卒業アルバムに載せる写真を業者に提出する最終締め切りが目前に迫った。
撮影済みの写真データを最終確認していたある日、志緒里先輩が卒業アルバム用とは別のフォルダを開いたまま、動きを止めた。カーソルが、宙に浮いたまま静止している。
「これ、おかしくない?」
私は、志緒里先輩の指す先を覗き込んだ。文化祭の写真の一枚。数日前に確認したときと比べて、写っている人物の輪郭が、わずかに薄くなっているように見えた。まるで、水彩画に薄く水を垂らしたような、そんな滲み方だった。
「気のせいじゃなくて?」
「うん、私も最初はそう思った。でも」
志緒里先輩は別の写真を開いた。体育祭の写真だった。端に写っている一年生の男子の輪郭が、同じように薄くなっている。
「この子……この前、部室に来た子じゃない?」
私は思い出した。いじめを受けていると言って、誰かを消したいと訴えていた一年生だった。
「でも、この子にはカメラを使ってないよね」
「うん。断ったはず」
それなのに、写真の中では彼の姿が少しずつ薄れていた。
私たちは、ほかの写真も次々と確認した。どれも、特定の人物の姿が、以前より輪郭が薄くぼやけている。パソコンの画面が次々と切り替わっていくたびに、私の背筋にも冷たいものが伝っていった。
「これ、もしかして……カメラに強く願った人たちだけが、薄くなってるんじゃない?」
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
慌てて紗季の写る写真を確認すると、確かに他の部分に比べて、紗季の姿だけがうっすらと霞がかかったように薄くなっていた。写真の中の紗季の輪郭が、周囲の生徒たちよりも明らかに淡くぼやけている。
美冬の元親友や葵が写る写真にも、同じことが起きているのかもしれない。
「これって……」
「カメラの誤作動かもしれない」
志緒里先輩は深刻な表情で言った。その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
その日、私のクラスでも異変が起きていることに気づいた。休み時間の教室で、いつもと変わらないはずの会話が微妙に色を変えていた。
「大宮さんって、文化祭のとき、何担当だったっけ」
誰かがそう尋ねているのが聞こえた。何気ない、日常的な会話だったはずなのに、その質問には、これまでにない空白があった。
「え、覚えてない。誰かに聞いてみようか」
その会話に、私は思わず振り返った。文化祭で紗季が担当していた仕事は確か、装飾係のリーダーだったはずだ。それを周囲のクラスメイトが思い出せなくなっている。当たり前に覚えていてよいはずの記憶が、まるで水に溶けるように静かに輪郭を失っていた。
「体育祭のとき、誰か助けてくれた人いなかったっけ」
別の生徒が言う。
「靴紐切れて、困ってたときに」
「そういえば……誰だったかな」
私は、それが紗季だったことを覚えていた。あの日、慌てて自分の予備の紐を差し出していた紗季の姿を、今もはっきりと思い出せる。だが、周りの生徒たちの記憶からは、その出来事自体が、少しずつ薄れているようだった。
教室の座席表を見ても、紗季の名前は変わらずそこにある。だが、休み時間、紗季と話していたはずのクラスメイトたちの様子に、どこか他人行儀な雰囲気が混じり始めていた。まるで、そこにいる誰もが、紗季という存在の輪郭を、少しずつ手放していくようだった。
私だけは、紗季のことをはっきりと覚えていた。彼女の担当した仕事も、彼女が誰かを助けたことも、教室での席も、何一つ忘れていなかった。その記憶の鮮明さが、かえって不安を煽った。自分だけが取り残されているような、そんな心細さがあった。
☆
放課後、部室にフィルが現れた。いつもより、姿がわずかに透けて見えるようだった。灰白色の羽根の輪郭が、LED照明の光の中で、頼りなく揺らいでいる。
「カメラに集まった願いが、増えすぎている」
フィルは、淡々とした口調で告げた。その声も、いつもより幾分か掠れて聞こえた。
「消したい、消えたい――その願いが積み重なりすぎて、力が暴走し始めている」
「止める方法は」
私が尋ねると、フィルは冷静に答えた。
「カメラに最も強く願いを向けた人物が、最後の一枚を撮らなければならない」
「最も強く願いを向けた人物って……」
