消したい人が、写真の中で笑っている

 その日の放課後、私は日向、美冬、そして遥人を、写真部の暗室へ集めた。
数日前から三年生は自由登校となり、志緒里先輩も部室に来なくなっていた。
窓のない暗室の中は、外の喧騒から切り離された、独特の静けさに満ちていた。
「紗季を、消すか残すか。私が決めなきゃいけない」
 私はそう切り出した。声が、思ったより硬くなる。
「でも、私一人の記憶だけじゃ、足りない気がして」
 暗室には、赤い電球の薄明かりが灯っていた。現像液の匂いが、いつもより濃く感じられる。集まった三人は、それぞれ神妙な表情で私の言葉を聞いていた。赤い光の中で、みんなの顔がいつもより真剣な陰影を帯びていた。
「紗季さんのこと、みんなが覚えてることを、聞かせてほしい」
 私は率直にそう頼んだ。
 最初に口を開いたのは、日向だった。
「私、紗季先輩に助けてもらったことがあります」
 日向は、少し照れくさそうに続けた。その声には、これまでの明るさとはまた違う、しみじみとした温かさがあった。
「入部したばかりのころ、写真部の先輩たちに、まだうまく話しかけられなくて。そのとき、紗季先輩がたまたま部室に来てて、『日向ちゃん、緊張してる? 大丈夫だよ』って、声かけてくれたんです」
「紗季が?」
「はい。写真部の人じゃないのに、優しくしてくれて。初対面の私にも、普通に接してくれました」
 日向の話は、私が知らなかった一面だった。頭の中で、紗季の人懐っこい笑顔が、これまで知らなかった記憶とともに、静かに重なっていった。
 美冬も、穏やかに口を開いた。
「私が教室で一人だったとき、紗季さんが、本の話をしてくれたことがあります」
 その言葉に、私は驚いた。美冬と紗季に、そんな接点があったとは、思ってもいなかった。二人の間に、そんな交流があったことに胸の奥が小さく揺れた。
「短い会話でしたけど、その本のこと、少し詳しく知ってて。話しかけてくれて、嬉しかったです」
 最後に、遥人がこれまでとは違う、穏やかな声で話し始めた。暗室の赤い光が、その表情をいつもより真剣に見せていた。
「俺が、責任から逃げようとしたとき」
 遥人は、言葉を選びながら続けた。
「紗季は、俺のことを責めなかった。俺が悪いって、他人のせいにしなかった。むしろ、自分にも責任があるって、そう言ってた」
 その言葉に、私は胸を突かれた。紗季は自分を守りたいという弱さを抱えながらも、遥人に対しては、責任を押しつけなかったのだ。それは、私がずっと知らなかった、紗季の別の一面だった。
 三人の話を聞きながら、私は、これまで知らなかった紗季の姿を、少しずつ知っていった。私だけが知っている紗季と、この三人がそれぞれ知っている紗季。それらは、少しずつ違いながらも、確かに同じ一人の人間を形作っていた。まるで、一枚の写真をいくつもの角度から見つめ直しているような感覚だった。
              ☆
翌日の放課後、私は日向と一緒に、紗季を暗室へ呼んだ。紗季は以前よりもさらに存在感が薄くなっていた。赤い電球の光さえ、紗季の輪郭にはうまく届いていないように見える。
「みんなが、紗季のこと、話してくれた」
 私は紗季に向かってそう切り出した。
「日向、久住さん、それに、八代くんも」
 紗季は驚いた表情を見せた。目を見開いて、私を見つめている。
「私のこと……?」
「うん」
 私は一つずつ、聞いた話を伝えた。日向への優しさ、美冬への本の話、遥人への態度。言葉を紡ぐたびに、紗季の輪郭が、ほんの少しだけ、はっきりしていくような気がした。
 紗季はそれを聞きながら、少しずつ表情を歪めていった。
「私が、誰かの記憶に残る価値があるとは、思えない」
 紗季は震える声で言った。
「私は、未桜を傷つけた。守ってあげられなかった。そんな人間が、誰かにとって、大切な記憶になるなんて」
「価値があるから、残すんじゃない」
 私は、はっきりと答えた。声に、これまでにない確かな重みがこもっていた。
