カメラの力が止まったあと、少しずつ、消えかけていた写真や記憶が戻り始めた。教室の空気にも、これまでの張り詰めた気配が、少しずつ緩んでいくのが感じられた。
教室では、紗季についての小さな出来事が、また誰かの口から語られるようになった。「そういえば、体育祭のとき、大宮さんが靴紐直してくれたよね」
――そんな会話が、自然に交わされるようになっていく。その一言を耳にするたびに、私は胸の奥で安堵の息をついていた。
だが、フィルが言っていた通り、完全に元通りになったわけではなかった。美冬の元親友との記憶は、完全には戻らないままだった。紗季について忘れられていた出来事の一部も、曖昧なまま、はっきりとは思い出せない部分が残っていた。誰かの記憶の隅に、まだ小さな空白が残り続けているような、そんな不完全さだった。
それでも、紗季という存在は、確かに教室の中に、以前と変わらず存在していた。その事実だけで、じゅうぶんだと思えた。
☆
数日後、私は紗季を放課後の空き教室に呼んだ。二人きりで話すのは、あの渡り廊下以来だった。西日が差し込む教室の中、埃の粒子が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。
「改めて、話したいことがある」
紗季は緊張した面持ちで、私の向かいの席に座った。椅子を引く音が、静かな教室にやけに大きく響いた。
「本当に、ごめんなさい」
紗季は深く頭を下げた。
「否定できなかったこと、その後も嘘だって言えなかったこと、全部」
私はその謝罪を、しばらくの間、黙って聞いていた。頭を下げたままの紗季の背中を、じっと見つめる。
「今、すぐに許せるとは、言えない」
私は正直にそう告げた。声は、思ったより小さかった。
「紗季の事情は分かった。でも、私が受けた傷は、それで消えるわけじゃない」
紗季は俯いたまま頷いた。
「うん。分かってる」
「前みたいな親友に、戻れるかも、分からない」
私は続けて言った。それは、これまでずっと避けてきた本音だった。言葉にした瞬間、胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
「それでも、いい」
紗季は顔を上げて、はっきりと答えた。その目には、以前のような曖昧な逃げの色はなかった。
「一度に全部、元に戻そうとは思ってない。ただ、これからも、自分の言葉で説明し続けたい」
その言葉には、以前の紗季にはなかった、確かな覚悟が感じられた。誰かに判断を委ねるのではなく、自分自身の意思で言葉を紡ごうとしている。
「私も」
私は少し間を置いてから続けた。
「話も聞かずに、一方的に関係を切ったこと、謝る」
紗季は驚いたような表情を見せた。
「未桜が、謝ることなんて……」
「ある」
私は、はっきりと言った。
「紗季にも、言い分があったかもしれないのに、私は、それを聞こうともしなかった。噂だけを信じて、紗季を切り捨てた」
その告白は、私自身にとっても簡単なことではなかった。だが、志緒里先輩や日向、美冬たちの姿を通して、私は自分自身の非にも、向き合わなければならないと感じるようになっていた。言葉にしてしまうことで、これまで固く握りしめていたものを、少しだけ手放せたような気がした。
私と紗季は、しばらくの間、何も言わずに向かい合っていた。窓の外からは、部活動をする生徒たちの声が、遠くから聞こえていた。その明るい声が、二人の沈黙とは対照的に、教室の外を彩っていた。
「仲直り、しよう」
紗季が、そう言いかけて、途中で言葉を止めた。
「……いや、違う」
紗季は、自分で言い直した。その言い直しの一瞬に、これまでとは違う、慎重な誠実さが滲んでいた。
「今すぐ、仲直りって形にしなくていい。ただ、少しずつ、また話せる関係になれたら」
私はその言葉に頷いた。以前のような、無条件の親友関係に戻ることは、もうできないかもしれない。だが、それでも、少しずつ何かを積み重ねていくことはできる。
