消したい人が、写真の中で笑っている

 数日後、卒業アルバム用に不足している写真を撮るため、私は放課後の校内を回っていた。
 私は何枚か撮影したあと、図書室へ向かった。
 窓際の机に、三年生の女子生徒が一人で座っていた。
 以前にも何度か見かけたことがある。いつもなら、同じクラスらしい女子生徒と二人でいることが多かった。
 今日は一人だった。
 机の上には開いた参考書が置かれているが、ほとんど読んでいる様子はない。頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺めていた。
 卒業前の日常風景としては悪くないと思い、私は少し離れたところからデジカメを構えた。
 ファインダーの中に、その横顔を収める。
 シャッターへ指をかけたときだった。
「ごめん。今日は撮らないで」
 女子生徒がこちらを見た。
 私は慌ててデジカメを下ろした。
「すみません」
「ううん。写真部でしょう? 卒アルのやつ」
「はい」
「別に、写真が嫌いなわけじゃないんだけど」
 彼女はそう言ってから、隣の空いた椅子へ視線を向けた。
「今日は、残したくない日だから」
 その言葉に、私は少しだけ動きを止めた。
「分かりました」
 それ以上、理由は聞かなかった。
 デジカメを下げ、その場を離れようとする。
「聞かないの?」
 背後から声がした。
 振り返ると、女子生徒は少し意外そうな顔をしていた。
「何をですか?」
「なんで撮られたくないのか」
「話したくないなら、聞かなくてもいいかなって」
 私が答えると、彼女はしばらく黙った。
「写真部の人って、もっと『卒アルに必要だから』とか言うのかと思ってた」
「嫌だって言われたのに撮ったら、写真部じゃなくて盗撮になるので」
 思わずそう答えると、彼女が小さく笑った。
「それはそうだね」
 その笑いはすぐに消えた。
 女子生徒は、空いている隣の椅子を指先で軽く叩いた。
「友達と喧嘩したの」
 私は何も言わなかった。
「三年間、ほとんどずっと一緒だった子。卒業旅行も一緒に行こうって話してたんだけど、昨日、すごい喧嘩して」
 彼女は苦笑した。
「卒業まであと少しなのに、最悪でしょう」
「そうですね」
「そこは否定してよ」
「でも、最悪だと思ってるんですよね」
「……まあね」
 女子生徒は、また少し笑った。
 その表情を見て、私はデジカメへ手を伸ばしかけて、やめた。
 今は撮らないでと言われたばかりだ。
「今日写真を撮ったら」
 彼女は続けた。
「あとで見たとき、この喧嘩のこと思い出しそうで嫌なんだ」
 私はその言葉を聞きながら、紗季のことを考えていた。
 写真を見るだけで、思い出すことがある。
 声。場所。そのとき感じていたこと。一枚の写真が、写真そのものよりずっと多くのものを連れてくることがある。
 私はそれを知っている。
「じゃあ、今日は撮りません」
「うん。ありがとう」
 私は図書室を出た。
 廊下へ出ると、デジカメがいつもより少し重く感じられた。
 残したくない日。
 その言葉が、しばらく頭から離れなかった。
        ☆
 それから二日後。
 放課後、写真部へ戻ろうとしていると、廊下の向こうから誰かに呼び止められた。
「あ、写真部の子」
 振り返ると、先日の女子生徒だった。
 今日は一人ではなかった。隣に、もう一人女子生徒が立っている。おそらく、喧嘩したと言っていた友人なのだろう。二人の間には、少し妙な距離があった。肩が触れるほど近くもなく、かといって他人のように離れているわけでもない。
「あの」
 先日の女子生徒が、少し言いにくそうに口を開いた。
「今日、撮ってもらってもいい?」
「仲直りしたんですか」
 私が尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「いや」
「してない」
 二人がほとんど同時に答えた。
「してないんですか」
「話はしたけど」
 もう一人の女子生徒が言った。
「まだちょっと腹立ってる」
「私も」
「じゃあ、なんで一緒にいるの」
「帰る方向同じだから」
「それだけ?」
「それだけ」
 二人はまた顔を見合わせた。
 その様子が少しおかしくて、私は思わず笑いそうになった。
「それでも写真、撮るんですか」
「うん」
 先日の女子生徒が頷いた。
「昨日までは、喧嘩した日のことなんて残したくないと思ってたんだけど」
 そこで一度、言葉を切った。
「でも、卒業したあとになったら、こういうのも高校生活だったって思うのかなって」
「喧嘩したことが?」
「うん」
 彼女は少し考えた。
「別に、喧嘩してよかったとは思わないよ」
「私も思わない」
 隣の友人が即座に言った。
「でも、なかったことにしたいかって言われたら、それも違うかな」
 私は何も答えなかった。その言葉が、胸の中のどこかへ引っかかった。
「だから」
 彼女は少し照れくさそうに続けた。
「今の二人を、一枚だけ撮ってほしい」
「分かりました」
 私はデジカメを構えた。
 二人は並んだ。けれど、肩を寄せたりはしなかった。
 少しだけ間が空いている。
「もっと近づきます?」
 私が尋ねると、
「このままでいい」
 二人がまた同時に答えた。
 私はファインダーを覗いた。少し離れて立っている二人。どちらも満面の笑顔ではない。一人は少し気まずそうにしていて、もう一人は口元をわずかに緩めている。
 綺麗な記念写真とは言えないかもしれない。
 それでも、今の二人を残すなら、この距離のままのほうがいいように思えた。
「撮ります」
 シャッターを切った。乾いた音が、夕方の廊下に響く。
「見せて」
 二人が近づいてくる。
 画面を確認すると、最初に声をかけてきた女子生徒が小さく笑った。
「変な写真」
「消しますか?」
「ううん」
 彼女は首を横に振った。
「これでいい」
 隣の友人も頷いた。
「今こんな感じだしね」
「何、その言い方」
「事実じゃん」
「また喧嘩する?」
「今日はやめとく」
 二人はそんなことを言いながら、並んで廊下を歩いていった。
 私は、その背中をしばらく見送った。
 仲直りしたわけではない。怒りが消えたわけでもない。それでも二人は、今の関係を写真に残すことを選んだ。
 私はデジカメの画面をもう一度確認した。
 少し離れて立つ二人。その間にある空白まで、写真には確かに写っているような気がした。
 もし私だったら。
 そこまで考えて、やめた。
 あの二人の答えは、あの二人のものだ。
 志緒里先輩が葵を消さなかったことも。今の二人が、喧嘩したまま写真を残したことも。その答えを、そのまま自分と紗季に当てはめることはできない。
 紗季を許せない気持ちは、まだ消えていなかった。真相を知ったからといって、傷ついた過去が綺麗になるわけでもない。
 ただ一つだけ。
 残すということは、綺麗になったものだけを選ぶことではないのかもしれない。
 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
 私は答えを出さないまま、デジカメを鞄にしまった。