古いカメラの噂は、いつの間にか校内に広まっていた。
「写真部に、嫌いな相手を消せるカメラがあるらしい」
そんな話が、廊下やクラスの間で、まことしやかに囁かれるようになっていた。誰から広まったのか分からないが、美冬の写真から人物が消えたという出来事が、噂の発端になっているのは間違いなかった。廊下ですれ違う生徒たちの視線に、これまでとは違う好奇の色が混じっているのを、私は肌で感じていた。
放課後の部室に、見知らぬ生徒が訪ねてくることが増えた。扉が開くたびに、緊張が背筋を伝う。
「本当に、消したい人を消せるって聞いたんですけど」
冗談半分の口調で言う生徒もいれば、真剣な表情で切実な事情を語る生徒もいた。声の震え方や、目線の落とし方一つで、その人が抱えているものの重さが、なんとなく伝わってくることもあった。
いじめを受けているという一年生。別れた恋人の写真を見るたびに苦しくなるという三年生。家族との関係に悩み、写真ごと消してしまいたいと訴える生徒もいた。
「申し訳ないですけど、対応できません」
私は、そのたびに丁寧に断ったが、断り切れないほどの人数が訪れることもあった。部室の扉を開けるたびに、また誰かの願いが待っているのではないかと、身構える癖がついてしまっていた。
「私たち、誰の願いを受け入れて、誰を断るべきなのか、判断できないですね」
日向が疲れた表情で呟いた。志緒里先輩も、頷きながら答えた。
「一人ずつ話を聞いていったら、みんな、それなりに切実な理由を持ってる。だからって、全員の願いを叶えるわけにはいかない」
私たちは、次第に対応に追われるようになっていた。カメラの管理も、これまで以上に慎重にする必要があった。戸棚の鍵をかけるたびに、これで大丈夫だろうかという不安が、常に胸のどこかに残っていた。
☆
三学期に入り数日が過ぎたある日の朝、部室に着くと、戸棚の中が荒らされたような形跡があった。扉が半端に開いたまま、中の資料が乱雑に散らばっている。
「え……」
私は急いでカメラをしまっていた場所を確認した。空だった。心臓が、一気に冷たくなっていく。
「カメラが、ない」
志緒里先輩と日向も、慌てて部室の中を探し回ったが、どこにも見当たらなかった。机の下、戸棚の隅、暗室の中まで、隅々を確認していく。だが、あの独特な革のケースはどこにも見つからなかった。
「盗まれた、ってこと?」
日向の声が、震えていた。
「鍵は、かかってたはずなのに」
志緒里先輩が扉の鍵穴を確認しながら呟いた。誰かが合鍵を使ったか、何らかの方法で侵入したとしか思えなかった。鍵穴には、こじ開けられたような傷は見当たらない。それが、余計に不気味だった。
私は頭の中で誰が犯人なのかを考えた。噂が広まってから、多くの生徒が興味を示していた。だが、実際にカメラを持ち出すほどの動機を持つ人物は、そう多くないはずだった。記憶の中で、これまで部室を訪れた顔ぶれを、一人ずつ思い浮かべていく。
☆
それから私たちは、心当たりのある生徒を探した。けれど、カメラの行方につながる手がかりは、なかなか見つからなかった。
何人かに話を聞くうちに、「八代くんが昼休みに写真部のほうへ行くのを見た」という話が出た。
放課後、私は遥人を探して校内を回った。教室にも、昇降口にもいない。
最後に屋上へ続く階段へ向かうと――踊り場で遥人を見つけた。窓から差し込む夕方の光が、斜めに差し込んでいた。
遥人は古いカメラを両手で持ち、床に置いた、自分自身の姿が写った写真へレンズを向けていた。その横顔には、これまで見たことのない、追い詰められたような緊張が浮かんでいた。
「八代くん」
私が声をかけると、遥人はびくりと肩を震わせた。だが、カメラを下ろそうとはしなかった。
「なんで……」
「聞かないで」
遥人の声は震えていた。
「これで、全部なくなる」
「なんの話」
「俺が、噂を広めたこと。十倉や紗季の記憶から、消えれば」
