十八から二十一へ

 うなぎパイを頬張る千恵子(ちえこ)を横目に、私は店長へ送った「シフトを増やせないか」という相談メールの返信を待っていた。千恵子は何も知らない顔で、二枚目のうなぎパイを袋から取り出している。ぱり、と乾いた音がして、甘い香りがこちらまで漂ってきた。これは、先ほど昼休みのチャイムが鳴った途端、高雄(たかお)から、バドミントン部の合同合宿で静岡県浜松市まで行ってきたらしく、「よかったら食べて」と渡されたのだ。その「よかったら」が、まさか千恵子の胃袋に収まることになるとは、本人も想定していなかっただろう。こちらの許可など気にする様子もなく、当然のように手を伸ばしているあたり、土産をもらった私よりも、ずっと嬉しそうである。
「浜松といえば、やっぱりこれでしょ」と言って笑った高雄の顔を思い出す。けれど私は、目の前のうなぎパイよりも、スマートフォンの画面に表示された「店長」の文字ばかりを気にしていた。
「これ、ほんとおいしいね」
「……私へのお土産なんだけど」
「知ってる」
 悪びれる様子もなく、千恵子は三枚目に手を伸ばした。そしてまた、ぱり、と小気味よい音を立ててかじりつく。口いっぱいにうなぎパイを詰め込みながら、満足そうに頬を膨らませている。
 苦笑いを浮かべながら、スマートフォンの画面へ目を落とす。そこでふと、表示された日付が目に留まる。三浦から電話があったあの日から、もう一週間が経っていた。
 あの日、神奈川警察署に着いたのは、二十二時を過ぎた頃だった。
 請求書と財布を持ってコンビニへ向かい、支払いと二人分の弁当を購入して、母と夕食を囲んだ。箸を動かしながら、悠馬のことを、どうやって知らせようかと考えていた。食事中ならば、母も冷静さを保てるかもしれない。少なくとも何も食べていない状態で話すよりは、いくらか落ち着いて話し合えるような気がした。けれど、実際に口にしてみると、そんな私の考えはあっけなく打ち砕かれた。
 悠馬の逮捕を告げた瞬間、母は口を開けたまま、ぴたりと動きを止めた。箸でつまんでいた唐揚げが、力を失った指先からぽとりと落ちる。茶色い衣が畳の上でかすかな音を立てて崩れていく。その様子を、ただ黙って見つめていた。
 すると突然、母は発情期の猫みたいな、耳を塞ぎたくなる甲高い悲鳴を上げて泣き出してしまった。
 「……またか」と、そう思った。
 何かを訴えるように口を開いているのに、そこから出てくるのは意味のある言葉ではなかった。喉の奥を震わせるような声を何度も繰り返し、両手で頭を抱えながら、畳の上にうずくまっていく。
「大丈夫。大丈夫だから。お母さんは何も悪くない。私が何とかするから。ね?だから、落ち着いて」
 あわあわ嘆く母を宥めるのに一時間はかかったと思う。途中から何を話したのか、よく覚えていない。
 同じ言葉を何度も繰り返した。母が泣くたびに背中をさすり、母が何かを呟くたびに「うん」と頷いた。
 それだけだった。母は、私の言葉を聞いているのかいないのか、時折小さく首を振ったり、突然「ごめんなさい」と呟いたりした。誰に謝っているのかは、最後まで分からなかった。気がつけば、テーブルの上の弁当はすっかり冷めていた。
 精神科病院から貰った内服薬を飲ませ、母が寝るのを見届けてから、母の弟である正明(まさあき)に電話を掛けた。
 正明は、母とは二つ違いの弟だった。昔から家族の中では、比較的母と仲が良かったらしい。父と母が離婚してからも、何度か家に顔を出してくれていた。ただ、母の状態が悪くなってからは、母自身が会うことを嫌がるようになり、最近では電話で話すことさえほとんどなくなっていた。それでも、こういうときに頼れる人間は正明しか思いつかなかった。
 呼び出し音が三回鳴ったところで、電話が繋がり、矢継ぎ早に一通りの説明し終えると、正明は「分かった」と返してくれた。
 正明が来てくれる。それだけで少し安心した。やがて窓の外に、白いルークルが停まるのが見えた。私はほとんど反射的に立ち上がると、鞄を持つことも忘れ、そのまま玄関へ駆け出した。運転席に座る正明の横顔を覗き込むようにして近づくと、私に気づいた正明が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。その見慣れた顔を目にした途端、息を呑んだ。正明は、今までに見たこともないほど険しい顔をしていた。