私と紗季は、仲直りを宣言することなく、ただ、自分たちが卒業するときのアルバムに残す写真の候補を、一緒に選び直す作業に取りかかった。
☆
机の上に広げられた写真の束を、二人で確認していく。西日が、写真の表面を淡いオレンジ色に染めていた。
「これ、いい写真だと思う」
紗季が体育祭の一枚を指差した。私が撮った写真の中に、紗季が笑っている一枚があった。その笑顔は、以前見た写真の中の笑顔と、どこか違って見えた。屈託のなさの奥に、今の紗季を形作っている何かが、確かに滲んでいるように感じられた。
「私の写真、外さないでほしい」
紗季が少し照れくさそうに言った。
「写りが悪い写真は外すよ」
私はそっけなく答えた。だが、口元には自然と小さな緩みが生まれていた。
「え、それどういう意味」
「そのままの意味」
紗季が少し不満そうな顔をした。その表情に、私は思わず小さく笑ってしまった。
以前のような、屈託のない笑い合いとは違う。だが、確かに、何かが少しずつ動き始めているのを感じた。教室の中に差し込む西日が、二人の間の空気を、少しだけ柔らかく照らしているように思えた。
☆
その頃、遥人は新聞委員としての記事に取り組んでいた。校内新聞に、噂を広めることの危険性についての記事を書くという。
「自分だけを、正しい側には置かない」
遥人は私に、その記事の下書きを見せてくれた。そこには、噂がどのように広がり、人を傷つけるかという分析とともに、自分自身が噂を広めた張本人であったことも、正直に書かれていた。原稿用紙の文字は、これまでの遥人らしからぬ、丁寧な筆跡だった。
「自分の過ちも、ちゃんと書いた」
遥人は少し照れくさそうに言った。
「読む人には、これが自分の話だって分からないようにするけど。でも、実際の経験として書いてる」
私は、その記事を読みながら、遥人が少しずつ、自分の弱さと向き合おうとしていることを感じた。完全に許せたわけではない。だが、これまでのように、責任から逃げようとする姿とは、明らかに違っていた。
☆
志緒里先輩は、卒業後も写真を続けることを正式に決めていた。
「専門学校、写真の勉強ができるところに行くことにした」
志緒里先輩は、少し照れくさそうに言った。その表情には、これまでのはぐらかしとは違う、確かな決意が滲んでいた。
「葵と話したこと、色々あったから」
「先輩らしいですね」
「そう?」
「はい」
私と志緒里先輩は、部室で顔を見合わせて笑った。窓から差し込む夕暮れの光が、二人の笑顔を、静かに照らしていた。
☆
日向は新入部員募集のポスターを一生懸命に作っていた。色鉛筆やマーカーが、机の上に散らばっている。
「私が二年になったら、絶対部員増やすんで」
日向はいつもの明るさを取り戻して、そう宣言した。真帆とのやり取りを経て、以前よりも少しだけ落ち着いた雰囲気になっていたが、その根底にある明るさは、変わっていなかった。ポスターに描かれた文字の、力強い筆致が、日向らしさをそのまま表しているようだった。
☆
美冬は以前渡した本を少しずつ読み進めていた。
「面白いです、この本」
放課後、その感想を私に伝えてくれた。その表情には、以前のような曇りはなく、代わりに、かすかな充足感のようなものが浮かんでいた。
「自分の記憶としてじゃなくて、新しく出会った本として」
その言葉には、以前のような苦しさはなかった。失われたものを完全に取り戻すことはできない。だが、新しい形で、少しずつ、自分の一部を作り直していく美冬の姿は、確かに前へ進んでいた。文芸部の部室にも、また顔を出すようになっていた。
部室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。写真部の面々が、それぞれの形で少しずつ前へ進み始めている。その光景を眺めながら、私はここまでの日々の重さをあらためて胸の中で反芻していた。
