翌朝。
北見は、数学の問題集を広げたまま、自室の机に突っ伏していた。
勉強用にと防音をしつらえた部屋で、集中しすぎてしまったのかもしれない。
着替えを持って部屋を出ると、ソファにうつぶせで誰かが倒れていた。
ギクリとした。
全裸の女性。ゆるく巻いた髪の、よく知ったーー
「キョーコさん?!」
一瞬、死んでいるように見えて喉元に恐怖がせり上がった。髪を掻き分けると、まぶたがピクリと動き、安堵する。
北見は部屋を見回した。他には誰もいない。
キョーコがこんな所で裸で寝るわけがない。一晩中ここで倒れていたのか?
やられたんだ! こんなことをする人間は一人しかいない。
ざっと体に目を走らせる。痣はない。
濡れたハンドタオルが一枚床に落ちている。口を塞がれた?……ただ、今はそれどころじゃない。
自室のベッドから1枚布団を剥いで、キョーコに掛ける。キッチンに行き、震える手でコップに水道水を注ぐ。
ああ、前もこんなことがあった。思い出せない、思い出したくない。
ーー暑い日だった。
突然連れていかれた長野の田舎。
キョーコと、知らない女と知らない子供。蛇口からでる水は、夏でも冷たかった。
小さかった自分は踏み台に乗って水をコップに汲み、必死に運んだ。
台所の網戸にはバッタが張り付いていた。網戸の向こうはブドウ棚で、その下には井戸があった。
あの頃の自分は無力で、見ていることしかできなかった。
ーー記憶は掴めぬまま消える。
空調のかすかな音に引き戻される。
「大丈夫? これ飲んで」
キョーコの隣に膝をつき、口元に水を運ぶ。キョーコは顔を上げかけて、またソファに沈む。
「無理しなくていいから。他は? ああ、そうだ、冷たいタオル……」
コップをテーブルに置き、タオルを絞りにいく。また過去と現在が混ざり合う。
ーータオルの場所は……。
洗面所の棚の下。
地元の商店街で貰った薄いタオルは、5歳の力でも絞りやすい。
棚を開ける。
……そこにあったのは、父親の愛人たちのメイク用品だった。そうだ。ここは違う。
タオルの置き場所は違う。
ここは、あの平屋の古民家じゃない、都会のマンションだ。
ようやく見つけて、水で絞る。
* * *
リビングに戻ると、既にキョーコが体を起こしていた。
北見はクローゼットをあさり、キョーコの服を取ってきた。
キョーコが着替え始めたのを見て、キッチンに向かう。
「あのさ……」
着替え終わったキョーコに、北見はマグカップに入ったホットミルクを渡した。
キョーコはそれを両手で温めるように持つ。
親父にやられた? 何があった?
聞きたいのに、言葉が喉に詰まる。
聞いてしまうとなにか恐ろしいものから逃げられなくなるような気がして、こぶしを握り締める。
キョーコも黙っている。
昨日の饒舌な様子は一切なく、目を伏せてミルクを少しずつ口にしている。
北見は、テレビをつけた。日常を取り戻して、何も起こらなかったことにしたかった。テレビから朝のニュースが流れる。
手が震えているのに気がついた。止められない。今年初めて30度を超えそう、とアナウンサーが明るく話している。
落ちつけ!
落ち着け!大丈夫だ。恐怖を克服しろ。
超える必要はない。
そのものになってしまえばいい。
北見は手を白くなるまで握りしめる。
そんな北見を見て、キョーコが小さく、しかしはっきりと告げた。
「貴方はお父さんにならなくていい」
北見が目を見開く。息を止める。
キョーコは強い意思を持って、北見にはっきりと目を向けた。
「私が守るから」
* * *
キョーコは瞬きもせず見つめる。
白くなるまで握りしめられていた北見の手から、ゆっくりと力が抜けていく。
二度は、逃げない。
北見は、数学の問題集を広げたまま、自室の机に突っ伏していた。
勉強用にと防音をしつらえた部屋で、集中しすぎてしまったのかもしれない。
着替えを持って部屋を出ると、ソファにうつぶせで誰かが倒れていた。
ギクリとした。
全裸の女性。ゆるく巻いた髪の、よく知ったーー
「キョーコさん?!」
一瞬、死んでいるように見えて喉元に恐怖がせり上がった。髪を掻き分けると、まぶたがピクリと動き、安堵する。
北見は部屋を見回した。他には誰もいない。
キョーコがこんな所で裸で寝るわけがない。一晩中ここで倒れていたのか?
やられたんだ! こんなことをする人間は一人しかいない。
ざっと体に目を走らせる。痣はない。
濡れたハンドタオルが一枚床に落ちている。口を塞がれた?……ただ、今はそれどころじゃない。
自室のベッドから1枚布団を剥いで、キョーコに掛ける。キッチンに行き、震える手でコップに水道水を注ぐ。
ああ、前もこんなことがあった。思い出せない、思い出したくない。
ーー暑い日だった。
突然連れていかれた長野の田舎。
キョーコと、知らない女と知らない子供。蛇口からでる水は、夏でも冷たかった。
小さかった自分は踏み台に乗って水をコップに汲み、必死に運んだ。
台所の網戸にはバッタが張り付いていた。網戸の向こうはブドウ棚で、その下には井戸があった。
あの頃の自分は無力で、見ていることしかできなかった。
ーー記憶は掴めぬまま消える。
空調のかすかな音に引き戻される。
「大丈夫? これ飲んで」
キョーコの隣に膝をつき、口元に水を運ぶ。キョーコは顔を上げかけて、またソファに沈む。
「無理しなくていいから。他は? ああ、そうだ、冷たいタオル……」
コップをテーブルに置き、タオルを絞りにいく。また過去と現在が混ざり合う。
ーータオルの場所は……。
洗面所の棚の下。
地元の商店街で貰った薄いタオルは、5歳の力でも絞りやすい。
棚を開ける。
……そこにあったのは、父親の愛人たちのメイク用品だった。そうだ。ここは違う。
タオルの置き場所は違う。
ここは、あの平屋の古民家じゃない、都会のマンションだ。
ようやく見つけて、水で絞る。
* * *
リビングに戻ると、既にキョーコが体を起こしていた。
北見はクローゼットをあさり、キョーコの服を取ってきた。
キョーコが着替え始めたのを見て、キッチンに向かう。
「あのさ……」
着替え終わったキョーコに、北見はマグカップに入ったホットミルクを渡した。
キョーコはそれを両手で温めるように持つ。
親父にやられた? 何があった?
聞きたいのに、言葉が喉に詰まる。
聞いてしまうとなにか恐ろしいものから逃げられなくなるような気がして、こぶしを握り締める。
キョーコも黙っている。
昨日の饒舌な様子は一切なく、目を伏せてミルクを少しずつ口にしている。
北見は、テレビをつけた。日常を取り戻して、何も起こらなかったことにしたかった。テレビから朝のニュースが流れる。
手が震えているのに気がついた。止められない。今年初めて30度を超えそう、とアナウンサーが明るく話している。
落ちつけ!
落ち着け!大丈夫だ。恐怖を克服しろ。
超える必要はない。
そのものになってしまえばいい。
北見は手を白くなるまで握りしめる。
そんな北見を見て、キョーコが小さく、しかしはっきりと告げた。
「貴方はお父さんにならなくていい」
北見が目を見開く。息を止める。
キョーコは強い意思を持って、北見にはっきりと目を向けた。
「私が守るから」
* * *
キョーコは瞬きもせず見つめる。
白くなるまで握りしめられていた北見の手から、ゆっくりと力が抜けていく。
二度は、逃げない。



