天気のいい日曜日。
神楽はベランダから、隣の公園を見下ろしていた。
緑の梢が揺れている。虫取り網を持って走り回る子供たち。
ーーこんなにも眩しいのに。
神楽の胸の内は重かった。手すりを握る指先に力がこもる。
転校初日のことを思い出す。
あの日もこんなふうによく晴れていた。
担任について教室に入ると、視線が集まった。
自己紹介をしかけたところで、「はい」と、突然一人の男子生徒の手があがった。
一瞬、血の気が引くような感覚があった。
聞き覚えのある声。なんだ?
窓際の席の、真ん中あたり。
前髪の間から鋭いまなざしでこちらを観察している男子生徒。少し冷たい感じのする鼻の高い顔立ちに見覚えがあった。
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
『北見玲です。もっと神楽さんを知りたいです。英語で一分間スピーチをお願いします』
北見!!
衝撃で声を出しそうになった。が、ぐっと堪える。
でも、やっぱりと思った。
そっくりじゃないか。人を上から押さえつけるような話し方も、彼の父親に。
そしてーーそれは自分の戸籍上の父親でもあった。
血のつながりのない、義理の父親。
* * *
始まりは、母の結婚だった。
母は自分が五歳の頃に、自分を連れて北見の父と結婚した。しかし、父と一緒に暮らしたことはない。
記憶にあるのは、時折母と住む長野を訪ねてくる父の姿だけ。
『お父さんが来るよ』
母のはずんだ声がどれほど嫌だったか!
父のいる間はいつも完璧に、従順に振る舞わねばならない。緊張して眠れなかった。
兄弟の存在を知らされたのは、中学生になってから。
『おない年よ。北見玲くん。お父さんと一緒に暮らしてる。小さい頃に会ってるんだけどね』
そう言われても、よく思い出せなかった。
あの父の血を引いている子供など会いたくない、としか思えなかった。
そして、会うこともないだろうと思っていた。
ところが地元の高校に進学して半年も過ぎた頃。
長野の家を訪ねてきた父に、突然言われた。
「そろそろ長野を出てこちらの高校に通いなさい」
反射的に思った。
絶対に嫌だ!
「それは……」
反論しかけた瞬間、低い声がかぶさった。
「両手を出せ」
体が硬直した。反論してはいけないのだ。
正座した膝の前に両手を差し出すしかなかった。
骨がきしむほど握られる。
悲鳴を飲み込む自分を見下ろし、父は静かに笑った。
「……こんな手じゃ田舎で何もできないよ」
そう言ってさらに手に力をこめた。思い出すだけで冷や汗が噴き出す。
母に視線を向けると、何も気づいていないような軽い調子で『都会に出よう、お父さんともう一度家族を作ろう』と言った。
ただ、転校先もマンションも決まり、引っ越しをする直前。
母が『お父さんと出会う前からやり直す』と、突然離婚した。
しかも『私はお父さんのそばに住む。あなたは一人暮らしして』と放り出された。
ーーあの父、あの母から離れて、神楽涼として新しい生活を始められる!
そう胸を弾ませていたのに。
まさか転校先の高校に北見玲がいるなんて!!
* * *
公園の歓声が大きくなった。おにごっこが始まったようだ。
小学生くらいの子が散っていく。その様子は、田舎も都会も変わらない。
北見玲は、クラスでも目立つ生徒でーー本人は愛想のかけらもないのに、周囲からはよく声をかけられていた。
「北見」
「北見くーん」
「おーい、北見ぃ」
北見が呼ばれるたび、自分が呼ばれたのかと体が反応してしまう。そんな自分に嫌気がさす。
もう北見ではない、忘れたいのに。
だが、親のことは子供には関係ない。
そう理性で割り切って、北見にこちらから関わろうとしたこともあった。
たまたま席が隣同士になり、距離を縮めるチャンスだと思った。
幸い北見は、自分の存在を知らないと父に聞いた。
単なるクラスメイトとして接すればいい。
でも、すぐに諦めた。関わりをもちたくなるような奴じゃない。
父親に似た長身、低い声と威圧的な話し方が、幼いころから植え込まれている恐怖と重なり心臓の鼓動をあげる。機嫌を損ねないよう、背筋を伸ばして正座して食事をするあの感覚。
シャー芯を入れ替える手を隣からじっと見られて、緊張のあまり汗がにじんだ。
ーー!!
