消したい人が、写真の中で笑っている

 その週、美冬の様子に、また変化が見え始めていた。
 教室で見かける美冬は、以前よりもさらに物静かになっていた。休み時間、本を読む姿もほとんど見なくなり、ただぼんやりと窓の外を眺めていることが増えていた。その横顔には、何かを探しているような、けれど何を探しているのかも分からない、そんな空白の表情が浮かんでいた。
「久住さん、最近、大丈夫かな」
 日向が心配そうに呟いた。授業中、ふと視線を向けるたびに、美冬の姿が少しずつ輪郭を失っていくような、そんな錯覚を覚えることがあった。
 放課後、美冬が写真部を訪れた。以前会ったときよりも、さらに表情が乏しくなっているように見えた。扉を開けて入ってくるその足取りにも、どこか頼りなさが漂っていた。
「久住さん」
 私が声をかけると、美冬はゆっくりと顔を上げた。その動作の一つ一つが、いつもより緩慢に感じられた。
「十倉さん……最近、変な感じがして」
「変な感じ?」
「自分が何を好きだったのか、分からなくなってきて」
 美冬は机の上に鞄を置き、ゆっくりと椅子に座った。その仕草には、これといった動揺はなく、むしろ淡々とした諦めのようなものが滲んでいた。
「文芸部に入ってたことも、もう思い出せません。何のために入ったのか、そもそも入ってたことすら、自分で確かめないと分からない」
 私は、その言葉に、以前感じた不安が現実になっていくのを感じた。胸の奥が、じわりと冷たくなる。志緒里先輩が言っていた「記憶は糸のようにつながっている」という言葉が、思い出される。
「進路のことも」
 美冬は、続けて言った。視線が、窓の外に向いたまま、どこか焦点の定まらない様子だった。
「私、文学部に進みたいと思ってたはずなんです。でも、なんでそう思ってたのか、理由が思い出せない。だから、本当にそれを望んでいたのかどうかも、分からなくなってきて」
 その声には、これまでのような苦しさとは違う、もっと空虚な響きがあった。苦しみから解放されたはずなのに、代わりに何かを見失っている。まるで、痛みの代償として、自分自身の輪郭の一部を差し出してしまったかのようだった。
「久住さんは、自分が何を好きだったのか、分からなくなるの、怖くない?」
 私が尋ねると、美冬は少し考えてから頷いた。
「怖いです。でも、その怖さすら、はっきりしないんです。何かが足りないって感覚だけがあって、それが何なのか、自分でも掴めない」
 私は、志緒里先輩と日向に目配せをした。三人とも、フィルに何か聞けないかと考えていることは、言葉にしなくても伝わった。部室の空気が、いつもより張り詰めているように感じられた。
               ☆
 そのあと、部室に残った私たちは、フィルを呼び出そうと古いカメラを構えてみた。だが、フィルは簡単には姿を現さなかった。窓の外はすでに暗く、LED照明の白い光だけが、部室の中を照らしていた。
「本気で願う者にしか、現れないんですよね」
 日向が困った顔で言う。
「私たちが呼んでも、駄目なのかな」
 志緒里先輩が、カメラを覗きながら呟いた。しばらく待っていると、机の端にかすかな白い影が現れた。灰白色の羽根が、いつもより淡く、頼りなげに見えた。
「――何を望む」
 フィルの声が、穏やかに響いた。
「久住さんの記憶を、元に戻す方法があるなら、教えてほしい」
 私は真っ直ぐにそう尋ねた。声に、これまでにない切実さが滲んでいるのが、自分でも分かった。
「一度消したものを、完全に元へ戻すことはできない」
 フィルは、いつもの淡々とした口調で答えた。その平坦な響きが、いつもより重く感じられた。
「それは、絶対に無理ってこと」
「完全に、とは言った」
 フィルは、少し間を置いてから続けた。
「ただし、消す前の写真と、誰かが覚えている記憶を手がかりに、失われたつながりを作り直すことはできる」
「作り直す?」
「それは、元通りにすることではない。もう一度、知り直すことだ」
 その言葉は、抽象的だったが、確かに一つの手がかりのように思えた。部室の中に、わずかな希望のような灯りが灯った気がした。
「久住さんが、自分で書いたメモがあります」
 私は、鞄から美冬に預かったメモを取り出した。丁寧な字で書かれた、好きだった本のタイトル、文芸部に入った日のこと、元親友との思い出。紙の端が、少し折れ曲がっているのが見えた。
「これを使えば、何かできるかもしれない」
 フィルは、そのメモをじっと見つめていたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、黙って姿を消していった。フィルは、方法を教えてはくれるが、実際にどうすればいいのかまでは、指示してくれない。それを実行するのは、私たち自身の役目だった。その突き放すような態度に、私はもう慣れ始めていた。
