泣いたら井戸に入れられた


「涼」

北見と同じ、低くてよく通る声で名前を呼ばれる。
聞いた瞬間、体が硬直する。音のない場所で声だけを強制的に聞かされる感覚。

「今日、仕事じゃなかったの……?」

確か、九州に一週間ほど出張すると……先週そう言っていた。
父は、がっしりした長身を黒いスーツで包んでいた。
ネクタイも黒。喪服姿だった。

きっと、葬儀への参列かなにかで、出張がなくなったんだ。

父は数歩、神楽に近づいた。
神楽は背中を冷たい玄関ドアに押しつけた。動けない。
視線が、父の目とまっすぐぶつかる。
神楽がはっとして目を伏せると、ちょうどネクタイがあった。

「あ、そうそう」

父がネクタイに触れる。

「出張は明日からになったんだよ。急な話でね。今日は取引先の方のご葬儀のお手伝いをさせていただいたんだ。帰りにここを通りかかって、誰もいなかったから……」

軽い調子で言いながら、口元に笑みを浮かべる。

「ずっと部屋で仕事をしていたんだけど。うるさくてかなわなかったよ。友達を呼ぶと知っていたら来なかったのに」

声は穏やかだが、落ち度を確認するような冷たい響きがあった。

「どうして教えてくれなかったの? あやうく玲と鉢合わせするところだったよ」

神楽は咄嗟に言葉を返せない。口を開いたまま黙る。

部屋の中には、まだ友人たちのいた温かい気配が残っている。
けれど額には冷や汗が滲み、頭の中にはぼんやりと白いもやがかかってくる。

「玲には、お前のことも長野のことも思い出してほしくないんだよ」

男の眉が不快そうにひそめられる。

「それなのに親しくして家にまで呼ぶなんて。何からバレるか分からないのに、言いつけを守る気がないとしか思えないね」

ーーそれは、断れなかったから。

神楽の胸をキリキリと後悔が締め付ける。
父と同じ声で言われて、断れるわけがなかった。常に服従を叩き込まれているのだから。

出張と重なっているし、バレないだろう。
北見だって、なんでもかんでも父親に報告するわけじゃない、小学生じゃあるまいし。

そう自分に言い訳をして、現実から目を背けていた。

以前、約束を破った罰として酒を飲まされた。
苦しかった。
きっかけは、授業中に先生が「北見」と呼んだのに、自分がうっかり返事をしたこと。
それを北見がどう父に伝えたのか、父の怒りを買った。

