ドーナツ屋のバイトが終わり、ロッカーの扉を閉めたところで、先輩の菊池が、いつものようにレジの奥でエプロンを外しながら声をかけてきた。甘ったるい空間で作業することには慣れてきたが、この人だけは、どうも苦手だった。
別に、嫌いというわけではない。
仕事はできるし、後輩の面倒見もいい。私がミスをしたときには、店長に見つかる前にさりげなくフォローしてくれることもある。それでも、彼女の特徴的な猫撫で声を聞くたび、どうにも身構えてしまう。相手を探るように、ゆっくりと言葉を選ぶような話し方。その声で名前を呼ばれると、こちらの考えていることまで見透かされているような気がして、落ち着かなかった。
「店長に聞いたよー。シフト、増やしたいんだって?」
「……はい」
振り返ると、菊池はエプロンの紐を解きながら、にこにことこちらを見ていた。
「なになに?そんなにこの仕事、気に入った?」
「そういう訳じゃ……」
「じゃあ、何か欲しいものでもあるの?」
くすくすと笑いながら、菊池が首を傾げる。耳からぶら下がったピアスが、その動きに合わせて小さく揺れた。照明を受けてきらりと光り、そのたびに視線が吸い寄せられる。
私が働いている店は小さく、営業時間中はアルバイト四人と社員一人で回している。人数が少ない分、自然と顔を合わせる機会も多く、誰がどれくらい働いているのかも、何となく把握していた。その中でも、菊池は特に距離が近かった。
閉店後になると、社員はバックヤードに籠もりきりになり、残った二人もゴミ出しへ向かう。気がつけば、店内にいるのは私と菊池だけになっていた。
「最近、結構頑張ってるじゃん。学校もあるのに」
「……まあ」
「偉いねえ」
褒めているはずなのに、その言葉を聞くと、なぜか居心地が悪くなった。曖昧に笑って視線を逸らすと、彼女はおもむろに販売用の箱を手に取った。ケースに並んだドーナツをいくつか選ぶと、まるで慣れた作業を繰り返すように、次々と箱へ詰めていく。本来なら十個しか入らないはずの箱に、ドーナツが潰れてしまいそうなほどぎゅうぎゅうに詰め込み、気づけば十三個も押し込んでいた。
「はい、これ。いつも頑張ってる美幸ちゃんへの賄い。店長には内緒ね」
菊池は、何でもないことのように箱を片手で差し出してきた。受け取った瞬間、思わず腕が沈む。見た目からは想像していなかった重さに、わずかに眉を寄せた。
「……結構、入ってますね」
「どうせ今日中に売れ残ったら廃棄なんだから、いいの。美味しそうなのに、捨てちゃうのも勿体無いでしょ?」
悪びれる様子もなく笑う菊池が、なぜか私の顔をじっと見ていた。私は曖昧に笑いながら、もう一度、腕の中の箱へ視線を落とす。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
勤怠を切って外に出ると、空は灰色で覆いつくされていた。今にも雪が降り出しそうな空だった。吐いた息が白く滲む。両手で抱えたドーナツの箱が思った以上に重くて、私は持ち直すように腕へ力を込めた。
十三個はどう考えても、一人で食べる量ではない。
「……どうしよう、これ」
独り言を呟いてから、少しだけ笑った。母は甘いものを食べるだろうか。そう考えて、すぐに思い直す。
最近の母は、何を食べたいのか尋ねても、首を横に振ることのほうが多かった。食卓に料理を並べても、箸をつけない日もある。それでも、持って帰れば喜ぶかもしれない。
昔は、甘いものが好きだった。
父が仕事帰りにケーキを買ってきた日は、母も珍しく嬉しそうに笑っていた。私と悠馬がどちらを先に選ぶかで揉めていると、「半分こにすればいいでしょ」と呆れたように言いながら、自分の分まで分けてくれた。あの頃のように、一緒に食べれば、少しは元気を取り戻してくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、ドーナツの詰まった箱が潰れないよう両腕で抱えながら、点滅する横断歩道を小走りで渡りきり、そのまま真っ直ぐ歩いていく。
