消したい人が、写真の中で笑っている

 その日の夜、私は自分の部屋の机の上に、部室から持ち帰った卒業アルバム用の写真候補をまとめたUSBメモリを置いていた。
 志緒里先輩のことが一段落したからといって、写真部の仕事まで待ってくれるわけではない。卒業アルバムの締め切りは少しずつ近づいている。
 家のパソコンを立ち上げ、候補写真を確認していく。
 文化祭。体育祭。校外学習。球技大会。
 画面を切り替えるたびに、一年間の出来事が並んでいった。
 その中に、見覚えのないフォルダが一つ混じっていることに気づいた。
「これ……」
 開いてみる。
 去年の写真だった。写真部で使っていた古いデータを整理したとき、間違って一緒にコピーしてしまったらしい。
 高校一年生の春。
 入学式。遠足。文化祭。今より少し幼い顔をしたクラスメイトたちが、画面の中で笑っている。そして、その中には当然のように紗季もいた。
 私はマウスを動かす手を止めた。
 今とは違う。そう思った。写真の中の紗季は、今より少し髪が短い。制服もまだ着慣れていないようで、リボンの位置が微妙に曲がっている。
 隣には私がいた。今より少し短い黒髪で、紗季のほうへわずかに身体を寄せている。二人で同じ方向を向き、笑っている。 
 何がそんなに面白かったのか、今となっては思い出せない。
 それでも、写真の中の私は確かに楽しそうだった。
 私は次の写真を開いた。また紗季がいる。今度は教室で、私がカメラを構えているところを、横から撮られた写真だった。紗季は私の肩越しに画面を覗き込みながら、笑っている。
 次。
 購買の前。二人でパンを持っている。
 次。
 文化祭準備。床に座り込んで、色紙を切っている。
 何枚見ても、そこには紗季がいた。
 私は、いつの間にかマウスから手を離していた。
 中学から高校一年生の冬まで、ほとんど毎日のように一緒にいた。
 頭では分かっている。それなのに最近は、紗季との記憶を思い出そうとすると、どうしても最後の出来事ばかりが浮かんでしまう。
 秘密が広まった日。誰も私と目を合わせなくなった教室。
 その向こうで、誰かと話していた紗季。
 それだけが強く残り、それ以前の時間を全部押しつぶしていた。
 私はフォルダを閉じようとした。
 けれど、一枚の写真が目に入った。
 中学の卒業式だった。
 どうして高校の写真データの中に混じっているのか分からない。おそらく、以前私がパソコンへ取り込んだものなのだろう。
 校門の前で、私と紗季が並んでいる。二人とも卒業証書の筒を持っていた。
 紗季は私のほうへ少し身体を寄せている。私はカメラに向かって笑っていた。
 その写真を見た瞬間、何かを思い出した。
「あ……」
 私は椅子から立ち上がり、机の本棚に手を伸ばした。
 ページをめくると、同じ写真が見つかった。
 何となく写真を取り出し、裏返す。そこには、紗季の字で短い言葉が書かれていた。
『高校でも、いっぱい写真撮ろうね』
 私はしばらく、その文字を見つめていた。
 忘れていた。卒業式の日、紗季が勝手に書いたのだった。
「未桜は絶対、写真部入るでしょ」
「まだ決めてない」
「絶対入るよ」
「なんで決めつけるの」
「だって未桜、写真撮ってるとき一番楽しそうだから」
 そんな会話をした。
 記憶が、思っていたよりはっきり蘇ってきた。
 あのとき私は、少し嬉しかった。自分でもまだ分かっていなかったことを、紗季だけが分かっているような気がしたからだ。
 私は写真を机の上へ置いた。今の紗季を好きかと聞かれたら、好きだとは答えられない。むしろ、嫌いだと思う。顔を見るだけで腹が立つこともある。
 話しかけられれば身構える。何を言われても、裏に別の意味があるような気がしてしまう。それでも。この写真に写っている紗季まで嫌いなのかと聞かれたら、答えられなかった。
「ずるい」
 思わず、声に出していた。
 楽しかったころの写真なんて、残っていなければよかった。
 そうすれば、もっと簡単に嫌いになれたかもしれない。
 秘密を守ってくれなかった人。
 私を一人にした人。そういう人だったと決めてしまえばよかった。
 なのに写真の中には、そうではなかった時間まで残っている。
 私が笑っている。紗季も笑っている。どちらも嘘だったとは思えない。
「まだ見ているのか」
 聞き慣れた声がした。机の端を見ると、フィルが立っていた。
 灰白色の羽根を小さく揺らしながら、机の上の写真を見下ろしている。
「勝手に出てこないで」
「呼ばれてはいない」
「じゃあ帰って」
「それも私が決める」
 相変わらず平坦な声だった。
 私は写真を裏返した。
「何か言いたいんでしょう」
「何も」
「嘘」
「私は嘘をつく必要がない」
 フィルはそう答えたあと、しばらく黙っていた。
 その沈黙がかえって気になった。
「……何」
 私から尋ねると、フィルは机の上の写真へ視線を向けた。