私と紗季の関係も、まだ完全な答えには辿り着いていない。だが、少なくとも、逃げることをやめた。それだけは、確かなことだった。
教室では、紗季についての小さな出来事が、また誰かの口から語られるようになった。「そういえば、体育祭のとき、大宮さんが靴紐直してくれたよね」
――そんな会話が、自然に交わされるようになっていく。その一言を耳にするたびに、私は胸の奥で安堵の息をついていた。
だが、フィルが言っていた通り、完全に元通りになったわけではなかった。美冬の元親友との記憶は、完全には戻らないままだった。紗季について忘れられていた出来事の一部も、曖昧なまま、はっきりとは思い出せない部分が残っていた。誰かの記憶の隅に、まだ小さな空白が残り続けているような、そんな不完全さだった。
それでも、紗季という存在は、確かに教室の中に、以前と変わらず存在していた。その事実だけで、じゅうぶんだと思えた。
☆
数日後、私は紗季を放課後の空き教室に呼んだ。二人きりで話すのは、あの渡り廊下以来だった。西日が差し込む教室の中、埃の粒子が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。
「改めて、話したいことがある」
紗季は緊張した面持ちで、私の向かいの席に座った。椅子を引く音が、静かな教室にやけに大きく響いた。
「本当に、ごめんなさい」
紗季は深く頭を下げた。
「否定できなかったこと、その後も嘘だって言えなかったこと、全部」
私はその謝罪を、しばらくの間、黙って聞いていた。頭を下げたままの紗季の背中を、じっと見つめる。
「今、すぐに許せるとは、言えない」
私は正直にそう告げた。声は、思ったより小さかった。
「紗季の事情は分かった。でも、私が受けた傷は、それで消えるわけじゃない」
紗季は俯いたまま頷いた。
「うん。分かってる」
「前みたいな親友に、戻れるかも、分からない」
私は続けて言った。それは、これまでずっと避けてきた本音だった。言葉にした瞬間、胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
「それでも、いい」
紗季は顔を上げて、はっきりと答えた。その目には、以前のような曖昧な逃げの色はなかった。
「一度に全部、元に戻そうとは思ってない。ただ、これからも、自分の言葉で説明し続けたい」
その言葉には、以前の紗季にはなかった、確かな覚悟が感じられた。誰かに判断を委ねるのではなく、自分自身の意思で言葉を紡ごうとしている。
「私も」
私は少し間を置いてから続けた。
「話も聞かずに、一方的に関係を切ったこと、謝る」
紗季は驚いたような表情を見せた。
「未桜が、謝ることなんて……」
「ある」
私は、はっきりと言った。
「紗季にも、言い分があったかもしれないのに、私は、それを聞こうともしなかった。噂だけを信じて、紗季を切り捨てた」
その告白は、私自身にとっても簡単なことではなかった。だが、志緒里先輩や日向、美冬たちの姿を通して、私は自分自身の非にも、向き合わなければならないと感じるようになっていた。言葉にしてしまうことで、これまで固く握りしめていたものを、少しだけ手放せたような気がした。
私と紗季は、しばらくの間、何も言わずに向かい合っていた。窓の外からは、部活動をする生徒たちの声が、遠くから聞こえていた。その明るい声が、二人の沈黙とは対照的に、教室の外を彩っていた。
「仲直り、しよう」
紗季が、そう言いかけて、途中で言葉を止めた。
「……いや、違う」
紗季は、自分で言い直した。その言い直しの一瞬に、これまでとは違う、慎重な誠実さが滲んでいた。
「今すぐ、仲直りって形にしなくていい。ただ、少しずつ、また話せる関係になれたら」
私はその言葉に頷いた。以前のような、無条件の親友関係に戻ることは、もうできないかもしれない。だが、それでも、少しずつ何かを積み重ねていくことはできる。
