泣いたら井戸に入れられた

神楽は後悔に震えていた。

ーーどうしてこんな時に限って財布を忘れてしまったのだろう。

自分を呪いながら、カバンから財布を取り出す北見を見つめる。

「じゃ、千円あれば足りる?」

北見が札に指をかけながら、ちらりとこちらを見る。
神楽は北見の財布を見て、あ、と顔をゆがめる。

財布も揃いなのか。
北見が選んだものをオレにも送り付けてきたのか。あの白いTシャツと同じように。

ブランドものの、レザーの二つ折りの財布。一瞬言葉に詰まると、北見が気づいたように言った。

「それとも一万貸しとく? なんか用あるなら。後で返してくれればいいけど」

「いや、あと帰るだけだから……」

神楽が絞り出すように答えると、北見は「ふぅん」と言って、札を一枚引き抜いて渡してきた。

「ありがとう!」

札を受けとる指がピリ、と痛む。
明るく振るまうのは慣れている。
でも、金を恵んで貰うために頭を下げるのは、いつまでも慣れない。

そんなの、血のつながらない父親の方だけで十分なのに!
なぜコイツからも!

屈辱が胸を締め上げるが、どうにか消化しようと試みる。

別にいいじゃないか。
たまたま会ったクラスメイトから金を借りた。
それだけのことだ。なんでもない。

北見にとっても、たまたま会ったクラスメイトに千円貸しただけのこと。

同じクラスに北見玲がいることを知った後。
父に、北見に自分のことを明かすつもりがあるか聞いた。
すると
「玲は忘れているし、思い出させるつもりもない。お前も北見涼だったことは明かさずーー赤の他人として玲に接しなさい」
と言われた。
まさに望むところだった。

しかし、父の前で、いつも学校で使っているペンケースから“Ryo.Kitami” と刻まれた名入れボールペンを取り出した瞬間、いきなりひっぱたかれた。勢いあまって椅子から転げ落ち、驚きと恐怖で震えが止まらなかった。

そして、気がついた。

「思い出させるつもりもない」の裏の意味は、「思い出すきっかけを作りでもしたら罰を与える」なんだ。それを分からなくちゃいけなかったのに。

神楽は借りた千円を折り、ポケットにしまった。
もう帰ろう。

北見は警備員と少し話してから、ビルの中に入っていく。
神楽はそれを見送ってから、警備員にお礼を言ってビルを後にした。

歩きながら考えていた。

今日、部屋で勉強をしていたらスマホが鳴った。父からだった。
電話を取ると、話があるからすぐ会社に来いと言われた。

何の用かも言わずに呼び出すのはいつものこと。前回は空港、前々回はホテル、その前は出先の事務所。
屈辱極まりないのに、それに応じざるを得ない自分。

だいたいは「封筒買ってきて」とかそんなくだらない用事だ。
いや、本当の用が何かは分かっている。
勝手な呼び出しに応じること自体が用事だ。呼び出しに応じれば、交通費のほかに小遣いとして三千円の現金が貰える。

その金のために、勉強を中断して出てきたのだ。
何人もいる愛人と変わらないじゃないかと自分を嘲笑する。時間とプライドを捧げて金を貰う。

理由は一つ。一人暮らしを始めた月の小遣いは三万円だった。それが、翌月から三千円に減らされた。
三万円なら貯金もできると安心していたが、三千円ではさすがに不可能だ。

だから、どんなに悔しくても呼び出しには応じる。
自由を貯めるために。

神楽は大きな交差点の角で止まった。信号待ちをする大勢の人。長野と違う。

「あの……」と突然制服を着た女子高生二人に声をかけられる。一緒に写真を撮って欲しいと言われ、どうにか笑顔を作って断る。

酷い表情をしているわけじゃない、まだ大丈夫なんだと自分を鼓舞し、青信号で歩き始める。

生活ができないわけじゃない。

自宅に届く荷物には、服、カバンなど必要なものが入っている。
手元の買い物は、スマホでのキャッシュレス決済。オートチャージされるから、金がなくて困ることは基本的にない。

ただし、いつ何を買ったかすべて筒抜けだ。チェックされているかもしれないと思うと、それだけで買い物にためらってしまう。
そして恐ろしいのは、スマホをロックされると一瞬にして詰む。

絶対に、わざとだ。
音も待ち受けも着画も、パスワードまでも全て父の手で設定された自由のないスマホ。

父に遠隔ロックされてSuicaも使えない。
交番に行けば、交通費程度の現金を貸してもらえるとTVで見たのを思い出す。
警備員に交番の場所を聞こうとしたとき、北見が来た。

北見は、父が会社に忘れたスマホを取りにきていたようだった。
父に振り回されているという点では自分と同じで、同情はするが、自分に比べて明らかに自由だ。

「一万貸しとく?」と何も考えずに言える無邪気な傲慢さ。

ロックされたスマホを「見せろ」と勝手に奪い取る。

「遠隔ロックされてんじゃん」とずけずけと踏み込んでくる。

当てつけのように吉井を奪い、奪ったあげくすぐ別れて平然としているのにもーー腹が立つ!!

金を借りるのが、北見じゃなかったら良かった。
なぜこの絶妙なタイミングで現れるのか。

帰りの交通費くらい交番で借りれば良かった。それなのに、たまたま現れたから、つい頼ってしまった。

震えがくるほど悔しい。
それでも……。

ーーそれでも、最後まで明るく振る舞えた!

駅のエスカレーターを上りながら、ポケットの千円札をぐしゃりと握りしめた。
千円の重みが、ポケットになまり玉でもいれたようにずっと残っていた。


*  *  *


北見は父のスマホを持って、書斎の前にいた。
ノックして入る。

デスクに山積みの本。
父が、くるりと椅子のまま振り返り「ありがとう」と綺麗に笑った。

ーー機嫌がいいな。

北見はスマホを渡しながら、世間話を試みる。

「これ取りに行ったとき、会社の前で困ってる奴がいたよ。クラスメイト。誰かと約束してたのに入れないって言って……」

と、伝えた。
父は不思議そうな顔をした。

「クラスメイト? 高校生が会社に?」

「神楽涼っていう転校生」

「ふぅん。知らないな」

父にとって、大したことのない情報だったようだ。
ふと北見は思い当たり、もう一つ伝えた。

「向こうは父さんのこと知ってるかも。北見って名前に妙に反応するし」

会社で待ち合わせをするくらいだから、会社の関係者の身内なのかもしれない。
神楽は明かしそうになかったから、あえて聞きもしなかったが…。

「ーー反応?」

「女子にそう言われただけ。でも、一回、”北見”ってオレが呼ばれたのに返事してたよ」

笑い話のように話すが、顔がこわばる。
父と話していると、緊張して言う必要のないことまで言ってしまう。

北見は自分自身に嫌なものを感じながら、下ろした手で拳を握った。

ーー迎合して媚びているのはオレじゃないか。

小心者にもほどがある。父が興味を持ちそうなことは喜々として報告するくせに。

ーーあの日、どうしてキョーコを痛めつけるようなことをしたんだ!

胸の奥で何度も叫んだのに、口に出すことが出来ない。

父は、何か別のことを考えているようだった。
棚に並んだウィスキーに視線を向けている。

「じゃ」

北見は踵を返す。
父は黙ってその背中を見送る。

「……赤の他人として通すように言ったのに、守れていない」

低い呟きは、ちょうど鳴り始めたドアの開けっ放しの警告音にかき消されて、北見には届かなかった。