消したい人が、写真の中で笑っている

 三月一日。卒業式の朝は、よく晴れていた。空は雲一つなく澄み渡り、校門の桜のつぼみが、まだ固いまま朝日を受けて光っていた。

 体育館での式典が終わり、三年生の教室や廊下には、いつもより騒がしい空気が漂っていた。三年生にとっては、最後の登校日だ。志緒里先輩のクラスも、あちこちで写真を撮り合う生徒たちで賑わっていた。廊下には、卒業証書の筒を大事そうに抱えた生徒たちが名残惜しそうに行き交っていた。
 写真部の部室には、私と日向がいた。机の上には、完成したばかりの卒業アルバムが届いていた。
写真部にとっては、業者と一緒に作り上げた一年間の活動の集大成でもある。完成したアルバムは毎年、資料用として一冊が部にも贈られ、部室に保管されていた。
「できましたね」
 日向が、感慨深そうに分厚いアルバムを手に取った。表紙には、今年度の学校行事を象徴する一枚が使われている。その重みを確かめるように、日向は両手で丁寧に持ち上げていた。 
私たちは、ページをめくりながら部活動のページを確認した。
写真部の欄には、業者が撮った三年生部員の公式写真の横に、志緒里先輩が風景写真を並べている一枚も載っていた。
 写真の中の志緒里先輩は、どこか肩の力が抜けたように見えた。
「これ……」
 私はその写真の撮影者の名前を確認した。
 ちょうどそのとき、志緒里先輩が部室に入ってきた。卒業式用の制服姿で、いつもより少しだけ、緊張した面持ちをしている。胸元のコサージュが、窓からの光を受けて、淡く色づいていた。
「先輩、これ」 
 私は、部活動のページを開いて見せた。志緒里先輩はその写真を見て、少し照れくさそうな表情を浮かべた。
「葵が撮ったの。撮られたのは分かってたけど、まさかこれを卒アルに載せることになるとは思わなかった」
「そうだったんですか」
「自分の過去を知ってる人に撮られた写真って、なんか、変な感じ」
「嫌でしたか?」
「ううん」
 志緒里先輩は、ゆっくりと首を横に振った。その仕草には、これまでのどこか身構えたような硬さが、もうなかった。
「悪くないな、って思った」
 まだ完全に受け入れられたわけではないのかもしれない。
 それでも、志緒里先輩の横顔に差し込む光は、その表情をいつもより穏やかに照らしていた。