また同じことをされるかもしれない。そう思って黙っていたのにーーバレない可能性に賭けてーーそれが、こんな形でバレるくらいなら言った方がマシだった。
愚かだった。

「なあ、涼」

父の視線が向けられる。神楽は何度も手の平を服にこすり付けて汗をぬぐった。

どこかの家で鳴らされた玄関チャイムが聞こえる。外を走る子供の笑い声。
すぐそこに日常があるのに。

そうだ。

神楽は思いついて、懸命に言った。

「あ…あの、き、北見が、玲さんが、まだそこにいる…かも……」

神楽がドアを後ろ手に指すと、父は、なぜ分からないんだとでも言うようにため息をついた。

「玲はいないよ。オレだったら、ドアに張り付くようなみっともない真似はしない。だから玲もしない。とっくに帰ったんじゃないかな」

「そ……んな…」

父は真顔になった。片手をポケットに入れ、一歩前に出た。
その姿は、人間の形をした絶望だった。


*  *  *


喪服を着た男が、ゆっくりと近づいてくる。
神楽は、必死に自分に言いきかせる。

この世には、死に比するほどの絶望がある。
でも、自分はまだ――恵まれている。

まだ大丈夫。

まだ大丈夫。

明日食べるものがある。
生きていける体も、考える頭もある。
あたたかく迎えてくれる友達もいる。

世の中には、明日の命の心配をしなくてはならない人がいくらでもいる。
日本に生まれて絶望なんて、馬鹿げている。

逃げればいい。
今すぐドアを開けて、走って、どこかへ。

倒れれば誰かが助けてくれる。
病院に運ばれれば安全だ。この狂った世界と遮断される。

きっと友達が迎えに来てくれる。
全部話してしまえばいい。きっと、助けてくれる人が……。

話せるわけがない。
心配させたくない。
一緒に傷ついてほしくない。
それだけじゃない、高校生にもなって反抗すら出来ない情けない自分を、晒したくない。

大事にしたくない。
こんなことで注目は浴びたくない。
家族の中だけの問題なんだ。自分が我慢すればいい。
そうやって、いつも我慢してきたのだから。

男が指輪を外してポケットに入れた。…暴力を振るわれる。

耳のすぐ横で心臓が脈打っている。
目が霞む。

玄関のドアに必死に背中を押しあてる。
でも、逃げ場はどこにもない。
絶望がもう……目の前にいる。

「あ……」

悲鳴を押しつぶした声が漏れる。

男の手が伸び、神楽の頭頂部の髪を掴んだ。そのまま顔を上げさせられる。
のけぞってドアに頭を打ち付ける。逃げられない。

男が口を開いた瞬間ーー


じりりりりりりりりりりり


マンション中に火災警報が鳴り響く。

「火事です、火事です。○棟の非常ボタンが押されました。ただいま火元を確認中です」

ばたばたとマンションのドアの開く音がする。ドンドン、と外からドアを叩かれ、絶望が破られる。

ドアを開けると、時々釣った魚をくれる隣人が神楽の手を引っ張った。

「一応逃げとこ!」

火事の気配は、見る限りどこにもない。
止まらない動悸が、父のせいか、非常ベルの大音量のせいか混乱する。

隣人とその小学生の子供に手を引かれるまま、神楽はマンション中央の広場に移動する。
手のひらにはじっとり汗をかいていた。

広場には、数組の家族が集まっていた。
防災頭巾を被っている子どももいる。帰宅直後にそのまま出てきたのか、ランドセルを背負っている子も。

普段から本番のつもりで避難しているんだ…。
隣人が、

「逃げる練習しとかないとね」 

と、子供を見下ろす。子供はしっかりした声で

「鳴ったら逃げる!」

と、親を見上げて断言した。

鳴ったら逃げる……。
鳴ったら……。

神楽は子供の言葉を反芻する。気がついたら時間が経っていて、広場に一人になっていた。

家に戻ると、もう誰の気配もなかった。ほっとして内鍵を掛ける。
部屋のインターホンに、マンション管理会社からの「火災はありませんでした」というアナウンスが入っていた。

なんだ、いたずらか。

でも、今はとりあえず助かった。絶望は消えた。

ーー父は、今度こそ出張でいなくなる。

神楽は脱力し、ソファにへたり込む。


*  *  *


非常ベルを鳴らした犯人ーー北見は、神楽が部屋に戻っていくのを裏手から見ていた。

非常ベルを鳴らせば、部屋にいた誰かが出てくるかと思い、思い切って動いた。
しかし、神楽しか出てこなかった。

ーーなにか、隠し事の証拠が掴めると思ったが。

人がいると思ったのは勘違いだったのか。それとも、騒動の中で見逃してしまったのか。

いずれにせよ、このまま一晩ここで見張るわけにもいかない。

「……帰るか」

佐藤たちは先に帰らせた。

北見は、スマホをちらっと見て、時間を確かめる。思わず長居してしまった。帰って勉強をしなくては。


*  *  *


北見の父は、マンションの出入り口が見える場所に止めた車の中で、スマホをじっと見つめていた。
スマホの位置情報アプリには、Rei、Ryoの赤い点が表示されていた。

前に二人を別々に会社に呼び出した時に、二つの点が重なったのを見計らってRyoの端末にリモートロックをかけた。
すると、動いていたReiが止まった。

北見の父は、今日は二つに分かれていく赤い点を静かに見守っていた。