Mint condition

 レストランから駅前まで徒歩で移動。背後から、自分へ向けられるとは思っていなかった声がする。

「ちょっとお話いいですか?」
 深呼吸し、振り向く。
「あちゃー高校生か。キミの?」
 こちらの苛立ちよりも早く、ガッカリした反応が返ってきた。指差しされた日傘の縁は波を打つように尖って、フリルがついている。
「買ってもらった?」
「はい?」
「パパとか?」
 パパの響きに血が通っていない。金髪の男はわたしの周りをぐるりとまわる。

「なんなんですか?」
「スカウト」
 俳優やモデルの、じゃない。正解は。
「そこの、ガールズバー」
 開店を祝う花輪が並ぶ店先にはピンクの看板。いかにも、そういう感じ。
 繁華街への立ち入りは昼間であっても禁止されている。陽が落ちれば、校則なんて通用しない世界。
「とりあえず」
 面倒そうにスマホを出してきた。SNSのIDを教えろと言っている。

「お金、欲しいんでしょ? 顔とスタイルは悪くないし」
「い、いや、そういうのは」
「いらないの? 金」
「いらなーー」
 傘の持ち手を握り直す。
「欲しい、には、欲しいけど」
 行き交う人たちは、わたしと金髪のやりとりを避けていく。
「未成年なんで」
「だから? むしろ、いいじゃん」
 画面をスワイプしつつ、百貨店の紙袋を下げる女性へ意識を向ける。スカウトは花から花へ移る習性だ。

「夜、初めて?」
 正直に眉を動かしてしまう。
「女の子が手っ取り早く稼ぐなら最適解とは聞いた」
「彼氏が言った?」
「彼氏じゃないし!」
「なるほどね」
 再び、わたしを値踏みする。顔を背けようとしたが、男は屈んで傘の内側へ。
「イッーてしてみて」
「ちょっ、近い!」
「いいから、イッー」
 急かされ、キッと八重歯がはみ出した。

「八重歯ちゃんで登録しとこ。それ、需要あるんだ」
 IDくらいなら、ゆるめたガードをやぶられてしまう。わたしの手元からスマホを抜く。
 連絡先を交換したら雑に投げ返し、先ほどの女性を追い掛けた。
 ミーン、ミーン、ミーン。
 蝉の鳴き声がサイレンと重なる。
■
 洗面台にチューブを押し当て、残り少ない歯磨き粉を絞り出す。

「歯磨き粉なくなりそう」
「ハサミで切れば、まだ使える」
 お風呂の残り湯で洗濯しようとする母を横目に、歯ブラシをくわえる。
「お父さんが入ったお湯で洗われたくないんだけど?」
「じゃあ、自分でやりなさい」
 返事はしないで、シャカシャカ音を立てた。

「色々と切り詰めないと。あなたを大学に出してやれないの」
 ひとりで納得し、柔軟剤の量をケチる。首にかけたタオルが硬い理由だ。
 洗濯機を稼働すると寄りかかり、わたしを見つめてきた。
「最近、きれいになったわね。好きな男の子、できた?」
「聞いてどうするわけ? もっときれいになりたいから矯正させてとか言うよ?」
「またその話」
 母は眉間を揉む。
「翠がずっと歯並びを気にしているの、お父さんだって分かってる」
「……」
「そんな顔、しないで」
 曇った鏡に向け、うがいする。
 ペッ、ペッ、数回に分けて吐き出す様を見守られる中、スマホを確認した。

 新着メッセージが1件。
 【八重歯ちゃん向け案件】
 タップしたら歯磨き粉の味が消える。

「お母さん、これっていくらだと思う?」
 母の鼻先へ人差し指を1本、突き付けてみた。
「えぇ?」
「直感で!」
「そうねぇ、100万円かしら?」
「……100万」
「翠?」
「もう寝る」
 洗面所を出て、冷蔵庫を漁っている父を素通り。勢いよくベッドへ滑り込む。
 布団に包まり、スマホをもう一度確認する。

「これなら逸木さんを」
 呟きかけて、頭を振った。
■
「えー、もう差し入れないの?」
「書き出してみたら意外に高くって」
 お小遣い帳アプリに数字を打ち込み、頷く。
 焼肉での食あたりを機に甘いものを持ち込むのをやめ、その分を貯めることにした。

「あと、夏休み中はなるべくお店を開けて」
「勤労意欲が爆発してない? 俺が寝込んでる間に意識改革?」
 どうせ美和子さんから聞いてるくせに、とは言わない。
「逸木さんも改革すれば?」
 病み上がりの身体をストレッチすると、おヘソのピアスがちらり。
「俺まで頑張って繁盛させちゃったら、もうひとり雇わなきゃいけないぞ? いいのか?」
 あくびを噛んで襟足を掻く。

「俺と翠でのんびりやろうぜって意味で言った。ミルクティー、飲む?」
「ゲロ甘くして」
「仰せのままに」
 昨日はあまり眠れなかった。目を擦ったらぼやけて歪む。

「冷たいやつにしたぞ」
 氷がいっぱい入ったミルクティーは、常温で保管してあったペットボトルのもの。逸木さんはグラスへ移す手間を惜しまない。洗うのはわたしだけど。
「ストローは? ないか」
「引き出し開けてみ」
「なんでこんな場所に? てか、短くない?」
 剥き出しのストローが文房具みたく収納されていて。
 丸い穴を通して店内を覗く。
「消毒」
 衛生面を気にする素振りに、逸木さんは反対の切り口から息を吹きかける。
 タバコの臭い。妙に甘い。
「いや、ならないでしょ!」
「文句言うなら飲むな」
「飲む!」
「あはは、素直でよろしい」
 グラスを抱えるわたしは笑われた。
 甘すぎるミルクティーを丁寧にひとくち、ふたくち。
「ゆっくり召し上がれ」
 逸木さんの声は心地いい、眠くなりそう。
「ダメ! 早く飲んで、開店しないと!」
「作戦失敗か」
 たるんだ空気を入れ替えるため、窓を開けた。

「あれ?」
 今、電柱の影に誰かが隠れたような……まさか、あの女性?
「カブトムシでもいたか?」
「よく見えなかった。ヘビかも?」
 頭の中に真っ黒のヘビのタトゥーが浮かぶ。
「ヘビ? そりゃあ、危ない! 閉めろ、閉めろ」
 言うなり、カーテンまで閉めてしまった。
 薄暗くなることでタバコの臭いを意識し、逸木さんを見上げられない。
「へっくしょん!」
 床に伸びた影が鼻を拭う。
「まだ治ってない?」
「鼻風邪だろ、それとも噂されてるのかも」
「誰に?」
 冷たい声が出てしまう。と、逸木さんが覗き込んでくる。
「なるほど! リップ塗ってるからストローを使いたかったんだ?」
 顔のパーツをくしゃり、中央へ寄せた。
「似合ってるよ、翠」