痛みの記憶に支配される。
手が触れただけでキーホルダーを落としてしまった。
もう小さな子供じゃない。怖がる必要なんてないのに。
それなのに彼は、転入してきたばかりの自分に英語のスピーチを振ってきた。
内心動揺して、話すつもりもなかった苗字が変わったことまで口にしてしまった。
冷静に考えれば、うまく断ることだってできたのに。
選択肢を考える余裕を与えず、人に命令する態度。
そういう身勝手さが、
ーー嫌いだ。
神楽はベランダから、隣の公園を見下ろしていた。
緑の梢が揺れている。虫取り網を持って走り回る子供たち。
ーーこんなにも眩しいのに。
神楽の胸の内は重かった。手すりを握る指先に力がこもる。
転校初日のことを思い出す。
あの日もこんなふうによく晴れていた。
担任について教室に入ると、視線が集まった。
自己紹介をしかけたところで、「はい」と、突然一人の男子生徒の手があがった。
一瞬、血の気が引くような感覚があった。
聞き覚えのある声。なんだ?
窓際の席の、真ん中あたり。
前髪の間から鋭いまなざしでこちらを観察している男子生徒。少し冷たい感じのする鼻の高い顔立ちに見覚えがあった。
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
『北見玲です。もっと神楽さんを知りたいです。英語で一分間スピーチをお願いします』
北見!!
衝撃で声を出しそうになった。が、ぐっと堪える。
でも、やっぱりと思った。
そっくりじゃないか。人を上から押さえつけるような話し方も、彼の父親に。
そしてーーそれは自分の戸籍上の父親でもあった。
血のつながりのない、義理の父親。
* * *
始まりは、母の結婚だった。
母は自分が五歳の頃に、自分を連れて北見の父と結婚した。しかし、父と一緒に暮らしたことはない。
記憶にあるのは、時折母と住む長野を訪ねてくる父の姿だけ。
『お父さんが来るよ』
母のはずんだ声がどれほど嫌だったか!
父のいる間はいつも完璧に、従順に振る舞わねばならない。緊張して眠れなかった。
兄弟の存在を知らされたのは、中学生になってから。
『おない年よ。北見玲くん。お父さんと一緒に暮らしてる。小さい頃に会ってるんだけどね』
そう言われても、よく思い出せなかった。
あの父の血を引いている子供など会いたくない、としか思えなかった。
そして、会うこともないだろうと思っていた。
ところが地元の高校に進学して半年も過ぎた頃。
長野の家を訪ねてきた父に、突然言われた。
「そろそろ長野を出てこちらの高校に通いなさい」
反射的に思った。
絶対に嫌だ!
「それは……」
反論しかけた瞬間、低い声がかぶさった。
「両手を出せ」
体が硬直した。反論してはいけないのだ。
正座した膝の前に両手を差し出すしかなかった。
骨がきしむほど握られる。
悲鳴を飲み込む自分を見下ろし、父は静かに笑った。
「……こんな手じゃ田舎で何もできないよ」
そう言ってさらに手に力をこめた。思い出すだけで冷や汗が噴き出す。
母に視線を向けると、何も気づいていないような軽い調子で『都会に出よう、お父さんともう一度家族を作ろう』と言った。
ただ、転校先もマンションも決まり、引っ越しをする直前。
母が『お父さんと出会う前からやり直す』と、突然離婚した。
しかも『私はお父さんのそばに住む。あなたは一人暮らしして』と放り出された。
ーーあの父、あの母から離れて、神楽涼として新しい生活を始められる!
そう胸を弾ませていたのに。
まさか転校先の高校に北見玲がいるなんて!!
* * *
公園の歓声が大きくなった。おにごっこが始まったようだ。
小学生くらいの子が散っていく。その様子は、田舎も都会も変わらない。
北見玲は、クラスでも目立つ生徒でーー本人は愛想のかけらもないのに、周囲からはよく声をかけられていた。
「北見」
「北見くーん」
「おーい、北見ぃ」
北見が呼ばれるたび、自分が呼ばれたのかと体が反応してしまう。そんな自分に嫌気がさす。
もう北見ではない、忘れたいのに。
だが、親のことは子供には関係ない。
そう理性で割り切って、北見にこちらから関わろうとしたこともあった。
たまたま席が隣同士になり、距離を縮めるチャンスだと思った。
幸い北見は、自分の存在を知らないと父に聞いた。
単なるクラスメイトとして接すればいい。
でも、すぐに諦めた。関わりをもちたくなるような奴じゃない。
父親に似た長身、低い声と威圧的な話し方が、幼いころから植え込まれている恐怖と重なり心臓の鼓動をあげる。機嫌を損ねないよう、背筋を伸ばして正座して食事をするあの感覚。
シャー芯を入れ替える手を隣からじっと見られて、緊張のあまり汗がにじんだ。
ーー!!
痛みの記憶に支配される。
手が触れただけでキーホルダーを落としてしまった。
もう小さな子供じゃない。怖がる必要なんてないのに。
それなのに彼は、転入してきたばかりの自分に英語のスピーチを振ってきた。
内心動揺して、話すつもりもなかった苗字が変わったことまで口にしてしまった。
冷静に考えれば、うまく断ることだってできたのに。
選択肢を考える余裕を与えず、人に命令する態度。
そういう身勝手さが、
ーー嫌いだ。



