泣いたら井戸に入れられた

放課後の教室。
北見が職員室から戻ると、数組のグループが残ってしゃべっていた。
神楽もいる。机に腰かけて中心で笑っている。

北見は黙って自分の机にいき、テキストをカバンに詰め込む。

「あはは、神楽マジおもしれーな」

背後から聞こえるクラスメイトの声が妙に気に障る。

ーーさっさと塾に行こう。

カバンをぱちんと閉めたところで、教室に入ってきた女子に声をかけられた。

「きーたみ! 理科のノート運ぶの手伝ってよ」

「……」

ーーこれから塾なのに。あっちの暇そうな奴に頼めよ。

北見が神楽のグループを見ると、こちらを振り返った神楽と目があった。神楽はにこっと愛嬌のある笑顔を見せてから、視線を戻す。

神楽が来てから一週間が過ぎている。全く話していないが、それでいい。
女子も神楽に目を止めた。

「ラッキー、神楽くんも残ってるじゃん。神楽くんに頼もうかな」

「どうぞ」

「あ、私が神楽くん選んだの、不満? バチバチだもんねっ」

にやっと笑った女子を無視してカバンを引っかけて去ろうとすると、とんっと肩を叩かれる。小さな声で楽しそうに言われる。

「でもね、神楽くんも北見のこと、けっこう気にしてるよ! さっき北見呼んだ時も、ぴくって反応したもん。嬉しい?」

思わず眉をひそめる。

そんなくだらねぇこと言うために、いちいち触んな。

そう思ったけれど……認めたくはないが、少し胸がすっとした。

向こうもオレのこと気にしてるのか。
考えようによっちゃ初対面で喧嘩売られたようなもんだもんな。
なにも言ってこないのは、警戒しているのか。

「何言ってんのか分かんねぇ」

北見が冷ややかに言うと、女子は、すぐに神楽に頼みにいった。笑顔の神楽と話しながら教室を出ていく。
すれ違った瞬間、神楽の視線がこちらに流れてドキリとしたが、

ーー勝手に見りゃいい。

北見は気が付かないフリをした。

意識しているのはお前の方だ。


*  *  *


夜10時過ぎ。北見が塾から帰宅すると、父の愛人がエプロン姿でキッチンに立っていた。

名前はキョーコ。30代半ばすぎ。父と同い年の美人。
物心つく前から家に出入りしていて、北見にとっては母親代わりでもある。
本当の母親は顔も知らない。

「キョーコさん、親父は?」

北見がカバンをソファに置きながら聞くと、キョーコと呼ばれた女は華奢な肩をすくめた。

「取引先のお付き合い。それより、今日肉じゃが作ったから食べて」

「ありがと」

いい匂いにつられて、北見の腹が鳴る。

「んまいね。オレ、キョーコさんの肉じゃが好き」

これはお世辞じゃなくて本心から。

リビングの隅に置かれたオリーブの木の葉が空調で揺れている。
ごはん、肉じゃが、みそ汁の遅い夕食を食べる北見を、キョーコがテーブルに座ってじっと見ている。

「何?」と北見。

「ううん、……学校どう?」

「どしたの、突然」

テストで二位になり、落ち込んでいるとでも思ったのか。案外そんなことはない。過ぎた二位はいい。問題は別にある。

あの、人を苛立たせる男のことだ。

でもそんなことをキョーコに言っても仕方ないと思い直す。この不快感も、わけのわからない焦燥も……伝えることが出来ないのだから。

「神楽」という名前もそうだ。

なんとなく知っていると思ったら、自宅マンション一階の表札が「Kagura」だった。最近越してきたのか、中年の女性がビニールを剥がしているのを見かけた。

ーー神楽は高校に通うのに一度乗り換えると言っていた。この沿線には住んでない。無関係だ。

そう思うのに、胸にひっかかるのが腹立たしい。

キョーコが返事をしない。
北見は箸をとめた。

キョーコを見ると、心配そうな顔で言った。

「なんでもない。玲くん、疲れてるように見えたから。勉強無理しないでね」

「無理はしないよ。限界までコントロールするだけ」

キョーコがふぅ、とため息をつく。長いまつ毛が影を落とす。

「あなた本当にお父さんにそっくり」

「……そうだね」

多分、一番言われたくない言葉。

ーーアイツには絶対ならない。

北見は、苛立ちをつぶすように箸でじゃがいもを押し切った。


*  *  *


キョーコは立ち上がり、キッチンカウンターに置いていた自分のスマホを手に取った。
LINEにメッセージが届いている。

《カバンが届きました! ありがとうございます》

送信元の名前は”神楽涼”。