも中学生になる前は、そんな話を聞いたことはなかった。大輔さんは、いつも穏やかで優しい人だった。高雄と一緒に遊んでいた頃も、帰りが遅くなれば「もう暗いから、気をつけて帰るんだぞ」と笑いながら声をかけてくれたのを覚えている。
「じゃあ、高雄が戻ってきた理由って……」
「まあ、それもあるけど。引っ越すこと、美幸に何も伝えてなかったなーって思いだしてさ。それを言いに戻ってきた」
まるで何のわだかまりもないような、眩しい笑顔を浮かべていた。あまりにも屈託がなくて、私は思わず吹き出してしまった。
「なにそれ」
「いや、だってさ。小学卒業と同時に、俺いなくなっただろ?美幸のやつ、もしかしたら泣いてるかもなーって思って。だからまあ、心配になって見に来た」
「……別に、泣いてないし」
「嘘だな」
「ほんとだし」
「絶対泣いただろ」
「泣いてないって」
「じゃあ、なんでそんなムキになるんだよ」
「……うるさい」
怒ったふりをして睨みつけようとするのに、どうしても口元が緩んでしまう。結局、堪えきれずに小さく笑った。その横を、同じ制服を着た女子高校生の二人組が、自転車で颯爽と通り過ぎていった。冷たい風に煽られたスカートの裾を片手で押さえながら、二人で何かを話している。笑い声だけが、私たちの間をすり抜けるようにして遠ざかっていった。
「……なんか、変な感じ」
「何が?」
「こうやって高雄と歩いてるの」
「そうか?」
「うん。小学生の頃は、毎日のように一緒だったのにね」
「そうだったな」
高雄は少しだけ遠くを見るような目をした。
「美幸、あの頃は毎朝、俺ん家まで迎えに来てただろ」
「……そうだっけ?」
「覚えてないのかよ」
「だって、子供の頃のことでしょ」
「俺は覚えてるけどな」
「何を?」
「美幸がいつも寝癖つけたまま来てたこと」
「そんな、はしたない姿は見せてません」
「いいや、あったね。あと、ランドセルの横にキーホルダーいっぱい付けてた」
「それはあった……かも」
「で、走るたびにジャラジャラ鳴ってた」
「もういいって」
また笑い声が漏れた。
高雄も笑っている。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
家に帰れば、母がいる。
兄のことも、父のことも、考えなければならない。
昨日までの私は、そればかりを考えていた。
だからだろうか。
今こうして高雄と歩いている時間が、妙に大切なものに思えた。
「なあ、美幸」
「ん?」
「高校卒業したら、どうするんだ?」
「……まだ決めてない」
「大学は?」
「行けたら行きたいけど……お金、かかるから」
口にした途端、自分でも少し嫌な気持ちになった。
高雄は何も言わなかった。
ただ、しばらく歩いてから、ぽつりと呟いた。
「そっか」
「うん」
「美幸なら、どこでも行けると思うけどな」
「何それ」
「そのままの意味」
私は返事をしなかった。
代わりに、前を向いた。
冬の空は相変わらず薄い。
公園から手を引いて連れ帰ると、母は驚くほど素直に家までついてきた。今は脱衣所から、シャワーの水音と一緒に、母の鼻歌が聞こえてくる。ついさっきまで泣いていたのが嘘のような、妙に明るい鼻歌を聞きながら、通帳を鞄の中へ放り込むと、のまま炬燵に身体を預け、仰向けに寝転んだ。
電灯から垂れ下がる紐を見つめながら、悠馬が側にいてくれたら、どんなに心強かっただろうと、心の底からそう思った。
こんなとき、いつもなら悠馬に相談していた。私が何を言っても、悠馬は一度黙って聞いて、それから「大丈夫だ」と言ってくれた。その言葉を思い出すだけで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩む気がした。
机に向かう悠馬の広い背中が蘇る。医学部に入学した悠馬は私たち家族の自慢の兄だった。「親父の後を継ぎたい」が口癖で、そのための努力を怠った姿を、私は一度も見たことがない。そんな悠馬が、今は警察に捕まっている。
何度考えても、その二つがうまく結びつかない。あの悠馬が、女の人にあんなことをするなんて。信じたくないというより、私の知っている悠馬と、聞かされた話が、別人のものに感じた。
それでも、もし本当だったら――。あの大きな背中が、急に受け入れがたいものに思えてしまう。考えたくない。