私はその言葉に息を呑んだ。遥人は、自分自身を写真から消そうとしていた。踊り場の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「なんで、そんなこと」
「自分が悪い人間として残るのが、耐えられない」
遥人の声は、これまでにないほど切迫していた。
「新聞委員として、いろんな真実を暴いてきたつもりだった。でも、自分自身が、誰かを傷つける噂を広めた張本人だったなんて」
その言葉には、深い自己嫌悪が滲んでいた。声の端々に、これまで抑え込んできた苦しさが、堰を切ったように溢れ出ているようだった。
「自分を消せば、全部解決すると思ってる」
「それは違う」
私は遥人に一歩近づいた。階段の踊り場の冷たい空気が、頬に触れる。
「消したところで、私や紗季が受けた傷は、なくならないでしょう」
「でも、少なくとも、俺という存在が、二人の記憶から消えれば」
「それは、解決じゃない」
私は、はっきりと言った。
「紗季が、あなたと同じことを言ってたの」
遥人は、はっとしたように顔を上げた。その瞳に、動揺の色が広がる。
「紗季が、消えたいって、自分から言ったの。あなたと、同じ理由で」
遥人はそれを聞いて、複雑な表情を浮かべた。眉間に深い皺が刻まれる。
「紗季の気持ち、分かる気がする」
遥人は、穏やかに呟いた。
「自分が悪い人間だって認めるより、いなくなったほうが楽だって、思ってしまう」
私はその言葉に、これまで何度も聞いてきた感情を重ねた。志緒里先輩も、美冬も、紗季も、そして今、遥人も。誰もが「消えること」を、罪への贖いの形として考えてしまう。同じ形をした逃げ道に、これほど多くの人が引き寄せられていくことが、私には恐ろしく感じられた。
「自分を消すことは、責任を取ることじゃない」
私は遥人に向かって、はっきりと告げた。声に、これまでにない力がこもっていた。
「責任から、逃げてるだけだよ」
その言葉は、遥人だけでなく、私自身にも向けられているように感じた。もし私が紗季を消したら、それは紗季との過去に向き合うことから、逃げているのと同じなのかもしれない。喉の奥に、その考えが鈍い痛みとなって残った。
遥人は、しばらくカメラを構えたまま動かなかった。
長い沈黙のあと、やがて力が抜けたように腕を下ろした。
「……分かった」
遥人は、カメラを私へ差し出そうとした。だが、その手が滑り、カメラが階段の手すりに軽くぶつかった。
その拍子に、シャッターが半分だけ切れる音がした。乾いた、不自然な音だった。
遥人は慌ててカメラを拾い上げた。ファインダーを覗き込むと、床に置かれた写真の一部が黒く変色して見えた。まるで、火であぶられたような、いびつな染みだった。
「これ……」
私も、その異変に気づいた。カメラ自体が、何か不安定な状態になっているように見えた。手に取ると、いつもより微かに熱を帯びているような気さえした。
☆
部室に戻り、志緒里先輩にその出来事を報告した。窓の外は、すでに夕闇に沈み始めていた。
「カメラの力が、不安定になってる、ってこと?」
志緒里先輩は真剣な表情でカメラを検分した。ひび割れかけた表面を、慎重に指先でなぞっていく。
私はこれまでの出来事を思い返した。
「もしかしたら、これまで色んな人が、色んな願いをこのカメラに向けてきたことが、影響してるのかもしれない」
「影響?」
「美冬さんの願い、志緒里先輩の願い、紗季の願い、そして今、遥人くんの願い。全部が、一つのカメラに集まってる」
口にしてみると、改めて不安が込み上げてきた。胸の奥に、冷たい塊が沈んでいくような感覚だった。
「このまま放っておいたら、どうなるんですか?」
志緒里先輩は、答えられなかった。私たちの誰も、この現象について、まだじゅうぶんな知識を持っていなかった。部室の中に、答えのない沈黙が重く垂れ込めていた。
フィルの姿はその日、どこにも現れなかった。呼びかけても、机の端には、何の気配も感じられなかった。
私は、机の上に置かれた、ひびの入りかけたカメラを見つめながら、これまでにない不安を感じていた。