私は、これまでのことを振り返った。美冬、志緒里先輩、遥人。それぞれが、強い願いをこのカメラに向けてきた。だが、その中でも、最も長く、最も深く、このカメラと向き合ってきたのは――。
「未桜だ」
フィルは、穏やかにそう告げた。
「お前が、紗季を消すか、残すかを、決めなければならない」
その言葉に、私は言葉を失った。ずっと避け続けてきた決断を、今、突きつけられていた。部室のLED照明の光が、いつもより白く、冷たく感じられた。
☆
その日の夕方、部室の前で紗季を待った。夕暮れの薄闇が、下駄箱のあたりに落ち始めていた。紗季はいつものように事務的な用件で現れたが、私の表情を見て、何かを察したようだった。
「未桜……」
「フィルが言ってた」
私は、率直に伝えることにした。
「このままだと、紗季の存在が、みんなの記憶から消えていくって」
紗季はそれを聞いても、驚いた様子を見せなかった。その反応の薄さが、かえって私の胸を締めつけた。
「知ってる」
「知ってるって……」
「最近、自分でも感じてたから。誰かと話してても、私が何を言ったか、すぐに忘れられてる気がして」
紗季の声には、これまでにない諦めのようなものが滲んでいた。
「これでいいの。自分を消してほしいって、そう言ったのは私だから」
「でも」
「未桜が、無理に決断しなくていい」
紗季は、私を遮るように言った。
「私を消して、カメラを終わらせて」
「勝手に決めないで」
私は思わず声を強めた。喉の奥から、抑えていた感情が溢れ出てくる。
「私は、まだ答えを出してない」
「でも、時間がないでしょう」
紗季の言葉は、事実だった。カメラの暴走は確実に進んでいる。その事実の重さに、私は何も言い返せなかった。
「消してもらえれば、それでいい」
紗季は、そう繰り返した。
「私がいなくなれば、未桜も、みんなも、これ以上苦しまなくて済む」
「紗季は、それでいいの」
私は、紗季の目を見つめて尋ねた。夕暮れの薄闇の中で、紗季の瞳が微かに揺れているのが見えた。
「自分がいなくなること、本当に望んでるの」
紗季は一瞬、答えに詰まった。だが、すぐに気を取り直したように、ゆっくりと頷いた。
「望んでる」
その返答は、以前よりも、どこか力が弱く聞こえた。まるで、自分自身にも言い聞かせるような、そんな頷き方だった。
☆
数日のうちに、紗季の存在は目に見えて薄れていった。
教室の掲示物には、紗季が作ったはずの装飾があるのに、誰も、それを紗季が作ったと覚えていない。文化祭のアルバムページの担当者リストからも、紗季の名前が、いつの間にか空白になっていた。その空白の部分が、まるで最初から誰も存在しなかったかのように、不自然な均一さを保っていた。
その日の昼休み、私は教室の後ろで、紗季がクラスメイトの女子に声をかけているのを見かけた。
「昨日の委員会のプリント、先生に出しておいたから」
「あ、ほんと? ありがとう」
女子生徒は、いつもと変わらない調子で答えた。
「助かった。昨日、完全に忘れてた」
「次から気をつけてよ」
紗季も、小さく笑った。
ごく普通の会話だった。
私は少しだけ安心して、自分の席へ視線を戻した。
まだ大丈夫なのかもしれない。
写真の中の姿は薄くなっていても、目の前にいる紗季まで、すぐに誰かの中から消えてしまうわけではない。
そう思った、その数分後だった。
「ねえ、そのプリント、先生に出した?」
さっき紗季と話していた女子生徒が、近くの友人に尋ねていた。
「委員会のやつ?」
「うん。私、昨日出すの忘れてた気がするんだけど」
私は思わず顔を上げた。
「さっき、大宮さんが出したって言ってなかった?」
気づけば、声をかけていた。
女子生徒は、きょとんとした顔で私を見る。
「大宮さん?」
その返事だけで、胸の奥が冷たくなった。
私は教室の反対側を見た。紗季も、こちらを見ていた。
目が合った。
紗季は笑っていなかった。
「ほら、さっき紗季と話してたでしょう」
「私が?」
女子生徒は、本気で分からないという顔をした。
「誰かと話してたっけ?」
「話してたよ。プリントを――」
そこまで言って、私は口を閉じた。
紗季が、小さく首を横に振ったからだ。
もういい、と言っているように見えた。
「……ごめん。勘違いかも」
私はそう言うしかなかった。
女子生徒は「そう?」と首をかしげたあと、何事もなかったように友人との話へ戻っていった。
教室のざわめきも、窓から差し込む昼の光も、何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、そこにいる紗季だけだった。
