泣いたら井戸に入れられた

夜10時過ぎ。
北見が塾から帰宅すると、家の玄関には綺麗に揃えられたパンプスが一足。
見慣れたその靴に安心して家にあがると、キョーコがエプロン姿で夕食を作っていた。

「ただいま。今日も来てくれてたんだ」

クリームシチューの甘い匂いが鼻をくすぐる。それから、香ばしいパンの匂い。

「まっすぐ帰ってきてくれて良かった。ちょうど焼きあがる」

キョーコが大型のオーブンを覗いてパンの焼け具合を確かめる。中には、丸く整形されたフランスパンが9個、隙間なく並んでいた。

北見はカバンをソファに置き、キッチンに行ってオーブンを覗く。

「いい匂い」

言ってから、洗面所に向かった。

あの日以降、キョーコは毎日のように家を訪れるようになった。
出来事について触れることはない。

ーー思い出さなければ忘れられる。

口には出さないけれど、多分キョーコもそう思っている。

そして、最近変わったことがもう一つある。父親不在の時間がこれまでより長くなった。
それは北見にとって好ましい変化で、つかの間の解放感を味わっていた。

キョーコが皿にシチューをよそう。手袋でオーブンから焼きたてのパンを取り出し、皿にのせる。

トレイに二人分の食事を載せて、リビングに運んできた。

「今日はここでテレビ見ながら食べちゃおうよ。熱いから気をつけて。表面は冷めても中は熱い…」

「子供じゃないんだから」

北見は苦笑し、キッチンからミネラルウォーターを持ってきた。

北見とキョーコは向かい合って座る。北見がテレビをつけるとサスペンスドラマをやっていた。
一話だけ見てもストーリーはさっぱり分からないが、キョーコと二人でああでもない、こうでもないと考察をした。

「テスト、良かったね。トップだったんでしょ。頑張ってたもんね。お父さんから聞いた」

キョーコがパンをちぎりながら、北見をねぎらう。
北見は、父に成績を報告したときのことを苦々しく思い出した。

発表当日の夜。書斎に呼び出され、椅子に座る父の前で、立ったまま総合点から各科目の順位、点数まで報告させられた。
まるで独裁者の前の罪人だ。

各科目の「二位」を報告していくときは、父親への恐怖と神楽への屈辱で震える思いだったが、父は「ふぅん」とうすら笑いを浮かべながら、指で机をトントンと叩くだけだった。

同じ高校出身の父は、ただの一度も二位になったことはなかったらしい。神楽のせいで……という気持ちが沸き上がるが、浅ましいと自制する。

しかし、部屋を出た瞬間、とにかく何もされなかったことに安堵した。

「トップと言えばトップだけど。手放しで喜べる感じじゃなかったな。多分、次は二位」

「ああ、その話もチラッと聞いた」

それならと、北見はキョーコに神楽の成績について話をする。
キョーコは黙って聞いていたが「次のことなんて分からないよ」と言った。

「相手の子は体調悪かったのかもしれないけど。じゃあ、玲くんが万全だったかっていうとそうじゃない。だって、玲くんだって、お父さんに携帯取りに行けって走らされたり、いろいろ集中できない事情があったわけでしょ」

「いや、でも」

北見はふと思い出す。
神楽も誰かに呼び出されて、父の会社の前にいた。あれは何だったんだろう。

誰に何の用事で呼び出されたんだろう。

一瞬、点と点がつながった気がして北見はどきっとした。
まさかーー神楽と父に、何か関係が? そんなことあるか?

しくじってはいけない。一発で聞き出さなくてはいけない。

キョーコは、北見が黙ったのに気づかず、続ける。

「いくらでも言い訳していいの。私だって、いつも言い訳してるのよ。最近2キロ太ったのは、玲くんに合わせて食べちゃってるせいだって」

キョーコが茶化すので、北見は笑顔を作った。
タイミングよく、テレビでシチューのCMが流れている。家族で団らん、ホットシチュー。そんなフレーズが二人を包む。

「まあでも、とりあえず親父はやり過ごせて良かったよ。腐っても一位だしな」

「立派!」

「うん。あ、そういえばーー」

北見はさりげなくスマホを手に取った。LINEの履歴から、神楽と写った写真を探す。

ああ、あった。これだ。

キョーコが温かい笑顔で北見を待つ。

ーー大丈夫、何も疑われていない。相手に理論武装する隙を与えるな。

北見は、写真を画面いっぱいに拡大し、キョーコに見せた。

キョーコは目を見開いた。

顔をあげると、北見の人をねじ伏せるような強い視線とぶつかった。ごまかせないと直感する。
持っていたスプーンをそっとテーブルに置く。

北見は凄むような口調で言った。

「キョーコさん、神楽のこと知ってるよね。こないだ親父の会社の前で神楽に会ったんだよ。おかしいだろ。そんな偶然があるか?」

「……」

「嘘はつくな」

キョーコは北見から目が離せない。この迫力は……父親譲りだ。
口を引き結んだまま、口を開ければ真実を吐かされるとばかりに黙って固まっている。

その様子を見て、北見は確信した。
キョーコは神楽を知っている。そして、きっと親父も。

北見の中で情報が繋がり、一つの仮説を導きだす。

神楽の母親は、父の愛人なのかもしれない。

キョーコが神楽を知っていて、それを自分に隠している。
隠すのは、言えない関係だからだ。
父の隠し子…いや、あまりにも似ていない。
キョーコは前に、他の愛人の世話もしていた。もし神楽が愛人の子だったとしたら、辻褄があう。

マンションの一階に入居した『神楽』は神楽の母親で、最近父が不在がちなのはそこに入り浸っているから。
そして、邪魔な子供は外で一人暮らしをさせる……。

北見は神楽の顔を思い出す。
目の大きな整った顔立ち。母親も美しい女だろう。

神楽が父の会社の前にいたのは、父に会うためだったのかもしれない。

ただ、これが正しい場合、父もキョーコも自分に嘘をついていることになる。
二人とも神楽のことを「知らない」と言っていた。
なぜ。父とキョーコがその程度のことを隠すとは思えない。まともな家庭じゃあるまいし。
神楽自身も何も言わない。

とにかく現時点では、すべて推測だ。
日曜には神楽の家に行く。何かわかったら、その時に先を考えよう。

「玲くん……」

キョーコは、黙って思考を巡らせている北見を、不安そうに見つめていた。