それから、毎日のようにおっさんは予備校に現れるようになった。浪人しかいない朝から。
そしてすれ違うその度に
「お、おはよう。がんばれ」
と目をつけられる。
同期が卒業した中、またここで話しかけられる相手なんてもうできないと思ってた。
昼にラウンジの隅にちょこんと座ってたのを見つけた。
後ろから覗くとノートの上にシャーペンを握った手を乗っけたまま動いてない。
「おっさん、分かんないの?」
片手におにぎりをかじりながら振り向かれた。
「お、来た。そっちはこれ分かるの?」
隣のテーブルにサンドイッチを置く。
椅子に腰掛けて参考書とノートを見比べた。
「……ぁ」
一つ、数字に引っ掛かりがある。
「ここ、もっと違うやつがある。多分習ってるよ」
「え?」
おっさんは指をさした数式を初めて見る何かを見つめるみたいに目で凝視した。
「ここだけの形見てみ」
「あっ」
肩が跳ねた。
そしてようやくペン先が動き出す。
「つまり、こういうことだ」
昼飯を開封しながらノートを見た。
「そ」
その一音だけでおっさんの目は細まる。
「いやぁ、すごいや若者は」
「まぁ浪人だし……」
いつものようにサンドイッチを頬張ると「はむ」という音が聞こえきそうだった。
「それにそれ、高校の序盤でやるようなやつじゃん。小二の九九くらい序盤」
「うんん。そうなんだよね、もうかなり時間経ってるからなぁ」
「今いくつ?」
「え、恥ずかしいな。五十三だけど」
「じゃあ高校卒業してからなら三十五年は勉強してないんだ」
「そう。それにしてはかなり覚えてる方だと思うんだけどね」
「いや、おっさん達の基準は知らんけど」
そう言ってサンドイッチを口に詰め込んだ。
四月下旬、と言っても明日からはもう五月。もうすっかり夜はコートいらずになった。今夜はバイトもなく、ラーメンくらいなら食べて帰る予定。
いつものように校舎の隅のベンチを通りかかった時だった。
「あ、お疲れ」
「おっさんも」
足を止める。
ここにいる時は決まってコーヒーを飲んでた。
「ねぇ、これ見て」
鞄から昼の時の参考書が出てきた。
「さっきのお陰でページが結構進んでさ。ありがとう」
また歯を見せる笑い。
「そ」
隣に腰かけた。
「教えるの上手いんだね。よく教師志望? って言われるんじゃない?」
「それはない。浪人してるし、おっさんが初歩的すぎるだけ。」
「そっかぁ。参ったなあ」
頭をかいて「へへ」と声を漏らす。
「そしたらさ、また分からない時教えてよ」
「いいけど」
知識があってもそんなこと言われたことなかった。
「ねぇ、名前は?」
「え?」
「話しかける時困るから」
「……がく、だけだど。一応上遠野 がく」
「一応って。間違いはないでしょ」
おっさんが口元のしわを深くして笑う。
「おっさんの方は?」
「あれ? 知らない? 戸羽 守って言うんだけど」
「知るわけないじゃん」
「そっか……」
なぜか目を細めてコーヒーをすする。
「ねえ、志望校は?」
「東京の頭いい大学を並べたら出てくるやつのどれか」
「え、東大とか慶應とかってこと?」
「そう……やるからにはそのくらい行かなきゃでしょ。卒業したら仕事もあるし」
気づくと声に力がこもってた。
でもおっさんはそれと反対で目と口が半開きしてる。それから「へえぇ」と気の抜けた声が溢れてった。
「そう言うおっさんは?」
「おっさんはおっさんでも守ですぅ」
わざと頬を膨らます。
その顔に少し口元が綻んだ。
「はいはい。守は?」
「僕はね」
続けて口を開きかけて、でもへの字に閉じる。
「んん、まぁ一言で言えばなんとなくだね」
「なんとなく?」
その言葉になぜか眉が眉間に寄った。
「大学行けなかったからさ、今になってなんか行ってみたいなって思った分けだよこれが」
「そ」
「でも、いやはや、今の予備校にはおじさんがひとりもいないとは思わなかったなぁ」
「浮いてたでしょ?」と太くて短い指が曲線を描いて守をさした。
「まぁ、俺も三年目通ってるけどおじは初めて。背中は丸いし、謎の消しゴム使ってるし」
四月初日の自習室が頭に浮ぶ。
「そうか、がく君は――」
「がくでいいだろ」
「んじゃがくってストイックなんだね」
「そう?」
「ニ年間も頑張ってるじゃん」
「……それは」
素直には頷かない。
「受かるまでがとりあえず今の勝負だし……」
「そう……」
守が缶をゆっくり傾けた。
「じゃ、俺行くから」
そう言って立ち上がる。
「ラーメン食いに行く」
「いいね」
おっさんも食いついて腰を上げた。
「おっ――守も来る?」
「今言いかけたでしょ」
「言ってない」