私は紗季のところへ歩いていった。
「今の……」
「見てた」
紗季は、私が最後まで言う前に答えた。声は穏やかだった。けれど、机の端に置かれた指先が、わずかに震えていた。
「ほんの数分前だよ」
「うん」
「普通に話してたのに」
「うん」
同じ返事を繰り返す紗季の声が、少しずつ小さくなっていく。
「最初はね」
紗季がぽつりと言った。
「これでいいって思ってた」
私は何も言えなかった。
「私のことをみんなが忘れたら、迷惑かけたことも、傷つけたことも、一緒に消えていくんだって」
紗季は、自分の手元を見つめた。
「でも」
一度、言葉が途切れた。
教室の窓から風が入り、机の上のプリントの端がかすかに揺れた。
「こうやって本当に忘れられると、変な感じ」
「怖い?」
私が尋ねると、紗季はすぐには答えなかった。
やがて、ほんの少しだけ頷いた。
「……少し」
その一言は、消えてもいいと言い続けていた紗季から、初めて聞いた本音のように思えた。
私はそれ以上、何も言えなかった。
紗季が席を離れたあとも、さっきの光景が頭から離れなかった。ほんの数分前に交わした会話さえ、人の記憶から消えてしまう。
私の記憶さえ、いつまで保てるのか、確信が持てなくなっていた。教室にいる時間の中で、ふとした瞬間に、自分の記憶の輪郭さえ、揺らいでいくような不安を覚えることがあった。
紗季自身も、次第に自分を見失っているようだった。
☆
ある日、廊下で偶然会ったとき、紗季はぼんやりとした表情で私に尋ねた。窓から差し込む午後の光が、紗季の輪郭をいつもより淡く照らしていた。
「私、ここにいる意味、あったのかな」
その言葉には、これまでの覚悟とは違う、本当の不安が滲んでいた。消えることを望んでいたはずなのに、実際に消えかけている今、紗季自身も、自分の存在の意味を見失い始めているようだった。
私はその姿を見て、胸が締めつけられる思いがした。写真だけでなく、周囲の記憶からも薄れていく紗季。その先に待っているものが、本当に紗季の望んでいたものなのか、私にはもう分からなくなっていた。廊下を歩く紗季の後ろ姿が、これまでよりもいっそう頼りなく私の目には映っていた。
撮影済みの写真データを最終確認していたある日、志緒里先輩が卒業アルバム用とは別のフォルダを開いたまま、動きを止めた。カーソルが、宙に浮いたまま静止している。
「これ、おかしくない?」
私は、志緒里先輩の指す先を覗き込んだ。文化祭の写真の一枚。数日前に確認したときと比べて、写っている人物の輪郭が、わずかに薄くなっているように見えた。まるで、水彩画に薄く水を垂らしたような、そんな滲み方だった。
「気のせいじゃなくて?」
「うん、私も最初はそう思った。でも」
志緒里先輩は別の写真を開いた。体育祭の写真だった。端に写っている一年生の男子の輪郭が、同じように薄くなっている。
「この子……この前、部室に来た子じゃない?」
私は思い出した。いじめを受けていると言って、誰かを消したいと訴えていた一年生だった。
「でも、この子にはカメラを使ってないよね」
「うん。断ったはず」
それなのに、写真の中では彼の姿が少しずつ薄れていた。
私たちは、ほかの写真も次々と確認した。どれも、特定の人物の姿が、以前より輪郭が薄くぼやけている。パソコンの画面が次々と切り替わっていくたびに、私の背筋にも冷たいものが伝っていった。
「これ、もしかして……カメラに強く願った人たちだけが、薄くなってるんじゃない?」
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
慌てて紗季の写る写真を確認すると、確かに他の部分に比べて、紗季の姿だけがうっすらと霞がかかったように薄くなっていた。写真の中の紗季の輪郭が、周囲の生徒たちよりも明らかに淡くぼやけている。
美冬の元親友や葵が写る写真にも、同じことが起きているのかもしれない。
「これって……」
「カメラの誤作動かもしれない」
志緒里先輩は深刻な表情で言った。その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
その日、私のクラスでも異変が起きていることに気づいた。休み時間の教室で、いつもと変わらないはずの会話が微妙に色を変えていた。
「大宮さんって、文化祭のとき、何担当だったっけ」
