神楽の家を出て、自宅に着いたのが午後七時過ぎだった。
北見は、玄関に並んだ父の靴に気がついた。喉に綿でも詰められたような息苦しさを覚える。
何の用だろう。
リビングに行くと、父が革張りの一人用ソファに掛けて、ウィスキーを飲んでいた。
サイドテーブルにはナッツの空袋が散らかっている。
「……ただいま。珍しいね」
家で酒を飲むのも、この時間にいるのも。
いなくていいのに、という思いを飲み込み、父に話しかける。
父は機嫌良さげに口元に笑みを浮かべた。
「そうだね。仕事が早く終わった」
俯き加減で答えてナッツをつまむ。
父は最近テレビに出るようになった。
経営者サイドのコメンテーターとして呼ばれているが、結局30代後半の若さで選ばれた客寄せパンダだ。
自分にとっては恐怖の対象でしかない父も利用されているのだと思うと、少し胸がすっとする。
先日あった討論番組では、世襲不要論を語っていた。
人間を駒のように扱う主張に吐き気がした。
父はナッツを口に放り込む。カリッと噛んでから、北見を見た。
「お前も飲みなさい」
「いや…」
あ!
あ!!
北見は、自分の口から出た言葉に驚愕した。
言えた!言った!!
まさか、自分が父の命令を拒絶するとは。
父は機嫌が良さそうだった。
それから、父を利用する人間のことを考えていたから、一瞬恐怖が薄まっていた。
酒を勧められたのは初めてで、驚いて反射的に言葉が出たのも幸いした。
手のひらに汗がにじむ。
いったん喜んだ後、胸にぐっと恐怖がせりあがってくる。
やっぱりダメか? 罰を受けなければならないのか?
腕を捻りあげられて絶叫した子供の自分。ぞわりと冷たいものが背筋を這い上がる。
オレは今どんな顔をしているんだろう。
北見は、身体を叩く心臓の音に気が付かないふりをする。
まだ大丈夫、まだ大丈夫。
でも、父が腕組みをしたら、終わりだ。
父は、ウィスキーを一口、口にした。
目をグラスに向けて、
「ふぅん」
と言った。
そして、しばらくグラスの中の氷をカランカランと揺らしていたが、それ以上何も言わなかった。
また、歓喜で胸が爆発する。
ふぅん、で済んだ!!成功した!!
「今日は塾じゃないよな?」
父が北見の小さなリュックに目を向ける。
「友達の家に行ってた」
「女の子?」
「うん」
嘘をついた。神楽の家に行ったことは言えない。父と神楽の関係を探ろうとしているのがバレたら、どんな目にあわされるか分からない。
父がくくっと笑った。
「相変わらずだな。まぁ、うまくやれよ。嘘がバレると怖いぞ」
「分かってるよ」
そこで、北見は話を切り上げた。
冷蔵庫からサンドイッチを出して、自室にもどり、一息つく。
やった……! 興奮で胸が高鳴る。
サンドイッチを一口かじり、あてもなく棚の本を見つめる。
これまで、イエス以外の選択肢はなかった。
ただ、最近父が家にいる時間が減り、自由という不可解なものが見えるようになってきた。
手を伸ばせば届くかもしれない、自由。安易に手を伸ばせば踏みにじられる。
でもいま、今、確かに自分は自由に発言した!意思を持って断った!