道の先にある公園が見えてきた。幼い頃、悠馬と何度も遊んだ公園だ。けれど、そこに並んでいた遊具は、いつの間にか少しずつ姿を消していた。古びたブランコも、塗装の剥がれた滑り台も、もうなくなっている。
見慣れたはずの公園が、少しずつ知らない場所へ変わっていくような気がした。そんな寂しさを覚えながら、私は公園へ目を向ける。すると、まだ撤去されずに残っているブランコに、誰かが座っているのが見えた。
こんな時間に、誰だろう。そう思って目を凝らすと、街灯に照らされた横顔を見て、私は足を止めた。
母だった。
街灯の明かりが届くのは、ブランコの周囲だけで、公園の奥は暗く、木々の枝が風に揺れるたび、地面に落ちた影もゆっくりと形を変えている。不気味で近寄りがたい場所に母は、何もせずに座っていた。ブランコを漕ぐわけでもない。誰かを待っているように辺りを見回すわけでもない。ただ、両手を膝の上に置いて、俯いている。
「……お母さん?」
声をかけると、母の肩が小さく揺れた。私は抱えていたドーナツの箱を持ち直す。冷たい空気のせいなのか、それとも別の理由なのか、指先が妙に震えている。
どうして、ここにいるの。そう尋ねようとして、やめた。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。それでも、家に一人で残してきたはずの母が、こんな時間にこんな場所にいる。それを見つけてしまった以上、そのまま帰ることもできない。私はゆっくりと公園の中へ足を踏み入れた。
靴底が乾いた砂を踏むと、ざり、と音がした。その音で、ようやく母を見て、私の心臓が暗闇の公園に響き渡りそうなほどの大きな音を鳴らせた。
「……なに。その姿」
今朝に見た母とは別人なほどに”綺麗な”外見をしていた。母の髪はもっと枝毛が多かったはずだ。毛先はいつも乾いていて、指を通せば途中で引っかかるのに、本人はそれを気にする素振りもなく、いつも適当に後ろで束ねていた。けれど、目の前にいる母の髪は、艶のある黒髪。白髪もない。一本一本が、妙に整っている。
「……美幸?」
母は私の顔を見ると、ほんの少しだけ目を見開いた。そしてすぐ、足元に置かれたブランド品のバッグから白いハンカチを取り出して目元を拭った。
何気ない仕草だった。けれど、そのバッグも、ハンカチも、私には見覚えがなかった。ペディキュアが塗られた爪を覗かせる指で握ったハンカチを膝の上へ丁寧に置くと、母はゆっくりと唇を動かした。
「……これで博司さん、戻って来てくれるかな」
その言葉に、胸の奥がざわついたが、それ以上に気になったのは、母が身につけているものだった。
「……それ、どうしたの?」
思わず、母の姿を上から下まで眺める。丁寧に施された化粧に、首元には街灯の光を受けて煌めくネックレス。身に纏っているのは、見覚えのない淡い色のワンピースに、足元には高級そうな靴を履いている。微かだが、香水の匂いもした。どれも、今の私たちの生活には似つかわしくないものばかりだ。
まるで、昔の母だった。父とまだ一緒に暮らしていた頃、母はこんな格好をしていた。
「お母さん……お金、どうしたの?」
震えた声で尋ねても、母は何も答えない。
「こんなものを買えるお金、どこにあったの?」
もう一度尋ねたが、母は黙ったまま、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめている。その指先には、今朝までなかったはずの小さな傷がいくつか見えた。赤くなった皮膚の隙間に、薄く血が滲んでいる。
「……お母さん?」
呼びかけても、母は俯いたままだった。風が吹いて、木々の枝がざわざわと揺らし、街灯の明かりが不規則に地面を照らす。そのたびに母の顔にも影が落ちて、表情が見えたり、見えなくなったりした。
やがて私は、母の膝の上に置かれた白いハンカチを見つめながら、ふとあることに思い至った。気づけば、その言葉は口からこぼれていた。
