《沈んだ記憶 北見玲・5歳》
泣いたら、井戸に入れられた。
暗くて狭い。夏でも冷たい水に、半ズボンの足首まで浸かっている。
遥か上の方に、ぽっかりと円形をしたまばゆい出口が見える。
あんな所まで登れるわけない。
ううん、登らなきゃ。
朽ちかけた石の壁に小さな指をかける。
ふと、丸い光の中に顔が現れた。
井戸の縁に手をかけて、こちらを覗き込んでいる。大きな目をした子……友達?
「たすけて」
叫んだ声が届いたのかは、分からない。
暗い記憶は時間とともに、深い水の中に沈んでいく。
* * *
《12年後 北見玲・17歳》
ざわつく朝の教室。
しゃべっていた生徒たちが慌てて自席に戻っていく。
単語帳をめくっていた北見は、顔をあげて隣の女子に話しかける。
「なに、急に。チャイムまだだよな」
女子は「きゃっ」と言って身を引いた。
「北見くん、きょ、今日もかっこいーね! どきっとした」
「いや、そうじゃなくて」
「転校生来るんだって。だから朝礼、5分前スタート」
ガラガラッ
前の扉から担任が入ってきた。生徒たちは椅子を鳴らしながら姿勢を整える。
県内トップの進学校。2年最初の中間テストが終わったタイミングだった。
ーー転入試験は難易度高いって聞いたことあるけど。
北見はなんとなく興味を持って顔をあげる。
担任の後から、男子生徒が一人入ってくる。
私服の高校だが、前の高校のものらしきジャケットを着ていた。すらっとした歩き姿。
彼が正面を向いて立った瞬間、空気が変わったのが分かった。
もしTVで見ていた芸能人が突然教室に入ってきたらこんな感じになる。そんな雰囲気だった。
きらきらした大きな瞳がとても華やかでーーでも真面目そうで、少し緊張した面持ちをしていた。
「神楽涼です! 初めまして」
にこっと愛嬌のある笑顔を浮かべる。
女子がどよめく。男子も羨望のまなざしを向けている。
明るく話す声は滑舌が良くて聞き取りやすい。
ーー”神楽涼”?
北見は、なにかがひっかかるのを感じた。
昔、どこかで……。
不意に、知らないはずの風景と感情の断片が脳裏に浮かぶ。
古民家。
手首の痛み。
居場所を失う恐怖。
もし負けたらオレは……。
沈んだ記憶は、一瞬浮き上がってまた沈む。
ふと目を落とすと、長袖から覗く手首のアザ。
父につけられたアザだ。
中間テストで学年二位に落ちたのをとがめられた。ただ、たまたまだ。一位に戻すことに不安はない。
……自分より出来る人間が転校でもしてこなければ。
顔をあげると、神楽が話を続けている。
教室のあちこちに視線を配りながら、身振り手振りも交えて笑いまでとっている。
ただの自己紹介だというのに、皆が彼の話をずっと聞きたがっているように見えた。
「……」
北見は神楽にまっすぐに視線を向けた。
だんだん不安が募ってくる。
分からない、思い出したくない、思い出してはいけない。
わけの分からない感情に押しつぶされそうになる。
神楽が自己紹介を締めくくろうとしている。
「それでは、早くみんなと仲良くなれるようにーー」
恐怖に追われるように、手を挙げていた。
「はい」
クラス全員が北見を振り返った。担任も意外そうにこちらを見る。
北見も自分で驚いていた。
こんな感情にまかせた行動をとるなんて。自分が何を言おうとしているのかすら分からなかった。
「北見?」
担任に促されてはっとした。頭を切り替える。
「北見玲です。もっと神楽さんを知りたいです。さっきの授業でやったんですけど…英語で一分間スピーチをお願いします。内容はなんでも」
神楽が驚いたようにこちらを見た。
無茶ぶりだから当然だ。拒否されても仕方ない。
でも、予期した反応とどこか違った。
顔をじっと見られて、すぐに目を反らされる。
ーーどうかしたのか?
違和感を覚えたが、神楽の声にかき消される。
神楽は自己紹介の続きとして、滑らかな英語で、最近姓が変わったばかりで神楽という名前に慣れていないこと、田舎から出てきて、地下鉄の複雑さに驚いていることなどを明るく語った。
出来る、と思った。
英語が話せるからじゃない。話の組み立ても人を惹きつける話し方も、全て。
ゆらっとまた何かが揺らいでいく。
一位じゃなかったら、次の期末テストでまた一位を逃したら……。
負けたら罰。
こいつのせいで。
記憶が過去に引きずられていく。
「じゃ、北見からも一言」
担任に声をかけられ、また現実に引き戻される。
「ようこそ、神楽さん。路線検索ならスマホよりオレのほうが早い。良かったら」
どうにか英語で返した。
「北見くん、マウント取りに行くねぇ。でもいい勝負」
隣の女子に揶揄されて横を向く。
ぎぃ、と椅子を引く音がした。
神楽が前の方の空いた席に腰を下ろしている。後ろ姿を追っている自分に気づき、慌てて視線を戻す。
忘れていた記憶が、水の底で動き始める。
泣いたら、井戸に入れられた。
暗くて狭い。夏でも冷たい水に、半ズボンの足首まで浸かっている。
遥か上の方に、ぽっかりと円形をしたまばゆい出口が見える。
あんな所まで登れるわけない。
ううん、登らなきゃ。
朽ちかけた石の壁に小さな指をかける。
ふと、丸い光の中に顔が現れた。
井戸の縁に手をかけて、こちらを覗き込んでいる。大きな目をした子……友達?