「写真部に、嫌いな相手を消せるカメラがあるらしい」
そんな話が、廊下やクラスの間で、まことしやかに囁かれるようになっていた。誰から広まったのか分からないが、美冬の写真から人物が消えたという出来事が、噂の発端になっているのは間違いなかった。廊下ですれ違う生徒たちの視線に、これまでとは違う好奇の色が混じっているのを、私は肌で感じていた。
放課後の部室に、見知らぬ生徒が訪ねてくることが増えた。扉が開くたびに、緊張が背筋を伝う。
「本当に、消したい人を消せるって聞いたんですけど」
冗談半分の口調で言う生徒もいれば、真剣な表情で切実な事情を語る生徒もいた。声の震え方や、目線の落とし方一つで、その人が抱えているものの重さが、なんとなく伝わってくることもあった。
いじめを受けているという一年生。別れた恋人の写真を見るたびに苦しくなるという三年生。家族との関係に悩み、写真ごと消してしまいたいと訴える生徒もいた。
「申し訳ないですけど、対応できません」
私は、そのたびに丁寧に断ったが、断り切れないほどの人数が訪れることもあった。部室の扉を開けるたびに、また誰かの願いが待っているのではないかと、身構える癖がついてしまっていた。
「私たち、誰の願いを受け入れて、誰を断るべきなのか、判断できないですね」
日向が疲れた表情で呟いた。志緒里先輩も、頷きながら答えた。
「一人ずつ話を聞いていったら、みんな、それなりに切実な理由を持ってる。だからって、全員の願いを叶えるわけにはいかない」
私たちは、次第に対応に追われるようになっていた。カメラの管理も、これまで以上に慎重にする必要があった。戸棚の鍵をかけるたびに、これで大丈夫だろうかという不安が、常に胸のどこかに残っていた。
☆
三学期に入り数日が過ぎたある日の朝、部室に着くと、戸棚の中が荒らされたような形跡があった。扉が半端に開いたまま、中の資料が乱雑に散らばっている。
「え……」
私は急いでカメラをしまっていた場所を確認した。空だった。心臓が、一気に冷たくなっていく。
「カメラが、ない」
志緒里先輩と日向も、慌てて部室の中を探し回ったが、どこにも見当たらなかった。机の下、戸棚の隅、暗室の中まで、隅々を確認していく。だが、あの独特な革のケースはどこにも見つからなかった。
「盗まれた、ってこと?」
日向の声が、震えていた。
「鍵は、かかってたはずなのに」
志緒里先輩が扉の鍵穴を確認しながら呟いた。誰かが合鍵を使ったか、何らかの方法で侵入したとしか思えなかった。鍵穴には、こじ開けられたような傷は見当たらない。それが、余計に不気味だった。
私は頭の中で誰が犯人なのかを考えた。噂が広まってから、多くの生徒が興味を示していた。だが、実際にカメラを持ち出すほどの動機を持つ人物は、そう多くないはずだった。記憶の中で、これまで部室を訪れた顔ぶれを、一人ずつ思い浮かべていく。
☆
それから私たちは、心当たりのある生徒を探した。けれど、カメラの行方につながる手がかりは、なかなか見つからなかった。
何人かに話を聞くうちに、「八代くんが昼休みに写真部のほうへ行くのを見た」という話が出た。
放課後、私は遥人を探して校内を回った。教室にも、昇降口にもいない。
最後に屋上へ続く階段へ向かうと――踊り場で遥人を見つけた。窓から差し込む夕方の光が、斜めに差し込んでいた。
遥人は古いカメラを両手で持ち、床に置いた、自分自身の姿が写った写真へレンズを向けていた。その横顔には、これまで見たことのない、追い詰められたような緊張が浮かんでいた。
「八代くん」
私が声をかけると、遥人はびくりと肩を震わせた。だが、カメラを下ろそうとはしなかった。
「なんで……」
「聞かないで」
遥人の声は震えていた。
「これで、全部なくなる」
「なんの話」
「俺が、噂を広めたこと。十倉や紗季の記憶から、消えれば」