「その写真の人物を、お前は消したいのか」
 私はすぐには答えなかった。
「今の紗季なら」
「写真の中の人間と、今のお前が嫌っている人間は、同じ人物だ」
「分かってる」
「本当に?」
 思ったより腹が立った。
「分かってるって言ってるでしょう」
 私は写真を掴んだ。
「人は変わるでしょう。昔は好きだった。でも今は嫌い。それだけじゃ駄目なの?」
「駄目だとは言っていない」
「じゃあ何」
「お前が二人を別の人間のように扱っているから、確認しただけだ」
 私は言葉に詰まった。
「昔のお前を笑わせた紗季も、お前を傷つけた紗季も、同じ一人だ」
「……そんなこと」
「分かっている?」
 また同じ問いだった。
 私は答えられなかった。分かっているつもりだった。でも本当は、分けて考えようとしていたのかもしれない。
 優しかった紗季。私を裏切った紗季。
 どちらかが本当で、どちらかが間違いだったと思いたかった。
 そうでなければ、自分の感情をどう整理すればいいのか分からない。
「人って、そんなに綺麗に分けられないのかな」
 私は小さく呟いた。
 フィルは答えなかった。
 写真の裏には、『高校でも、いっぱい写真撮ろうね』という紗季の字が残っている。
 私はもう一度表へ返した。
 二人とも笑っている。このころの私は、数年後に紗季を消したいと思う自分がいるなんて、想像もしなかっただろう。
 反対に、今の私は、この写真に写っている自分の気持ちを、完全には否定できない。
「もし消したら」
 私はフィルを見た。
「この写真のことも忘れる?」
「可能性はある」
「紗季が、私に写真部を勧めたことも?」
「紗季と結びついた記憶であるなら」
 私は写真を持つ指に、少し力を込めた。
 それ以上は聞かなかった。
 フィルも何も言わなかった。
 しばらくすると、その姿はいつの間にか机の上から消えていた。
 私は写真をアルバムへ戻そうとして、手を止めた。
 結局、その一枚だけは戻さなかった。
 机の端に置いたまま、もう一度パソコンへ向かう。
 卒業アルバム用の写真を選ばなければならない。
 残す写真と、残さない写真。さっきまでは単純な作業だと思っていた。けれど今は、その境界が少しだけ曖昧に見えた。何を残して、何を消すのか。
 写真なら、選べばいい。けれど人との記憶は、そんなに簡単に切り分けられるものなのだろうか。
 私は答えを出せないまま、その日の作業を終えた。
 机の上には、中学の卒業式の写真が一枚だけ残っていた。
 笑っている私と、笑っている紗季。
 その二人を見ていると、「嫌い」という言葉だけでは説明できない何かが、まだ自分の中に残っているような気がした。
 けれど、それが何なのかを考えるのは、まだ少し怖かった。

 翌日の放課後。
 部室で卒業アルバム用の写真整理を終え、鞄にカメラをしまいながら廊下を歩いていると、下駄箱のあたりに人影が見えた。夕方の光が、廊下の床に長く伸びていた。
 紗季だった。昨夜見つけた、中学の卒業式の写真が頭に浮かんだ。
 笑っている私と、笑っている紗季。写真の裏に残されていた、「高校でも、いっぱい写真撮ろうね」という文字。
 私は反射的に、その記憶を頭の奥へ押し戻した。
 目の前にいるのは、写真の中の紗季ではない。
 そう思ったのに、昨夜までなら簡単に引けたはずの境界が、今は少しだけ曖昧になっていた。
 私に気づくと、紗季は一歩、こちらへ近づいてきた。夕方の薄暗い廊下に、二人だけが立っている。空気が、いつもより張り詰めているように感じられた。
「未桜、少し、話せる?」
 私は警戒しながらも足を止めた。
「何」
 紗季は、いつになく強張った表情をしていた。何かを決意してきたような、そんな顔だった。その表情には、これまで見たことのない、覚悟に似た色が浮かんでいた。
「お願いがあるの」
「お願い?」
 紗季は、大きく息を吸ってから、言葉を続けた。その一呼吸の間が、やけに長く感じられた。
「私を、そのカメラで消してほしい」
 私は、その言葉に一瞬、何を言われたのか理解できなかった。頭の中が、真っ白になる。
「……何言ってるの」
「本気だから」
 紗季の声は震えながらも、はっきりとしていた。
「未桜の記憶から、私を消してほしい」
 廊下の窓から差し込む夕陽が、紗季の顔を橙色に染めていた。その表情には、これまで見たことのない、確かな覚悟のようなものが浮かんでいた。逃げるのでも、誤魔化すのでもない、まっすぐな瞳が、私を見つめていた。
 私は、鞄の中に入れたばかりのカメラの重さを、あらためて感じていた。志緒里先輩から受け取ったばかりのそれを、今度は紗季自身が望んでいる。まるで、手放されたばかりの重荷が、また別の誰かの手によって、こちらへ押し戻されてくるような感覚だった。
 答えを持たないまま、私はただ、紗季の顔を見つめ返すことしかできなかった。夕陽の色が、少しずつ濃くなっていく廊下で、二人の影だけが長く伸びていた。