 その日の午後になると、部活動のため登校してくる一、二年生も増えてきた。
窓の外では、学校に残っている卒業生たちの声が、あちこちから聞こえていた。
志緒里先輩も、名残を惜しむようにまだ写真部の部室にいた。
私は美冬とも顔を合わせた。美冬は鞄から一枚の写真を取り出して、私に見せてくれた。 
「これ、まだ持ってます」
 それは以前、元親友と一緒に写っていた写真だった。今は、隣にいたはずの少女の姿は戻っていない。写真の中には、美冬一人だけが少し不自然な構図で写っている。指先が、その空白の部分をそっとなぞるように動いていた。
「写真の中の姿は、戻らないんですね」
「うん」
 私はゆっくりと頷いた。フィルの言葉通り、一度消えたものは、完全には元へは戻らない。その事実の重さを、私は今もはっきりと胸に刻んでいた。
「でも」
 美冬は写真をひっくり返し、裏面を見せてくれた。そこには丁寧な字で、消す前の自分が書いた相手の名前と、好きだった本の題名が記されていた。
「これだけは、消える前に書いておいたので」
 その字は、少し震えているようにも見えたが、確かに、消される前の美冬の意思がそこに刻まれていた。当時の緊張や不安までもが、その筆跡の乱れの中に残されているようだった。
「捨てずに、持っておくつもりです」
 美冬は写真をそっと鞄にしまった。相手を再び好きになる必要はない。ただ、その出会いによって生まれた自分の一部を、大切に残しておく。美冬なりの答えの形だった。その表情には、以前のような曇りはなく確かな落ち着きだけがあった。
               ☆
 廊下で、遥人にも会った。遥人は以前よりも落ち着いた表情をしていた。
「十倉」
 遥人は私を見つけると、少し緊張した様子で近づいてきた。
「もう一度、謝りたくて」
「知ってる」
 私は、遥人の記事のことを思い出しながら答えた。あの校内新聞の記事は、多くの生徒に読まれ、噂話について考えさせる内容として話題になっていた。
「まだ、許したとは言わない」
 私は、正直にそう告げた。
「でも」
 私は、遥人の目を見て続けた。
「遥人くんが、逃げずに話したことは、忘れない」
 それは、完全な赦しではなかった。だが、遥人の変化を確かに認める言葉だった。遥人は、少し驚いたような表情を見せてから、ゆっくりと頭を下げた。その姿勢には、以前の軽薄さとはまるで違う、確かな誠実さがあった。
「ありがとう」
 その一言だけを残して、遥人は去っていった。廊下の向こうへ歩いていくその背中を、私はしばらく見送っていた。
              ☆
 そのあと、写真部で記念写真を撮ることになった。志緒里先輩を囲んで、一枚残しておこうという話だった。
 部室の窓から差し込む午後の光が、床にゆっくりと長い影を落としている。 
 私は新しく用意したデジタルカメラを構えてみんなを集めた。
「志緒里先輩、真ん中に立ってください」
「はいはい」
 志緒里先輩が少し照れくさそうに、指定された位置に立つ。日向が、その隣に元気よく並んだ。
「久住さんも、一緒に写りませんか」
 日向が、少し離れたところにいた美冬に声をかける。美冬は一瞬迷った様子を見せたが、ゆっくりと頷いてその輪の中に加わった。その一歩が、以前よりずっと軽やかに見えた。
 私はファインダーを覗きながら、輪の外側に立っている紗季の姿に気づいた。
 紗季は写真部の部員ではない。少し離れた場所で、私たちの様子を見守るように立っていた。以前なら、私は気づかないふりをしていたかもしれない。視界の端に映るその姿から、意図的に目を逸らしていたかもしれない。
 だが、今は違った。
「紗季も、入ってよ」
 日向が、私よりも先に紗季へ声をかけた。紗季は驚いたような表情を見せてから、私のほうを見た。
 その視線は、以前のように、私の判断を伺うようなものだった。だが、今回だけは、私自身が、その視線に応えたいと思った。胸の奥に、これまでにない温かさが広がっていくのを感じた。
「早くして」
 私は少し迷ったあと、そう声をかけた。それが精一杯の言葉だった。「一緒に写ろう」でも「戻ってきて」でもない。ただ、今のこの瞬間に一緒にいてほしいという、素直な気持ちだった。
 紗季は、小さく息を吸い込んでから輪の中へ歩み寄ってきた。その足取りには、まだ確信を持ちきれないような、わずかな緊張が見えた。
 だが、私の隣には立たなかった。半歩離れた位置に、そっと立つ。
 まだ、以前と同じ距離ではない。手を伸ばせば届く距離でありながら、確かに、そこには隔たりが残っていた。その半歩の距離が、これまでの一年間の重さを、静かに物語っているようだった。
 それでも、写真の中には確かに紗季が写っている。
「撮ります」
 私はカメラを構え直した。ファインダーの中には、志緒里先輩、日向、美冬、そして、少し離れた位置に立つ紗季の姿が映っていた。指先に、これまでとは違う、穏やかな確かさが宿っているのを感じた。
 その瞬間、部室の隅、壊れて動かなくなった古いカメラの上に、白い羽根が一枚、ふわりと落ちるのが見えた。
 私は思わずそちらへ目を向けた。フィルの姿は、もうどこにも見えなかった。ただ、その羽根だけが、壊れたカメラの表面に横たわっていた。その羽根の色は、これまで見てきたどの瞬間よりも白く見えた。
 私は新しいカメラのファインダーへ、視線を戻した。
 そこに写っているのは、消したい人ではなかった。今の自分が、心から残したいと思える人たちの姿だった。楽しかった記憶も、傷ついた過去も、どちらも含めて、確かに自分の人生を形作ってきた人たち。
 完全に許せたわけではない。以前と同じ関係に戻れるかどうかも、まだ分からない。
 それでも、もう、逃げない。
 私はシャッターへ指をかけた。
 かつて、紗季の姿を黒く塗りつぶそうとした、あの指先とは、まるで違う感触だった。あのときは、消すために震えていた。今は、残すために落ち着いて力を込める。その違いを、指先が確かに覚えていた。
 シャッター音が、部室に響いた。乾いた、けれど、これまでのどの瞬間よりも穏やかな音だった。
「嫌いな人がいたことも、忘れたくない」
 私は心の中でそう呟いた。
 写真の中にはこれからも、傷ついた記憶と大切だった記憶が、同じ場所に並んで残り続けるだろう。それは、決して綺麗に整理された過去ではない。矛盾したまま、割り切れないまま、それでも確かに自分の一部として、これからも私の中に在り続ける。
 卒業式の日の光が、写真部の部室に差し込んでいた。窓の外では、桜のつぼみが春の訪れを待っていた。私たちの物語も、ここで綺麗に終わるわけではない。それでも、少なくとも今この瞬間だけは、確かな光の中にみんなの姿が並んでいた。

             ☆

 四月になり、新入生が入学した。写真部にも、新しい部員が入ってきた。
 私も三年生になり、新しいクラスで、新しい知り合いができた。
 紗季とも、絶交する前のように何でも話せるわけではない。それでも、廊下ですれ違えば言葉を交わし、ときどき一緒に帰ることもある。

 来年の春、私が卒業するころには、誰と卒業アルバムに写っているのだろう。
(了)