 怯みそうになりながらも、無理やり笑顔を張りつけて、「ありがとう」と声をかけて車に乗り込んだ。みるみるうちに小さくなっていく自分の家をサイドミラー越しに見送りながら、もし母が夜中に起きてしまい、家に私がいないことに気づいたら――。そんな考えが頭を過った。けれど、それ以上に気になったのは、正明が一度も母の容態を尋ねてこないことだった。自分の姉が精神的に不安定な状態だというのに、心配や不安を口にするどころか、「大丈夫なのか」とさえ聞いてこない。まるで、母が今どんな状態なのか、興味がないみたいに、正明は黙って前を見ていた。
 車内にこもった暖房と、灰皿から漂う煙草の臭いに少し酔った。外気に冷やされた窓ガラスへ頭をもたせかける。ひやりとした冷たさが額に伝わり、火照った頭を静かに冷ましてくれた。それがちょうどいい保冷剤のように感じられた。
 警察署に着いてからの記憶は、ひどく曖昧だった。初めて訪れる場所なのだから、建物の大きさや中の様子くらい覚えていてもよさそうなのに、不思議なくらい何も思い出せない。そこへ入ったことだけは分かっている。眠気と酔いのせいだったのか、それとも、警察とのやり取りをすべて正明に任せてしまったせいなのか。そのとき自分が何を見て、何を考えていたのかは、まるで最初から存在しなかったかのように、すっぽりと記憶から抜け落ちていた。
 ただ、帰宅した深夜、床に散らばった食器の破片は、今でもはっきり思い出せる。
 騒がしくなり始めた教室の様子に、間もなく昼休みが終わるのだと気づき、私は店長からの連絡を待つのを諦めた。スマートフォンを伏せ、高雄から貰ったうなぎパイに手を伸ばす。封を開け、何気なく一枚を口に含んだ。
「確かに、美味しいね」
「でしょ。美幸の彼氏に感謝だね」
「だから彼氏じゃないって。ただの幼馴染。まさか、いきなり帰ってくるなんて思わなかったよ」
「はいはい。幼馴染ねえ」
 意味ありげに口元を緩めた千恵子の薄い唇の隙間から、白い八重歯がちらりと覗く。何か特別なことでも考えているのではないかと、私は思わず勘ぐってしまう。
「千恵子はどうなの?彼氏とかいらないって言ってたけど」
「それがさ、ちょっといい人見つけちゃったの」
「うそ。誰?」
「食いつくねえ」
「だって、初耳なんだけど」
「そりゃ言ってないもん」
 千恵子はよく喋るし、よく笑う。そのくせ、自分のことになると、肝心なところだけ妙に口が固い。思ったことをそのまま口にするところもあるけれど、こちらが嫌がる一線だけは、不思議なくらい正確に避けてくれる。上手い相槌ができなくても、気の利いた言葉を返せなくても、千恵子は気にしなかった。私が何かを話せば、ただ「うん」と頷いて聞いてくれる。話したくないことには、こちらが言葉を濁した時点で、それ以上は聞いてこない。
 だから、千恵子といると楽だった。
 無理に笑わなくてもいいし、沈黙が続いても気まずくならない。何かを話さなければと思わなくても、隣にいてくれるだけで、それで十分だった。家に帰れば、母のことや生活のことを考えなければならないけれど、千恵子と一緒にいる間だけは、そういうことを忘れていられた。そんな彼女と三年間も共に学校生活を送っていれば、好きな食べ物も、苦手な教科も、性格も、どんな男の子が好みなのかも、何となく分かる。
「同じ学校?」
「うん」
「同じ学年?」
「まあね」
「誰?」
「それはまだ秘密」
「なんでよ」
「だって、まだどうなるか分かんないし……。彼ね、伯父さんがやってる岐阜のお店に、板前修業もかねて就職するんだって」
 肩をすくめた千恵子の仕草が妙に可愛らしくて、私は思わず笑ってしまう。いつもなら、人のことを散々からかって笑っているくせに、自分のことになると、こんなにも分かりやすくなる。嬉しいのを隠したいのに隠しきれていない。恋をした女の子は、こんなにも素直で、こんなにも可愛らしくなるものなのだろうか。
「なに笑ってんの?」
「え?」
「なんか、楽しそうじゃん」
「別にー?」
「高雄もさ、進学じゃなくて就職にするんだって」
 千恵子が何気なく口にしたその名前を聞いた途端、さっきまで千恵子の恋の話に向いていた意識が、ほんの少しだけ別のところへ引っ張られた。
「え、高雄、就職するの?」
 思わず聞き返してから、少しだけ可笑しくなる。千恵子が話しているのは、ただのクラスメイトの進路の話だ。それなのに、高雄の名前を聞いただけで、どうしてこんなに気になったのだろう。
「うん。なんか、前から決めてたみたい。本人が話してるの聞いたから間違いない」
 千恵子はそう言って、残ったうなぎパイを袋の中から覗き込んだ。つられて私も覗き込むと、うなぎパイは残り一つだった。