「……もしかして使ったの?通帳に入ってたお金」
すぐには答えい代わりに、私の顔を見た。まるで責められている子供が親の顔色を窺うような目で。その目を見ていると、抱えていた箱が指先からへこんでいくのが分かった。ぎゅ、と力を込めていたらしい。箱の中で、ドーナツ同士が押しつぶされている気配がした。
「ねえ、答えてよ。使ったの?探しても見つからないと思ったら、お母さんが隠し持っていたの?あのお金の中には、お父さんからの仕送り以外にも私のお給料だって入ってるんだよ?ねえ。ちゃんと答えて」
自分でも驚くほど、早口になっていた。しかし、言葉にしてしまえば、ずっと溜め込んでいたものが、次から次へと溢れてくる。
「私だって、好きで働いてるわけじゃないんだから。学校が終わったらバイトに行って、帰ってきたらご飯作って、洗濯して、お母さんを病院まで連れてって、薬も確認して、それで足りない分はどうしようって毎日考えてる。なのに……」
なのに、どうして勝手に使うの。そう言いかけた言葉が喉に詰まった。目の前で、母が肩を小刻みに震わせながら、声を押し殺すように泣いていたからだ。嗚咽のたびに肩がひくつき、そのたびに、握りしめた手も小さく震えている。責める言葉はいくらでも浮かんだ。それなのに、母の泣いている姿を見ていると、そのどれも口にできなかった。ここで責めてしまったら、本当に母を一人にしてしまうような気がした。
美幸は唇を噛んだ。
さっきまであれほど腹が立っていたのに、今はその怒りをどこに向ければいいのか分からない。
「……なさい……ごめ……なさい」
途切れ途切れの、蚊の鳴くような声だった。気がつくと、鞄もドーナツの入った箱も、投げ捨てていた私は、何も言わず母の身体を抱きしめていた。腕の中で、小さな肩が震えている。不規則に上下する背中を、ゆっくりと何度も撫でる。
「……うん。大丈夫だよ」
自分でも可笑しくなるほどその声が震えていた。母を安心させるつもりだったのに、いちばん不安そうな声をしているのは、自分だった。
「大丈夫、大丈夫。私の方こそ怒鳴ってごめんね……お母さんも辛かったんだよね」
別に、嫌いというわけではない。
仕事はできるし、後輩の面倒見もいい。私がミスをしたときには、店長に見つかる前にさりげなくフォローしてくれることもある。それでも、彼女の特徴的な猫撫で声を聞くたび、どうにも身構えてしまう。相手を探るように、ゆっくりと言葉を選ぶような話し方。その声で名前を呼ばれると、こちらの考えていることまで見透かされているような気がして、落ち着かなかった。
「店長に聞いたよー。シフト、増やしたいんだって?」
「……はい」
振り返ると、菊池はエプロンの紐を解きながら、にこにことこちらを見ていた。
「なになに?そんなにこの仕事、気に入った?」
「そういう訳じゃ……」
「じゃあ、何か欲しいものでもあるの?」
くすくすと笑いながら、菊池が首を傾げる。耳からぶら下がったピアスが、その動きに合わせて小さく揺れた。照明を受けてきらりと光り、そのたびに視線が吸い寄せられる。
私が働いている店は小さく、営業時間中はアルバイト四人と社員一人で回している。人数が少ない分、自然と顔を合わせる機会も多く、誰がどれくらい働いているのかも、何となく把握していた。その中でも、菊池は特に距離が近かった。
閉店後になると、社員はバックヤードに籠もりきりになり、残った二人もゴミ出しへ向かう。気がつけば、店内にいるのは私と菊池だけになっていた。
「最近、結構頑張ってるじゃん。学校もあるのに」
「……まあ」
「偉いねえ」
褒めているはずなのに、その言葉を聞くと、なぜか居心地が悪くなった。曖昧に笑って視線を逸らすと、彼女はおもむろに販売用の箱を手に取った。ケースに並んだドーナツをいくつか選ぶと、まるで慣れた作業を繰り返すように、次々と箱へ詰めていく。本来なら十個しか入らないはずの箱に、ドーナツが潰れてしまいそうなほどぎゅうぎゅうに詰め込み、気づけば十三個も押し込んでいた。