                 ☆
 翌日、私は美冬を放課後の図書室に誘った。窓から差し込む午後の光が、本棚の間を柔らかく照らしていた。
「久住さんが好きだった本、これですよね」
 私は、メモに書かれていたタイトルをもとに、図書室で見つけた本を差し出した。美冬は、その表紙を見て、少し戸惑ったような表情を見せた。指先が、表紙の縁をなぞるように触れる。
「これ……見覚えは、ある気がします。でも、はっきりとは」
「読んでみない?」
 美冬は少し迷ってから本を受け取った。その手つきには、遠い記憶を探るような慎重さがあった。
            ☆
 それから数日、私は美冬にメモに書かれていた出来事を一つずつ話していった。放課後の図書室の隅で、言葉を紡いでいく時間が続いた。
「久住さんが、元親友に誘われて文芸部に入った日のこと」
「相手が、この本を教えてくれたこと」
「傷つけられる前に、救われたこともあったこと」
 美冬はそれらの話をじっと聞いていた。だが、その表情には、記憶が蘇ったような様子は見られなかった。むしろ、他人の昔話を聞いているときのような、穏やかな距離感があった。
             ☆
「不思議です」
 美冬はある日、そう呟いた。
「十倉さんの話を聞いても、それが自分の記憶だっていう感じがしない。まるで、知らない誰かの話を聞いてるみたいで」
 私はその言葉に、少し切なさを感じた。フィルの言った「作り直す」という言葉の意味が、少しずつ分かってきた気がした。元通りに記憶が戻るわけではない。ただ、新しい形で、その事実を知り直すことしかできないのだ。それは、失われたものへの供養にも似た、静かな作業だった。
「それでも」
 美冬は続けて言った。
「知らない誰かの話として、この本を読んでみようと思います」
 美冬は渡した本を少しずつ読み始めた。最初は義務のように、機械的にページをめくっているだけのようだった。だが、日を追うごとに、その様子が変わっていくのが分かった。休み時間、ふと目をやると、いつの間にかその手つきに柔らかさが戻り始めていた。
           ☆
「この本、面白いです」
 さらに数日後、美冬は、少し明るい表情でそう言った。
「自分の記憶としてじゃなくて、初めて読む本として、面白いと思えました」
 私は、その言葉に、少しほっとした。胸の奥に、じわりとあたたかいものが広がる。
「文芸部のこと、覚えてはいないですけど、もし、また入りたいって思ったら、それは、昔の自分と同じ気持ちなのか、今の自分が新しく決めたことなのか、よく分からないですね」
 その問いに、私は明確な答えを持っていなかった。だが、美冬自身が、それを問い直していること自体が、大切なことのように思えた。答えの出ない問いを、それでも自分の言葉で抱え続けようとする、その姿勢が眩しかった。
「久住さんは、元親友のこと、もう一度好きになりたい?」
 私が尋ねると、美冬は少し考えてから、はっきりと首を横に振った。
「それは、違います」
「違う?」
「あの人のこと、もう一度好きになる必要はないと思います」
 美冬は穏やかに続けた。窓から差し込む光が、その横顔をやわらかく照らしている。
「でも、あの人と出会って生まれた、自分の一部は、取り戻したいです」
 その言葉は、明確で力強かった。相手を許すことや、再び好きになることとは別に、その出会いによって形作られた自分自身を、取り戻したいという願い。それは、消された記憶に対する、美冬なりの答えのように思えた。
「本を読み直すのも、その一部?」
「はい。たぶん」
 美冬は、少し微笑んだ。以前のような苦しそうな表情とは違う、落ち着いた笑顔だった。その笑みには、まだ少し頼りなさが残っていたが、確かな芯のようなものも感じられた。
             ☆
 そのあと、部室で志緒里先輩と日向に、美冬の様子を報告した。窓の外は、すでにすっかり夜の色に沈んでいた。
「元通りにはならないけど、少しずつ、何かが戻ってきてるみたい」
「よかった」
 日向が、ほっとした表情を見せた。その安堵の色が、部室にわずかな明るさをもたらした。
「でも」
 志緒里先輩の声のトーンが、いつもより落ち着いていた。
「これって、十倉が紗季さんとのことを考えるときにも、大事なヒントになるんじゃない」
 私はその言葉に、はっとした。心臓のあたりに鈍い緊張が走る。もし紗季を消してしまったら、美冬と同じように私自身の何かも失われるかもしれない。そして、たとえあとで気づいたとしても、完全に元へ戻すことはできない。
 消すことは、決して簡単な解決策ではない。それを、美冬の姿を通して私は改めて実感していた。
 机の上のカメラは、いつものようにひっそりとそこにあった。だが、その重みは手に取ることさえ、今は少し躊躇われるほどだった。