「美幸ちゃーん。お風呂あがったわよー」
大切なひとりの時間が、考えたくもないことを考えるだけで過ぎてしまった。
見上げた冬の空は、どこか頼りなかった。青とも白ともにつかない曖昧な色が、頭上に引き伸ばされている。まるで誰かが薄い硝子の幕を一枚、天井にそっと張り付けたかのような。
強く息を吐きかければそれだけでパリン、と音を立てて割れてしまいそうな、危うい質感だった。
息を吐きだすと白い煙がまっすぐに昇って、その薄い膜に溶けて見えていく。
「今日も寒くなりそうだね」
隣を歩く高雄が、マフラーに顔を半分埋めたまま呟いた。彼の呼気もまた、白い絵の具を水で薄めたように、冬の空へと滲んでいく。
「ほんとにね。ラケット持ってないけど、今日は部活ないの?」
「ん?ああ、今日はちょっとな。昨日の夜、親父が倒れちゃって。学校が終わったら病院に行かなきゃならなくなっちまった」
「え、大輔さんが?大丈夫なの?」
「そんな顔すんなって。これが一度や二度じゃないんだ。別に大したことじゃねえよ。親父さ、酔うと気が大きくなって、大声で騒ぎだすんだ。そうやって興奮しすぎると、貧血起こしてよく倒れるんだよ」
あまりにも淡々と語られたその話は、私にとって初めて聞くものだった。少なくとも中学生になる前は、そんな話を聞いたことはなかった。大輔さんは、いつも穏やかで優しい人だった。高雄と一緒に遊んでいた頃も、帰りが遅くなれば「もう暗いから、気をつけて帰るんだぞ」と笑いながら声をかけてくれたのを覚えている。
「じゃあ、高雄が戻ってきた理由って……」
「まあ、それもあるけど。引っ越すこと、美幸に何も伝えてなかったなーって思いだしてさ。それを言いに戻ってきた」
まるで何のわだかまりもないような、眩しい笑顔を浮かべていた。あまりにも屈託がなくて、私は思わず吹き出してしまった。
「なにそれ」
「いや、だってさ。小学卒業と同時に、俺いなくなっただろ?美幸のやつ、もしかしたら泣いてるかもなーって思って。だからまあ、心配になって見に来た」
「……別に、泣いてないし」
「嘘だな」
「ほんとだし」
「絶対泣いただろ」
「泣いてないって」
「じゃあ、なんでそんなムキになるんだよ」
「……うるさい」
怒ったふりをして睨みつけようとするのに、どうしても口元が緩んでしまう。結局、堪えきれずに小さく笑った。その横を、同じ制服を着た女子高校生の二人組が、自転車で颯爽と通り過ぎていった。冷たい風に煽られたスカートの裾を片手で押さえながら、二人で何かを話している。笑い声だけが、私たちの間をすり抜けるようにして遠ざかっていった。
「……なんか、変な感じ」
「何が?」
「こうやって高雄と歩いてるの」
「そうか?」
「うん。小学生の頃は、毎日のように一緒だったのにね」
「そうだったな」
高雄は少しだけ遠くを見るような目をした。
「美幸、あの頃は毎朝、俺ん家まで迎えに来てただろ」
「……そうだっけ?」
「覚えてないのかよ」
「だって、子供の頃のことでしょ」
「俺は覚えてるけどな」
「何を?」
「美幸がいつも寝癖つけたまま来てたこと」
「そんな、はしたない姿は見せてません」
「いいや、あったね。あと、ランドセルの横にキーホルダーいっぱい付けてた」
「それはあった……かも」
「で、走るたびにジャラジャラ鳴ってた」
「もういいって」
また笑い声が漏れた。
高雄も笑っている。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
家に帰れば、母がいる。
兄のことも、父のことも、考えなければならない。
昨日までの私は、そればかりを考えていた。
だからだろうか。
今こうして高雄と歩いている時間が、妙に大切なものに思えた。
「なあ、美幸」
「ん?」
「高校卒業したら、どうするんだ?」
「……まだ決めてない」
「大学は?」
「行けたら行きたいけど……お金、かかるから」
口にした途端、自分でも少し嫌な気持ちになった。
高雄は何も言わなかった。
ただ、しばらく歩いてから、ぽつりと呟いた。
「そっか」
「うん」
「美幸なら、どこでも行けると思うけどな」
「何それ」
「そのままの意味」
私は返事をしなかった。
代わりに、前を向いた。
冬の空は相変わらず薄い。