誰かがそう尋ねているのが聞こえた。何気ない、日常的な会話だったはずなのに、その質問には、これまでにない空白があった。
「え、覚えてない。誰かに聞いてみようか」
その会話に、私は思わず振り返った。文化祭で紗季が担当していた仕事は確か、装飾係のリーダーだったはずだ。それを周囲のクラスメイトが思い出せなくなっている。当たり前に覚えていてよいはずの記憶が、まるで水に溶けるように静かに輪郭を失っていた。
「体育祭のとき、誰か助けてくれた人いなかったっけ」
別の生徒が言う。
「靴紐切れて、困ってたときに」
「そういえば……誰だったかな」
私は、それが紗季だったことを覚えていた。あの日、慌てて自分の予備の紐を差し出していた紗季の姿を、今もはっきりと思い出せる。だが、周りの生徒たちの記憶からは、その出来事自体が、少しずつ薄れているようだった。
教室の座席表を見ても、紗季の名前は変わらずそこにある。だが、休み時間、紗季と話していたはずのクラスメイトたちの様子に、どこか他人行儀な雰囲気が混じり始めていた。まるで、そこにいる誰もが、紗季という存在の輪郭を、少しずつ手放していくようだった。
私だけは、紗季のことをはっきりと覚えていた。彼女の担当した仕事も、彼女が誰かを助けたことも、教室での席も、何一つ忘れていなかった。その記憶の鮮明さが、かえって不安を煽った。自分だけが取り残されているような、そんな心細さがあった。
☆
放課後、部室にフィルが現れた。いつもより、姿がわずかに透けて見えるようだった。灰白色の羽根の輪郭が、LED照明の光の中で、頼りなく揺らいでいる。
「カメラに集まった願いが、増えすぎている」
フィルは、淡々とした口調で告げた。その声も、いつもより幾分か掠れて聞こえた。
「消したい、消えたい――その願いが積み重なりすぎて、力が暴走し始めている」
「止める方法は」
私が尋ねると、フィルは冷静に答えた。
「カメラに最も強く願いを向けた人物が、最後の一枚を撮らなければならない」
「最も強く願いを向けた人物って……」
私は、これまでのことを振り返った。美冬、志緒里先輩、遥人。それぞれが、強い願いをこのカメラに向けてきた。だが、その中でも、最も長く、最も深く、このカメラと向き合ってきたのは――。
「未桜だ」
フィルは、穏やかにそう告げた。
「お前が、紗季を消すか、残すかを、決めなければならない」
その言葉に、私は言葉を失った。ずっと避け続けてきた決断を、今、突きつけられていた。部室のLED照明の光が、いつもより白く、冷たく感じられた。
☆
その日の夕方、部室の前で紗季を待った。夕暮れの薄闇が、下駄箱のあたりに落ち始めていた。紗季はいつものように事務的な用件で現れたが、私の表情を見て、何かを察したようだった。
「未桜……」
「フィルが言ってた」
私は、率直に伝えることにした。
「このままだと、紗季の存在が、みんなの記憶から消えていくって」
紗季はそれを聞いても、驚いた様子を見せなかった。その反応の薄さが、かえって私の胸を締めつけた。
「知ってる」
「知ってるって……」
「最近、自分でも感じてたから。誰かと話してても、私が何を言ったか、すぐに忘れられてる気がして」
紗季の声には、これまでにない諦めのようなものが滲んでいた。
「これでいいの。自分を消してほしいって、そう言ったのは私だから」
「でも」
「未桜が、無理に決断しなくていい」
紗季は、私を遮るように言った。
「私を消して、カメラを終わらせて」
「勝手に決めないで」
私は思わず声を強めた。喉の奥から、抑えていた感情が溢れ出てくる。
「私は、まだ答えを出してない」
「でも、時間がないでしょう」
紗季の言葉は、事実だった。カメラの暴走は確実に進んでいる。その事実の重さに、私は何も言い返せなかった。
「消してもらえれば、それでいい」
紗季は、そう繰り返した。
「私がいなくなれば、未桜も、みんなも、これ以上苦しまなくて済む」
「紗季は、それでいいの」
私は、紗季の目を見つめて尋ねた。夕暮れの薄闇の中で、紗季の瞳が微かに揺れているのが見えた。
「自分がいなくなること、本当に望んでるの」
紗季は一瞬、答えに詰まった。だが、すぐに気を取り直したように、ゆっくりと頷いた。
「望んでる」
その返答は、以前よりも、どこか力が弱く聞こえた。まるで、自分自身にも言い聞かせるような、そんな頷き方だった。
☆
数日のうちに、紗季の存在は目に見えて薄れていった。