「はい、これ。いつも頑張ってる美幸ちゃんへの賄い。店長には内緒ね」
菊池は、何でもないことのように箱を片手で差し出してきた。受け取った瞬間、思わず腕が沈む。見た目からは想像していなかった重さに、わずかに眉を寄せた。
「……結構、入ってますね」
「どうせ今日中に売れ残ったら廃棄なんだから、いいの。美味しそうなのに、捨てちゃうのも勿体無いでしょ?」
悪びれる様子もなく笑う菊池が、なぜか私の顔をじっと見ていた。私は曖昧に笑いながら、もう一度、腕の中の箱へ視線を落とす。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
勤怠を切って外に出ると、空は灰色で覆いつくされていた。今にも雪が降り出しそうな空だった。吐いた息が白く滲む。両手で抱えたドーナツの箱が思った以上に重くて、私は持ち直すように腕へ力を込めた。
十三個はどう考えても、一人で食べる量ではない。
「……どうしよう、これ」
独り言を呟いてから、少しだけ笑った。母は甘いものを食べるだろうか。そう考えて、すぐに思い直す。
最近の母は、何を食べたいのか尋ねても、首を横に振ることのほうが多かった。食卓に料理を並べても、箸をつけない日もある。それでも、持って帰れば喜ぶかもしれない。
昔は、甘いものが好きだった。
父が仕事帰りにケーキを買ってきた日は、母も珍しく嬉しそうに笑っていた。私と悠馬がどちらを先に選ぶかで揉めていると、「半分こにすればいいでしょ」と呆れたように言いながら、自分の分まで分けてくれた。あの頃のように、一緒に食べれば、少しは元気を取り戻してくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、ドーナツの詰まった箱が潰れないよう両腕で抱えながら、点滅する横断歩道を小走りで渡りきり、そのまま真っ直ぐ歩いていく。
道の先にある公園が見えてきた。幼い頃、悠馬と何度も遊んだ公園だ。けれど、そこに並んでいた遊具は、いつの間にか少しずつ姿を消していた。古びたブランコも、塗装の剥がれた滑り台も、もうなくなっている。
見慣れたはずの公園が、少しずつ知らない場所へ変わっていくような気がした。そんな寂しさを覚えながら、私は公園へ目を向ける。すると、まだ撤去されずに残っているブランコに、誰かが座っているのが見えた。
こんな時間に、誰だろう。そう思って目を凝らすと、街灯に照らされた横顔を見て、私は足を止めた。
母だった。
街灯の明かりが届くのは、ブランコの周囲だけで、公園の奥は暗く、木々の枝が風に揺れるたび、地面に落ちた影もゆっくりと形を変えている。不気味で近寄りがたい場所に母は、何もせずに座っていた。ブランコを漕ぐわけでもない。誰かを待っているように辺りを見回すわけでもない。ただ、両手を膝の上に置いて、俯いている。
「……お母さん?」
声をかけると、母の肩が小さく揺れた。私は抱えていたドーナツの箱を持ち直す。冷たい空気のせいなのか、それとも別の理由なのか、指先が妙に震えている。
どうして、ここにいるの。そう尋ねようとして、やめた。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。それでも、家に一人で残してきたはずの母が、こんな時間にこんな場所にいる。それを見つけてしまった以上、そのまま帰ることもできない。私はゆっくりと公園の中へ足を踏み入れた。
靴底が乾いた砂を踏むと、ざり、と音がした。その音で、ようやく母を見て、私の心臓が暗闇の公園に響き渡りそうなほどの大きな音を鳴らせた。
「……なに。その姿」
今朝に見た母とは別人なほどに”綺麗な”外見をしていた。母の髪はもっと枝毛が多かったはずだ。毛先はいつも乾いていて、指を通せば途中で引っかかるのに、本人はそれを気にする素振りもなく、いつも適当に後ろで束ねていた。けれど、目の前にいる母の髪は、艶のある黒髪。白髪もない。一本一本が、妙に整っている。
「……美幸?」