陰鬱と希望が入り混じる。
北見はしばらく動けずにいたが、スマホにかかってきた迷惑電話の着信音で現実に引き戻された。
ぷつんと切って、慌てて参考書を広げた。
* * *
夜10時を過ぎて、北見はいったん勉強の手をとめた。『神楽くんち』というLINEグループをチェックする。
ーー動きなし、か。
訪問メンバーそれぞれからお礼のメッセージが届いているが、それだけだった。
女子の『また行きたい!』というメッセージは、神楽にスタンプで適当に流されていた。
北見は画像添付ボタンを押した。パエリアが画面いっぱいに写った写真を選ぶ。
ーーたった一枚だけど、十分だろ。
『ちょっとボケてるけど』
一言だけメッセージを入れて送信する。
すると、すぐ三つの既読が付いた。
ピコン
新しいメッセージが上がる。リビングで、パエリアを取り分けている北見の姿。
『いい感じに撮れてるのあるよ!どうぞ♥』
ピコン、ピコン
うまくいった。一枚の写真が呼び水となり、ほかの写真が集まってくる。
あの時、調子に乗ったフリをして女子にたくさん写真を撮らせて正解だった。
リビングでゲームをしている自分と佐藤の写真。背後に段ボールが写っている。
宛名ラベルが剝がされているのはその場で見たが、写真には、側面の剥がし忘れのラベルが写っていた。
あ!と思い、指で拡大する。
伝票の差出人に書かれた文字は、大きくするとボケて小さくすると見えない。ダメか……。
ベランダの写真。置かれている観葉植物に見覚えがある。
オリーブの木だ。最近キョーコが買って家のリビングにも置いてある。枝から金色の丸いタグが下がっている所も同じだ。
北見は画面のスクリーンショットを撮りながら、投稿された写真をローカルに落としていく。
ぽこっとまたメッセージが上がった。
『新婚♥』
メッセージとともに、女子から動画が送られてきた。
サムネイルは包丁を握っている手。白くて綺麗な神楽の手だ。
新婚?
なんの動画だ?
すぐダウンロードするが、Wi-Fiの調子が悪くて時間がかかる。
ようやく終わった、と思ったら、そのタイミングで動画がぱっと削除された。
間に合った!
一瞬でも遅れていたら、手にいれられなかった。
既読が1増えている。
佐藤も女子二人も写真を投稿していたから、増えた既読は、神楽だ。
神楽が確認して、女子に動画を削除させたのかもしれない。
でも、もうダウンロード済だ。
北見は、玄関に並んだ父の靴に気がついた。喉に綿でも詰められたような息苦しさを覚える。
何の用だろう。
リビングに行くと、父が革張りの一人用ソファに掛けて、ウィスキーを飲んでいた。
サイドテーブルにはナッツの空袋が散らかっている。
「……ただいま。珍しいね」
家で酒を飲むのも、この時間にいるのも。
いなくていいのに、という思いを飲み込み、父に話しかける。
父は機嫌良さげに口元に笑みを浮かべた。
「そうだね。仕事が早く終わった」
俯き加減で答えてナッツをつまむ。
父は最近テレビに出るようになった。
経営者サイドのコメンテーターとして呼ばれているが、結局30代後半の若さで選ばれた客寄せパンダだ。
自分にとっては恐怖の対象でしかない父も利用されているのだと思うと、少し胸がすっとする。
先日あった討論番組では、世襲不要論を語っていた。
人間を駒のように扱う主張に吐き気がした。
父はナッツを口に放り込む。カリッと噛んでから、北見を見た。
「お前も飲みなさい」
「いや…」
あ!
あ!!
北見は、自分の口から出た言葉に驚愕した。
言えた!言った!!
まさか、自分が父の命令を拒絶するとは。
父は機嫌が良さそうだった。
それから、父を利用する人間のことを考えていたから、一瞬恐怖が薄まっていた。
酒を勧められたのは初めてで、驚いて反射的に言葉が出たのも幸いした。
手のひらに汗がにじむ。
いったん喜んだ後、胸にぐっと恐怖がせりあがってくる。
やっぱりダメか? 罰を受けなければならないのか?