教室の掲示物には、紗季が作ったはずの装飾があるのに、誰も、それを紗季が作ったと覚えていない。文化祭のアルバムページの担当者リストからも、紗季の名前が、いつの間にか空白になっていた。その空白の部分が、まるで最初から誰も存在しなかったかのように、不自然な均一さを保っていた。
その日の昼休み、私は教室の後ろで、紗季がクラスメイトの女子に声をかけているのを見かけた。
「昨日の委員会のプリント、先生に出しておいたから」
「あ、ほんと? ありがとう」
女子生徒は、いつもと変わらない調子で答えた。
「助かった。昨日、完全に忘れてた」
「次から気をつけてよ」
紗季も、小さく笑った。
ごく普通の会話だった。
私は少しだけ安心して、自分の席へ視線を戻した。
まだ大丈夫なのかもしれない。
写真の中の姿は薄くなっていても、目の前にいる紗季まで、すぐに誰かの中から消えてしまうわけではない。
そう思った、その数分後だった。
「ねえ、そのプリント、先生に出した?」
さっき紗季と話していた女子生徒が、近くの友人に尋ねていた。
「委員会のやつ?」
「うん。私、昨日出すの忘れてた気がするんだけど」
私は思わず顔を上げた。
「さっき、大宮さんが出したって言ってなかった?」
気づけば、声をかけていた。
女子生徒は、きょとんとした顔で私を見る。
「大宮さん?」
その返事だけで、胸の奥が冷たくなった。
私は教室の反対側を見た。紗季も、こちらを見ていた。
目が合った。
紗季は笑っていなかった。
「ほら、さっき紗季と話してたでしょう」
「私が?」
女子生徒は、本気で分からないという顔をした。
「誰かと話してたっけ?」
「話してたよ。プリントを――」
そこまで言って、私は口を閉じた。
紗季が、小さく首を横に振ったからだ。
もういい、と言っているように見えた。
「……ごめん。勘違いかも」
私はそう言うしかなかった。
女子生徒は「そう?」と首をかしげたあと、何事もなかったように友人との話へ戻っていった。
教室のざわめきも、窓から差し込む昼の光も、何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、そこにいる紗季だけだった。
私は紗季のところへ歩いていった。
「今の……」
「見てた」
紗季は、私が最後まで言う前に答えた。声は穏やかだった。けれど、机の端に置かれた指先が、わずかに震えていた。
「ほんの数分前だよ」
「うん」
「普通に話してたのに」
「うん」
同じ返事を繰り返す紗季の声が、少しずつ小さくなっていく。
「最初はね」
紗季がぽつりと言った。
「これでいいって思ってた」
私は何も言えなかった。
「私のことをみんなが忘れたら、迷惑かけたことも、傷つけたことも、一緒に消えていくんだって」
紗季は、自分の手元を見つめた。
「でも」
一度、言葉が途切れた。
教室の窓から風が入り、机の上のプリントの端がかすかに揺れた。
「こうやって本当に忘れられると、変な感じ」
「怖い?」
私が尋ねると、紗季はすぐには答えなかった。
やがて、ほんの少しだけ頷いた。
「……少し」
その一言は、消えてもいいと言い続けていた紗季から、初めて聞いた本音のように思えた。
私はそれ以上、何も言えなかった。
紗季が席を離れたあとも、さっきの光景が頭から離れなかった。ほんの数分前に交わした会話さえ、人の記憶から消えてしまう。
私の記憶さえ、いつまで保てるのか、確信が持てなくなっていた。教室にいる時間の中で、ふとした瞬間に、自分の記憶の輪郭さえ、揺らいでいくような不安を覚えることがあった。
紗季自身も、次第に自分を見失っているようだった。
☆
ある日、廊下で偶然会ったとき、紗季はぼんやりとした表情で私に尋ねた。窓から差し込む午後の光が、紗季の輪郭をいつもより淡く照らしていた。
「私、ここにいる意味、あったのかな」
その言葉には、これまでの覚悟とは違う、本当の不安が滲んでいた。消えることを望んでいたはずなのに、実際に消えかけている今、紗季自身も、自分の存在の意味を見失い始めているようだった。
私はその姿を見て、胸が締めつけられる思いがした。写真だけでなく、周囲の記憶からも薄れていく紗季。その先に待っているものが、本当に紗季の望んでいたものなのか、私にはもう分からなくなっていた。廊下を歩く紗季の後ろ姿が、これまでよりもいっそう頼りなく私の目には映っていた。