私と紗季は、仲直りを宣言することなく、ただ、自分たちが卒業するときのアルバムに残す写真の候補を、一緒に選び直す作業に取りかかった。
☆
机の上に広げられた写真の束を、二人で確認していく。西日が、写真の表面を淡いオレンジ色に染めていた。
「これ、いい写真だと思う」
紗季が体育祭の一枚を指差した。私が撮った写真の中に、紗季が笑っている一枚があった。その笑顔は、以前見た写真の中の笑顔と、どこか違って見えた。屈託のなさの奥に、今の紗季を形作っている何かが、確かに滲んでいるように感じられた。
「私の写真、外さないでほしい」
紗季が少し照れくさそうに言った。
「写りが悪い写真は外すよ」
私はそっけなく答えた。だが、口元には自然と小さな緩みが生まれていた。
「え、それどういう意味」
「そのままの意味」
紗季が少し不満そうな顔をした。その表情に、私は思わず小さく笑ってしまった。
以前のような、屈託のない笑い合いとは違う。だが、確かに、何かが少しずつ動き始めているのを感じた。教室の中に差し込む西日が、二人の間の空気を、少しだけ柔らかく照らしているように思えた。
☆
その頃、遥人は新聞委員としての記事に取り組んでいた。校内新聞に、噂を広めることの危険性についての記事を書くという。
「自分だけを、正しい側には置かない」
遥人は私に、その記事の下書きを見せてくれた。そこには、噂がどのように広がり、人を傷つけるかという分析とともに、自分自身が噂を広めた張本人であったことも、正直に書かれていた。原稿用紙の文字は、これまでの遥人らしからぬ、丁寧な筆跡だった。
「自分の過ちも、ちゃんと書いた」
遥人は少し照れくさそうに言った。
「読む人には、これが自分の話だって分からないようにするけど。でも、実際の経験として書いてる」
私は、その記事を読みながら、遥人が少しずつ、自分の弱さと向き合おうとしていることを感じた。完全に許せたわけではない。だが、これまでのように、責任から逃げようとする姿とは、明らかに違っていた。
☆
志緒里先輩は、卒業後も写真を続けることを正式に決めていた。
「専門学校、写真の勉強ができるところに行くことにした」
志緒里先輩は、少し照れくさそうに言った。その表情には、これまでのはぐらかしとは違う、確かな決意が滲んでいた。
「葵と話したこと、色々あったから」
「先輩らしいですね」
「そう?」
「はい」
私と志緒里先輩は、部室で顔を見合わせて笑った。窓から差し込む夕暮れの光が、二人の笑顔を、静かに照らしていた。
☆
日向は新入部員募集のポスターを一生懸命に作っていた。色鉛筆やマーカーが、机の上に散らばっている。
「私が二年になったら、絶対部員増やすんで」
日向はいつもの明るさを取り戻して、そう宣言した。真帆とのやり取りを経て、以前よりも少しだけ落ち着いた雰囲気になっていたが、その根底にある明るさは、変わっていなかった。ポスターに描かれた文字の、力強い筆致が、日向らしさをそのまま表しているようだった。
☆
美冬は以前渡した本を少しずつ読み進めていた。
「面白いです、この本」
放課後、その感想を私に伝えてくれた。その表情には、以前のような曇りはなく、代わりに、かすかな充足感のようなものが浮かんでいた。
「自分の記憶としてじゃなくて、新しく出会った本として」
その言葉には、以前のような苦しさはなかった。失われたものを完全に取り戻すことはできない。だが、新しい形で、少しずつ、自分の一部を作り直していく美冬の姿は、確かに前へ進んでいた。文芸部の部室にも、また顔を出すようになっていた。
部室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。写真部の面々が、それぞれの形で少しずつ前へ進み始めている。その光景を眺めながら、私はここまでの日々の重さをあらためて胸の中で反芻していた。
私と紗季の関係も、まだ完全な答えには辿り着いていない。だが、少なくとも、逃げることをやめた。それだけは、確かなことだった。