笑いを堪えた顔を守るから背けて歩き出した。
そしてすれ違うその度に
「お、おはよう。がんばれ」
と目をつけられる。
同期が卒業した中、またここで話しかけられる相手なんてもうできないと思ってた。
昼にラウンジの隅にちょこんと座ってたのを見つけた。
後ろから覗くとノートの上にシャーペンを握った手を乗っけたまま動いてない。
「おっさん、分かんないの?」
片手におにぎりをかじりながら振り向かれた。
「お、来た。そっちはこれ分かるの?」
隣のテーブルにサンドイッチを置く。
椅子に腰掛けて参考書とノートを見比べた。
「……ぁ」
一つ、数字に引っ掛かりがある。
「ここ、もっと違うやつがある。多分習ってるよ」
「え?」
おっさんは指をさした数式を初めて見る何かを見つめるみたいに目で凝視した。
「ここだけの形見てみ」
「あっ」
肩が跳ねた。
そしてようやくペン先が動き出す。
「つまり、こういうことだ」
昼飯を開封しながらノートを見た。
「そ」
その一音だけでおっさんの目は細まる。
「いやぁ、すごいや若者は」
「まぁ浪人だし……」
いつものようにサンドイッチを頬張ると「はむ」という音が聞こえきそうだった。
「それにそれ、高校の序盤でやるようなやつじゃん。小二の九九くらい序盤」
「うんん。そうなんだよね、もうかなり時間経ってるからなぁ」
「今いくつ?」
「え、恥ずかしいな。五十三だけど」
「じゃあ高校卒業してからなら三十五年は勉強してないんだ」
「そう。それにしてはかなり覚えてる方だと思うんだけどね」
「いや、おっさん達の基準は知らんけど」
そう言ってサンドイッチを口に詰め込んだ。
四月下旬、と言っても明日からはもう五月。もうすっかり夜はコートいらずになった。今夜はバイトもなく、ラーメンくらいなら食べて帰る予定。
いつものように校舎の隅のベンチを通りかかった時だった。
「あ、お疲れ」
「おっさんも」
足を止める。
ここにいる時は決まってコーヒーを飲んでた。
「ねぇ、これ見て」
鞄から昼の時の参考書が出てきた。
「さっきのお陰でページが結構進んでさ。ありがとう」
また歯を見せる笑い。
「そ」
隣に腰かけた。
「教えるの上手いんだね。よく教師志望? って言われるんじゃない?」
「それはない。浪人してるし、おっさんが初歩的すぎるだけ。」
「そっかぁ。参ったなあ」
頭をかいて「へへ」と声を漏らす。
「そしたらさ、また分からない時教えてよ」
「いいけど」
知識があってもそんなこと言われたことなかった。
「ねぇ、名前は?」
「え?」
「話しかける時困るから」
「……がく、だけだど。一応上遠野 がく」
「一応って。間違いはないでしょ」
おっさんが口元のしわを深くして笑う。
「おっさんの方は?」
「あれ? 知らない? 戸羽 守って言うんだけど」
「知るわけないじゃん」
「そっか……」
なぜか目を細めてコーヒーをすする。
「ねえ、志望校は?」
「東京の頭いい大学を並べたら出てくるやつのどれか」
「え、東大とか慶應とかってこと?」
「そう……やるからにはそのくらい行かなきゃでしょ。卒業したら仕事もあるし」
気づくと声に力がこもってた。
でもおっさんはそれと反対で目と口が半開きしてる。それから「へえぇ」と気の抜けた声が溢れてった。
「そう言うおっさんは?」
「おっさんはおっさんでも守ですぅ」
わざと頬を膨らます。
その顔に少し口元が綻んだ。
「はいはい。守は?」
「僕はね」
続けて口を開きかけて、でもへの字に閉じる。
「んん、まぁ一言で言えばなんとなくだね」
「なんとなく?」
その言葉になぜか眉が眉間に寄った。
「大学行けなかったからさ、今になってなんか行ってみたいなって思った分けだよこれが」
「そ」
「でも、いやはや、今の予備校にはおじさんがひとりもいないとは思わなかったなぁ」
「浮いてたでしょ?」と太くて短い指が曲線を描いて守をさした。
「まぁ、俺も三年目通ってるけどおじは初めて。背中は丸いし、謎の消しゴム使ってるし」
四月初日の自習室が頭に浮ぶ。
「そうか、がく君は――」
「がくでいいだろ」
「んじゃがくってストイックなんだね」
「そう?」
「ニ年間も頑張ってるじゃん」
「……それは」
素直には頷かない。
「受かるまでがとりあえず今の勝負だし……」
「そう……」
守が缶をゆっくり傾けた。
「じゃ、俺行くから」
そう言って立ち上がる。
「ラーメン食いに行く」
「いいね」
おっさんも食いついて腰を上げた。
「おっ――守も来る?」
「今言いかけたでしょ」
「言ってない」
笑いを堪えた顔を守るから背けて歩き出した。