母は私の顔を見ると、ほんの少しだけ目を見開いた。そしてすぐ、足元に置かれたブランド品のバッグから白いハンカチを取り出して目元を拭った。
何気ない仕草だった。けれど、そのバッグも、ハンカチも、私には見覚えがなかった。ペディキュアが塗られた爪を覗かせる指で握ったハンカチを膝の上へ丁寧に置くと、母はゆっくりと唇を動かした。
「……これで博司さん、戻って来てくれるかな」
その言葉に、胸の奥がざわついたが、それ以上に気になったのは、母が身につけているものだった。
「……それ、どうしたの?」
思わず、母の姿を上から下まで眺める。丁寧に施された化粧に、首元には街灯の光を受けて煌めくネックレス。身に纏っているのは、見覚えのない淡い色のワンピースに、足元には高級そうな靴を履いている。微かだが、香水の匂いもした。どれも、今の私たちの生活には似つかわしくないものばかりだ。
まるで、昔の母だった。父とまだ一緒に暮らしていた頃、母はこんな格好をしていた。
「お母さん……お金、どうしたの?」
震えた声で尋ねても、母は何も答えない。
「こんなものを買えるお金、どこにあったの?」
もう一度尋ねたが、母は黙ったまま、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめている。その指先には、今朝までなかったはずの小さな傷がいくつか見えた。赤くなった皮膚の隙間に、薄く血が滲んでいる。
「……お母さん?」
呼びかけても、母は俯いたままだった。風が吹いて、木々の枝がざわざわと揺らし、街灯の明かりが不規則に地面を照らす。そのたびに母の顔にも影が落ちて、表情が見えたり、見えなくなったりした。
やがて私は、母の膝の上に置かれた白いハンカチを見つめながら、ふとあることに思い至った。気づけば、その言葉は口からこぼれていた。
「……もしかして使ったの?通帳に入ってたお金」
すぐには答えい代わりに、私の顔を見た。まるで責められている子供が親の顔色を窺うような目で。その目を見ていると、抱えていた箱が指先からへこんでいくのが分かった。ぎゅ、と力を込めていたらしい。箱の中で、ドーナツ同士が押しつぶされている気配がした。
「ねえ、答えてよ。使ったの?探しても見つからないと思ったら、お母さんが隠し持っていたの?あのお金の中には、お父さんからの仕送り以外にも私のお給料だって入ってるんだよ?ねえ。ちゃんと答えて」
自分でも驚くほど、早口になっていた。しかし、言葉にしてしまえば、ずっと溜め込んでいたものが、次から次へと溢れてくる。
「私だって、好きで働いてるわけじゃないんだから。学校が終わったらバイトに行って、帰ってきたらご飯作って、洗濯して、お母さんを病院まで連れてって、薬も確認して、それで足りない分はどうしようって毎日考えてる。なのに……」
なのに、どうして勝手に使うの。そう言いかけた言葉が喉に詰まった。目の前で、母が肩を小刻みに震わせながら、声を押し殺すように泣いていたからだ。嗚咽のたびに肩がひくつき、そのたびに、握りしめた手も小さく震えている。責める言葉はいくらでも浮かんだ。それなのに、母の泣いている姿を見ていると、そのどれも口にできなかった。ここで責めてしまったら、本当に母を一人にしてしまうような気がした。
美幸は唇を噛んだ。
さっきまであれほど腹が立っていたのに、今はその怒りをどこに向ければいいのか分からない。
「……なさい……ごめ……なさい」
途切れ途切れの、蚊の鳴くような声だった。気がつくと、鞄もドーナツの入った箱も、投げ捨てていた私は、何も言わず母の身体を抱きしめていた。腕の中で、小さな肩が震えている。不規則に上下する背中を、ゆっくりと何度も撫でる。
「……うん。大丈夫だよ」
自分でも可笑しくなるほどその声が震えていた。母を安心させるつもりだったのに、いちばん不安そうな声をしているのは、自分だった。
「大丈夫、大丈夫。私の方こそ怒鳴ってごめんね……お母さんも辛かったんだよね」



