Mint condition

 真っ暗な廊下。逸木さんのブーツ、わたしのサンダルも迷わない。

「くさっ」
「そう? どんな?」
「甘ったるくて、なんか青臭い? 商品、仕入れた?」
 古着は持ち主の残り香が消えるまで風通ししたり、クリーニングする。店に近付くと独特の臭いが強くなる。
「そんなとこ」
 鍵は開いていて、中に誰かいるのに気付く。よく見えないので目を凝らす。
「え? はあ?」
 うつ伏せで床に倒れているのが確認できると、足が固まった。その人に覚えがあって。

「美和子さん?」
「大丈夫、寝てるだけ」
「み、美和子さんですよね?」
 返事はない、倒れたまま。
「つけなくていい! つけないで」
 照明のスイッチに手を伸ばすのを止められ、ビクつく。グジュグジュと鼻を拭う音が聞こえた。
「……泣いてるの?」
 言いながらも耳に残っている「俺を逃がしてくれるのか?」が、光景と結びついていく。
 もう一度目を凝らすと呼吸を探る。あぁ、生きている。規則的に身体が浮かんでは、沈む。そのリズムに合わせ、わたしの心が凪いだ。
 ちょっと期待してたのかもしれない。

「通報しとく? 寝てるだけだけど」
「ほんと?」
「ウソ」
 窓辺の影が揺れた。逸木さんは救急車を呼ぶとは言わない。
「お願いがある」
 美和子さんに殴られ、仕方なくこうしたんだと、争った形跡のない店内を背景にして伝えてくる。
「これ、翠がやったことにしてくれない?」
 そして、店番よろしくのテンションで言う。
「ダメ?」
 形の良い頭を傾げ、付け加える
「……は? 罪を擦り付ける気?」
「だって、俺のためにガールズバーで働こうとしてくれたじゃん?」
 ドア前から動けないでいた。
 わたしの気持ちはガールズバーで働こうとした時点で新品じゃなくなり、店に並べられてしまう状態になったんだって。

「泣いてる?」
 今度はわたしが聞かれる番。
「呆れてる! 普通、こんなこと頼む?」
「普通じゃねぇし」
「それはまぁ」
「わ、翠が冷たい。泣いちゃおう、えーん」
「いい大人がやめなよ」
「翠は子どもだもんな」
「子ども扱いもやめて!」
 大声を出そうと美和子さんは起きない。そんなに深く眠っているのか? それとも? 

「翠を女性として見ることはできない、ごめん」
「勝手にフるの、やめてくれないかな?」
「翠はやめて、やめてばっかり。でも、他の女にはしてあげないこと、翠にならされてもいいよ。交換条件にしようか」
 ゆっくり歩み寄り、わたしの前で舌を出す。
「ひはぁにひぃあす、いへていいほ」
 小さな箱を投げてきた。ピアッサー。
 無意識でそれをお金を扱うみたいに受け取っていた。両手を添えて。
「これから俺とキスする女はさ、翠が開けたピアスをずっと感じるんだ。凄くない?」
「キモい」
「そこは翠も大人になったら分かるかも。んで、どうする?」
 わたしは首を横に振る。

「警察もバカじゃない。翠が俺を庇ってるの、すぐ分かるさ」
「なら身代わりの意味、なくない?」
「んー、逃げる楽しみはある」
「……ほんと、どうかしてない?」
「髪は伸びるが、穴は塞がらないんだぞ」
「だから?」
「忘れないよ、翠のこと」
 だけど、どうかしているのはわたしも一緒。いい加減なことばかり吐く舌へピアスを打ち込むのが、閻魔様へ舌を差し出す儀式に思えてきた。
 穴は塞がらない。
 手の中でピアッサーが軋む。

「やりたくなってきたか?」
「その前に美和子さん」
「あっ、2階に置いてくるか」
 お姫様抱っこされる美和子さんの手足は垂れ下がるが、それでもキレイ。良い夢を見てそう。
 そして、起きた時にはもう逸木さんはいなくなっている。

「ベッドで寝かす?」
「いや、ソファー。同じ布団はイヤだろ?」
「イヤ」
「了解」
 要求があっさり通り、八重歯がはみ出す。
 この牙じゃ、逸木さんへのなんで? どうしてを砕けない。疑問を塊のまま、ゴクンッ、飲み込む。
■
「本当にいいの?」
 腰掛けた逸木さんと向き合う。美和子さんを運ぶついでに歯を磨いたんだろう、ミントの香りがする。

「明かりつけた方が」
「逆に見えるから怖いんだよ。手、貸して」
 手首を掴み、強張った指先を力で解くと、そのまま口の中へ突っ込もうとした。
「ちょっ、待ってってば!」
「なんで翠が緊張するんだよ。鏡、取って」
 2階から持ってきた手鏡。たぶん、逸木さんのじゃない。
 腰が引けたわたしを茶化しつつ、舌の表面を拭き取ってマジックで印を付ける。バツ印。

「開けた後、暫くしてから痛むみたい。腫れちゃうらしい」
「へぇ」
「1週間くらい食べられなくなるかもって」
「ダイエットになるじゃん。最近、腹が出てきたし丁度いいわ」
 お腹を叩けばバックルが鳴った。お気に入りのデニムとベルトはさっきまで身に着けていなかったし、床のボストンバッグといい、ピアスを空けたらさっさと出ていくつもりだ。

「やめとく?」
「……やる」
「そうこなくっちゃ」
 改めて、べーッ、舌を出す。手袋なんかないので、それを器具を持たない方で摘む。
 逸木さんの舌は生温かい、柔らかい。ヌメヌメしてて。
「このふぇんで」
 マーキングした中央を示す。ネットで軽く検索したら、舌にピアスを開ける場合は病院での処置を推奨。個人で行えば感染症を引き起こす危険、出血のリスクもあるそう。

「みほぇり?」
 ピアッサーを当てた状態で止める。押し込めば穴が開く、当たり前だけど。
 深呼吸。
「みーー」
「喋らないで!」
 唾液がダラダラこぼれ、こちらへ伝う。不思議と気持ち悪いと感じない。
 わたしは逸木さんを見た。逸木さんもわたしを見ていた。
 指先へ力をこめ、目をつむる。開けていても閉じても暗さは変わらないって気がつき、もう怖がらなくてもいいんだ。

 バッチンッ!
 貫通の衝撃だけが、確かだった。