17から18

 郵便受けを開けると、幾つもの請求書が、まるでこちらの帰りを待ち構えていたかのように顔を覗かせていた。一枚、また一枚と取り出すたび、胸の奥から溜息がこぼれる。家賃、電気、水道、カードの支払い――どれも見慣れた宛名と金額ばかりなのに、今月だけは妙に重く感じられた。
 私は最後の一枚を抜き取り、しばらく郵便受けの中を隅々まで覗き込んでいた。
 もう何もない。
 それを確かめてから、鍵を取り出した。冷たい鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。ガチャ、と乾いた音がした。
 玄関を開けると、冷蔵庫が、壁の向こうから聞こえてくる遠い機械音のように低く唸っていた。電気は点いている。蛇口をひねれば水も出る。今日のところは、それで十分だった。風呂に湯を張れば、この冬の寒さにすっかり冷えた身体も、少しは元に戻るだろう。
 そう思うと、張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
 ローファーを脱ぎ、軋む廊下を進んで、鞄を下ろす。リビングから襖一枚隔てた母の部屋を見ると、扉は閉まっていた。いつもなら、帰ってきたことを知らせるために声をかける。けれど今日は、なぜかすぐには声が出なかった。
 眠っているのか。起きているのか。それとも、また何も聞こえないふりをしているのか。私はしばらく立ったまま、閉じた扉を見つめていた。
 昨夜の母は、ひどく荒れていた。珍しく台所に立ち、料理をしている姿を見て、私は少し嬉しくなった。鍋から立ちのぼる湯気も、包丁がまな板を叩く音も、久しぶりに見る母の背中も、何もかもが懐かしかった。今日は、少し違うのかもしれない。そんなことを思った。だから、後ろからそっと覗き込んで、「何作ってるの?」と声をかけた。
 しかし、母は振り返らなかった。代わりに、包丁を握る手が止まった。その瞬間、胸の奥で膨らんでいた小さな期待が、音もなく萎んでいくのが分かった。
 母はしばらく黙ったあと、低い声で何かを呟いた。聞き取れなかった。聞き返すこともできなかった。ただ、握られた包丁だけが、妙にはっきりと目に焼きついていた。
 いったい、何がいけなかったのだろう。
 声をかけたことだろうか。
 帰ってきたことだろうか。
 それとも、嬉しそうに母の背中を見ていたことさえ、いけなかったのだろうか。
 床に散らかった皿の破片をひとつずつ拾い集めながら考えていると、指先に触れた欠片が薄皮を裂いた。痛い、と感じるより先に、母に見られていないことにほっとした。
 私はただ、久しぶりに母が料理をしているのが嬉しかっただけだった。
 それだけだったはずなのに。
 どうして、あんなことになったのだろう。
 絆創膏を貼った指先に触れる。その痛みで、ようやく現実に引き戻された。小さく息を吸う。
「……ただいま」
 返事はなかった。もう一度、今度は少しだけ声を張る。
「ただいま、お母さん」
「……ああ、美幸(みゆき)?お帰りなさい」
 衣擦れの音と共に、酒焼けしたような、ひどく掠れた声が返ってきた。真夜中に突然、ヒステリックに叫びながら何枚もの皿を叩き割っていたせいか、その声にはまだ昨夜の名残があった。
「ねえ。夕飯の買い出しと、電気とか水道代の支払いに行きたいんだけど、通帳ってどこに仕舞ったの?今日って確か、お父さんからの仕送りがある日だよね?」
 通帳の場所を尋ねただけなのに、扉の向こうからは返事ではなく、「博司さん」と囁くような声が聞こえてくるだけだった。
 半年前に離婚して以来、母は時々、こうして父の名前を口にするようになった。精神の均衡を欠いている今の母に、何を聞いても、きっとまともな答えは返ってこない。母だって、きっと苦しいのだ。
 溜息だけを残して扉から離れ、冷蔵庫を開けると、中にはタッパーに詰まった残り物と、飲みかけのペットボトル、賞味期限の近い牛乳、それから卵が数個あるだけだった。夕飯には少し足りない。やっぱり、買い物には行かなければならない。
 冷蔵庫の明かりに照らされた食材をぼんやり眺めながら、今日の夕飯を考えていると、カレンダーの下にある電話が鳴った。
 突然の着信に、私は少しだけ肩を震わせた。こんな時間に電話がかかってくることなど、ほとんどない。
 冷蔵庫の扉を閉め、受話器を取る。
「もしもし」
『突然のお電話、申し訳ありません。神奈川警察の三浦(みうら)と言う者ですが、曾根田悠馬(そねだゆうま)さんのご自宅で間違いないでしょうか?』
 受話器から聞こえてきたのその声は、警察からの電話とは思えないほど穏やかで、まだ若そうな女性の声だった。
「……はい」
『悠馬さんとは、どのようなご関係でしょうか?』
「私の兄ですけど……」
 そう答えると、電話の向こうで短い沈黙があった。
『そうですか。実は先ほど、悠馬さんを痴漢の現行犯で逮捕しまして』
「……え?逮捕……?」
 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
『はい。現在、警察署で事情を確認しております。ご家族の方にご連絡を差し上げた次第です。申し訳ありませんが署までお越しいただきたいのですが、お父様かお母様はご在宅でしょうか』
「えっとー……」
 何を答えればいいのか分からず、私は助けを求めるように母のいる部屋へ視線を向けた。けれど、襖はいつまで経っても開かない。その向こうからは何の気配もなく、ただ静かに閉ざされたままだった。頼りたいのに、頼ることすらできない。そんなやり場のない苛立ちを押し殺しながら、私は口を開いた。
「すみません。母はまだ仕事から帰ってきていなくて……。後でかけ直してもいいですか?」
 渋るようにうなった三浦だったが、