「価値があるかどうかで、決めるものじゃないと思う」
 紗季が、驚いたように私を見た。
「傷つけられたことも、助けられたことも、全部、私が覚えていたいから、残すの」
 私はその言葉を、自分の心の底から絞り出すように口にした。喉の奥から、これまで積み重ねてきた思いのすべてが、一つの言葉に凝縮されていくようだった。
「紗季を許せるかどうかは、まだ分からない。でも、紗季との時間を、なかったことにはしたくない」
 紗季の目に、涙が滲んだ。頬を伝う一筋の涙が、赤い電球の光を受けて、静かに光っていた。
 私はカメラを構えた。手のひらに、ひび割れかけた金属の冷たさが伝わってくる。ファインダーの中には、紗季の姿がほとんど完全に黒く塗りつぶされて映っていた。
 これまでの多くの願いが、このカメラに積み重なっている。美冬の願い、志緒里先輩の願い、遥人の願い、そして紗季自身の願い。それらすべてが、今、このシャッターの先に集約されているようだった。指先に、これまでにない緊張が集まっていく。
 私は、シャッターへ指をかけた。
「未桜……」
 紗季の声が震えていた。
 私は迷わなかった。指に力を込め、シャッターを押した。
 暗室の中に、シャッター音が鳴り響いた。乾いた、けれど、これまでのどの瞬間よりも重い音だった。
                ☆
 撮影された写真を、すぐに現像した。暗室の赤い光の下、印画紙をトレイの中でゆっくりと揺らしていく。
 現像液の中で、印画紙に少しずつ像が浮かび上がってくる。私たちは息を詰めて、その様子を見守った。誰も、一言も発しないまま、ただじっと、水面の下から像が姿を現す様子を見つめていた。
 写真の中に、紗季の姿が、はっきりと写っていた。
 消えていなかった。
 ただし、その表情は、以前のような明るい笑顔ではなかった。泣きながら、それでも真っ直ぐにカメラを――こちらを見ている、紗季の姿だった。その表情には、これまでの逃げるような弱さではなく、確かな強さのようなものが宿っていた。
「消えてない……」
 日向が、驚いたように呟いた。
 紗季も、自分の姿が写った写真を見て、言葉を失っていた。震える指先が、印画紙の縁に、そっと触れる。
 その瞬間、机の上に置かれていた古いカメラに、ぴしり、と小さなひびが入った。ひびは、少しずつ広がっていき、カメラ全体を覆うように、細かい亀裂が走った。まるで、長年蓄積されてきた願いが、一気に堰を切ったかのような音だった。
「フィル……?」
 私が名前を呼ぶと、部屋の隅に、いつもより薄く、儚げな姿でフィルが現れた。灰白色の羽根が、赤い光の中で今にも溶けて消えてしまいそうなほど、薄く透けて見えた。
「これで、いい」
 フィルの声は、これまでよりも小さく、掠れていた。
「最も強く願いを向けた者が、消さないと選んだ。それが、カメラの答えを決めた」
「これから、どうなるの」
 私が尋ねると、フィルは穏やかに答えた。
「暴走は止まる。ただし、消えかけたものが、すべて元通りになるわけではない」
 その言葉が、これから起こることを暗示しているようだった。胸の奥に、安堵と、それでも消えない一抹の不安とが、同時に広がっていった。
 フィルの姿はそのまま、少しずつ薄れていった。まるで写真の中の像が、時間とともに色褪せていくように。最後には、机の上に一枚の灰白色の羽根だけが残されていた。
 私は現像されたばかりの写真を、そっと手に取った。紗季の泣きながらもこちらを見る姿が、そこに確かに焼き付けられていた。それは、綺麗な思い出だけを切り取った写真ではない。傷つき、悩み、それでも向き合おうとした、ありのままの紗季の姿だった。指先で、その写真の表面をそっとなぞる。まだ現像液の湿り気が、かすかに残っていた。
 紗季はその写真を見つめながら、涙を流していた。誰も、それ以上言葉を発さなかった。暗室の中には赤い電球の光と、現像液の匂いだけが満ちていた。その静けさの中で、私たちはしばらくの間、ただ黙ってその写真を見つめ続けていた。