腕を捻りあげられて絶叫した子供の自分。ぞわりと冷たいものが背筋を這い上がる。
オレは今どんな顔をしているんだろう。
北見は、身体を叩く心臓の音に気が付かないふりをする。
まだ大丈夫、まだ大丈夫。
でも、父が腕組みをしたら、終わりだ。
父は、ウィスキーを一口、口にした。
目をグラスに向けて、
「ふぅん」
と言った。
そして、しばらくグラスの中の氷をカランカランと揺らしていたが、それ以上何も言わなかった。
また、歓喜で胸が爆発する。
ふぅん、で済んだ!!成功した!!
「今日は塾じゃないよな?」
父が北見の小さなリュックに目を向ける。
「友達の家に行ってた」
「女の子?」
「うん」
嘘をついた。神楽の家に行ったことは言えない。父と神楽の関係を探ろうとしているのがバレたら、どんな目にあわされるか分からない。
父がくくっと笑った。
「相変わらずだな。まぁ、うまくやれよ。嘘がバレると怖いぞ」
「分かってるよ」
そこで、北見は話を切り上げた。
冷蔵庫からサンドイッチを出して、自室にもどり、一息つく。
やった……! 興奮で胸が高鳴る。
サンドイッチを一口かじり、あてもなく棚の本を見つめる。
これまで、イエス以外の選択肢はなかった。
ただ、最近父が家にいる時間が減り、自由という不可解なものが見えるようになってきた。
手を伸ばせば届くかもしれない、自由。安易に手を伸ばせば踏みにじられる。
でもいま、今、確かに自分は自由に発言した!意思を持って断った!
陰鬱と希望が入り混じる。
北見はしばらく動けずにいたが、スマホにかかってきた迷惑電話の着信音で現実に引き戻された。
ぷつんと切って、慌てて参考書を広げた。
* * *
夜10時を過ぎて、北見はいったん勉強の手をとめた。『神楽くんち』というLINEグループをチェックする。
ーー動きなし、か。
訪問メンバーそれぞれからお礼のメッセージが届いているが、それだけだった。
女子の『また行きたい!』というメッセージは、神楽にスタンプで適当に流されていた。
北見は画像添付ボタンを押した。パエリアが画面いっぱいに写った写真を選ぶ。
ーーたった一枚だけど、十分だろ。
『ちょっとボケてるけど』
一言だけメッセージを入れて送信する。
すると、すぐ三つの既読が付いた。
ピコン
新しいメッセージが上がる。リビングで、パエリアを取り分けている北見の姿。
『いい感じに撮れてるのあるよ!どうぞ♥』
ピコン、ピコン
うまくいった。一枚の写真が呼び水となり、ほかの写真が集まってくる。
あの時、調子に乗ったフリをして女子にたくさん写真を撮らせて正解だった。
リビングでゲームをしている自分と佐藤の写真。背後に段ボールが写っている。
宛名ラベルが剝がされているのはその場で見たが、写真には、側面の剥がし忘れのラベルが写っていた。
あ!と思い、指で拡大する。
伝票の差出人に書かれた文字は、大きくするとボケて小さくすると見えない。ダメか……。
ベランダの写真。置かれている観葉植物に見覚えがある。
オリーブの木だ。最近キョーコが買って家のリビングにも置いてある。枝から金色の丸いタグが下がっている所も同じだ。
北見は画面のスクリーンショットを撮りながら、投稿された写真をローカルに落としていく。
ぽこっとまたメッセージが上がった。
『新婚♥』
メッセージとともに、女子から動画が送られてきた。
サムネイルは包丁を握っている手。白くて綺麗な神楽の手だ。
新婚?
なんの動画だ?
すぐダウンロードするが、Wi-Fiの調子が悪くて時間がかかる。
ようやく終わった、と思ったら、そのタイミングで動画がぱっと削除された。
間に合った!
一瞬でも遅れていたら、手にいれられなかった。
既読が1増えている。
佐藤も女子二人も写真を投稿していたから、増えた既読は、神楽だ。
神楽が確認して、女子に動画を削除させたのかもしれない。
でも、もうダウンロード済だ。