「たすけて」
叫んだ声が届いたのかは、分からない。
暗い記憶は時間とともに、深い水の中に沈んでいく。
* * *
《12年後 北見玲・17歳》
ざわつく朝の教室。
しゃべっていた生徒たちが慌てて自席に戻っていく。
単語帳をめくっていた北見は、顔をあげて隣の女子に話しかける。
「なに、急に。チャイムまだだよな」
女子は「きゃっ」と言って身を引いた。
「北見くん、きょ、今日もかっこいーね! どきっとした」
「いや、そうじゃなくて」
「転校生来るんだって。だから朝礼、5分前スタート」
ガラガラッ
前の扉から担任が入ってきた。生徒たちは椅子を鳴らしながら姿勢を整える。
県内トップの進学校。2年最初の中間テストが終わったタイミングだった。
ーー転入試験は難易度高いって聞いたことあるけど。
北見はなんとなく興味を持って顔をあげる。
担任の後から、男子生徒が一人入ってくる。
私服の高校だが、前の高校のものらしきジャケットを着ていた。すらっとした歩き姿。
彼が正面を向いて立った瞬間、空気が変わったのが分かった。
もしTVで見ていた芸能人が突然教室に入ってきたらこんな感じになる。そんな雰囲気だった。
きらきらした大きな瞳がとても華やかでーーでも真面目そうで、少し緊張した面持ちをしていた。
「神楽涼です! 初めまして」
にこっと愛嬌のある笑顔を浮かべる。
女子がどよめく。男子も羨望のまなざしを向けている。
明るく話す声は滑舌が良くて聞き取りやすい。
ーー”神楽涼”?
北見は、なにかがひっかかるのを感じた。
昔、どこかで……。
不意に、知らないはずの風景と感情の断片が脳裏に浮かぶ。
古民家。
手首の痛み。
居場所を失う恐怖。
もし負けたらオレは……。
沈んだ記憶は、一瞬浮き上がってまた沈む。
ふと目を落とすと、長袖から覗く手首のアザ。
父につけられたアザだ。
中間テストで学年二位に落ちたのをとがめられた。ただ、たまたまだ。一位に戻すことに不安はない。
……自分より出来る人間が転校でもしてこなければ。
顔をあげると、神楽が話を続けている。
教室のあちこちに視線を配りながら、身振り手振りも交えて笑いまでとっている。
ただの自己紹介だというのに、皆が彼の話をずっと聞きたがっているように見えた。
「……」
北見は神楽にまっすぐに視線を向けた。
だんだん不安が募ってくる。
分からない、思い出したくない、思い出してはいけない。
わけの分からない感情に押しつぶされそうになる。
神楽が自己紹介を締めくくろうとしている。
「それでは、早くみんなと仲良くなれるようにーー」
恐怖に追われるように、手を挙げていた。
「はい」
クラス全員が北見を振り返った。担任も意外そうにこちらを見る。
北見も自分で驚いていた。
こんな感情にまかせた行動をとるなんて。自分が何を言おうとしているのかすら分からなかった。
「北見?」
担任に促されてはっとした。頭を切り替える。
「北見玲です。もっと神楽さんを知りたいです。さっきの授業でやったんですけど…英語で一分間スピーチをお願いします。内容はなんでも」
神楽が驚いたようにこちらを見た。
無茶ぶりだから当然だ。拒否されても仕方ない。
でも、予期した反応とどこか違った。
顔をじっと見られて、すぐに目を反らされる。
ーーどうかしたのか?
違和感を覚えたが、神楽の声にかき消される。
神楽は自己紹介の続きとして、滑らかな英語で、最近姓が変わったばかりで神楽という名前に慣れていないこと、田舎から出てきて、地下鉄の複雑さに驚いていることなどを明るく語った。
出来る、と思った。
英語が話せるからじゃない。話の組み立ても人を惹きつける話し方も、全て。
ゆらっとまた何かが揺らいでいく。
一位じゃなかったら、次の期末テストでまた一位を逃したら……。
負けたら罰。
こいつのせいで。
記憶が過去に引きずられていく。
「じゃ、北見からも一言」
担任に声をかけられ、また現実に引き戻される。
「ようこそ、神楽さん。路線検索ならスマホよりオレのほうが早い。良かったら」
どうにか英語で返した。
「北見くん、マウント取りに行くねぇ。でもいい勝負」
隣の女子に揶揄されて横を向く。
ぎぃ、と椅子を引く音がした。
神楽が前の方の空いた席に腰を下ろしている。後ろ姿を追っている自分に気づき、慌てて視線を戻す。
忘れていた記憶が、水の底で動き始める。