私はその言葉に息を呑んだ。遥人は、自分自身を写真から消そうとしていた。踊り場の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「なんで、そんなこと」
「自分が悪い人間として残るのが、耐えられない」
遥人の声は、これまでにないほど切迫していた。
「新聞委員として、いろんな真実を暴いてきたつもりだった。でも、自分自身が、誰かを傷つける噂を広めた張本人だったなんて」
その言葉には、深い自己嫌悪が滲んでいた。声の端々に、これまで抑え込んできた苦しさが、堰を切ったように溢れ出ているようだった。
「自分を消せば、全部解決すると思ってる」
「それは違う」
私は遥人に一歩近づいた。階段の踊り場の冷たい空気が、頬に触れる。
「消したところで、私や紗季が受けた傷は、なくならないでしょう」
「でも、少なくとも、俺という存在が、二人の記憶から消えれば」
「それは、解決じゃない」
私は、はっきりと言った。
「紗季が、あなたと同じことを言ってたの」
遥人は、はっとしたように顔を上げた。その瞳に、動揺の色が広がる。
「紗季が、消えたいって、自分から言ったの。あなたと、同じ理由で」
遥人はそれを聞いて、複雑な表情を浮かべた。眉間に深い皺が刻まれる。
「紗季の気持ち、分かる気がする」
遥人は、穏やかに呟いた。
「自分が悪い人間だって認めるより、いなくなったほうが楽だって、思ってしまう」
私はその言葉に、これまで何度も聞いてきた感情を重ねた。志緒里先輩も、美冬も、紗季も、そして今、遥人も。誰もが「消えること」を、罪への贖いの形として考えてしまう。同じ形をした逃げ道に、これほど多くの人が引き寄せられていくことが、私には恐ろしく感じられた。
「自分を消すことは、責任を取ることじゃない」
私は遥人に向かって、はっきりと告げた。声に、これまでにない力がこもっていた。
「責任から、逃げてるだけだよ」
その言葉は、遥人だけでなく、私自身にも向けられているように感じた。もし私が紗季を消したら、それは紗季との過去に向き合うことから、逃げているのと同じなのかもしれない。喉の奥に、その考えが鈍い痛みとなって残った。
遥人は、しばらくカメラを構えたまま動かなかった。
長い沈黙のあと、やがて力が抜けたように腕を下ろした。
「……分かった」
遥人は、カメラを私へ差し出そうとした。だが、その手が滑り、カメラが階段の手すりに軽くぶつかった。
その拍子に、シャッターが半分だけ切れる音がした。乾いた、不自然な音だった。
遥人は慌ててカメラを拾い上げた。ファインダーを覗き込むと、床に置かれた写真の一部が黒く変色して見えた。まるで、火であぶられたような、いびつな染みだった。
「これ……」
私も、その異変に気づいた。カメラ自体が、何か不安定な状態になっているように見えた。手に取ると、いつもより微かに熱を帯びているような気さえした。
☆
部室に戻り、志緒里先輩にその出来事を報告した。窓の外は、すでに夕闇に沈み始めていた。
「カメラの力が、不安定になってる、ってこと?」
志緒里先輩は真剣な表情でカメラを検分した。ひび割れかけた表面を、慎重に指先でなぞっていく。
私はこれまでの出来事を思い返した。
「もしかしたら、これまで色んな人が、色んな願いをこのカメラに向けてきたことが、影響してるのかもしれない」
「影響?」
「美冬さんの願い、志緒里先輩の願い、紗季の願い、そして今、遥人くんの願い。全部が、一つのカメラに集まってる」
口にしてみると、改めて不安が込み上げてきた。胸の奥に、冷たい塊が沈んでいくような感覚だった。
「このまま放っておいたら、どうなるんですか?」
志緒里先輩は、答えられなかった。私たちの誰も、この現象について、まだじゅうぶんな知識を持っていなかった。部室の中に、答えのない沈黙が重く垂れ込めていた。
フィルの姿はその日、どこにも現れなかった。呼びかけても、机の端には、何の気配も感じられなかった。
私は、机の上に置かれた、ひびの入りかけたカメラを見つめながら、これまでにない不安を感じていた。


