Mint condition

 カレーを食べた後、2日間バイトが休みだった。今日は手ぶらで向かう。
 非常階段の脇に見慣れない車が停まっている。少し離れた位置から様子を探り、誰も乗っていない。近付いて覗き込む。
「あら」
 2階の窓から声が降ってくる。
 傾げる女性を見て、自分がどんな顔で見上げているのか察した。

「翠さん?」
 コクンッと頷き、俯く。
「やっぱり! 待ってて、えっと、鍵はーー要くん、どこに置いてあります?」
 少ししてドアが開き、長い黒髪の女性が階段を降りてきた。その足元は逸木さんのサンダルだ。
「昨日、一昨日も来てくれたでしょう? 要くん、食あたりを起こしちゃったみたいで」
「焼肉、で?」
「そうなの! ユッケがいけなかったのかも」
 わたしの前まで来て、両手を合わせる。
「お見舞いのスイーツありがとう! ドアの前にあったの、あなたよね?」
 逸木さんが選びそうもない指輪が、薬指で輝く。
 美和子さんはもっと毒々しい人だと思っていた、思いたかった。

「申し訳ないけど今日もお休みで。良ければお家まで送るわ」
「大丈夫です。図書館で勉強します」
「じゃあ、図書館まで送らせて。スイーツのお礼もしたいし、ランチに付き合ってくれると嬉しいんだけど?」
 カールしたまつ毛が瞬く。そうしてお願いすれば何でも叶ってきたお姫様みたい。
「いや、ほんとに」
「ちなみに私がオーナー。業務命令って魔法を使えるの」
 ーー魔女でもある。

「決まり!」
 合わせたままの手をパンッと叩き、会話を打ち切ってしまう。
「履き替えてくるわね」
 裾を上げ、サンダルがよく確認できるようにする。
「あっ、私が美和子。要くんから聞いてる?」
 美和子さんにつられ、視線を2階へ向ける。
 すると、こちらを窺う逸木さんがいた。

 囚われたお姫様みたいに、虚ろな顔をしていた。
■
「どこ行く? リクエストある?」
「特には」
 言いながらミラーを見る。免許のないわたしでも、美和子さんの運転が不慣れなのは分かった。それでもクラクションを鳴らされないのは、高級車だからだろうか。
 革張りの助手席、色々な意味で縮こまってしまう。

「好きな食べ物は?」
「……パッとは浮かばないです」
「そう? 詳しそうなのに。残念」
 交差点では大きく膨らんで、右折。
「近くに知り合いの店があるの。そこにしましょう」
 そもそも図書館と反対方向を走行し、目的地は決まっていた。
「もう、また赤信号」
 ハンドルを叩く仕草と口調にはズレがある。
「飛ばしちゃお!」
 踏み込むアクセルの衝撃にシートベルトを握り締めた。

 数分走ると知り合いの店がどこか判明する。道路脇まで出て、到着を待ち構えている人がいたからだ。

「ここって」
「主人が経営しているの。夜はバーになるんだけどね」
「主人……逸木さん、ですか」
「まさか! 要くんとは」
 バック駐車しながら肩を竦める。お店の人が車の後ろへ回り、オーライ、オーライと声を張り上げた。
「ビジネスパートナーとも、違うかも?」
 後部座席へ置いた荷物を引き寄せる際、鼻先に甘い香りが漂い、とっさに息を止めた。
 運転席のドアはお店の人が開け、エスコートついでにわたしを見付けると美和子さんと顔を見比べる。
「要くんのお店のバイトさんよ」
「そ、そうですよね。似てないなと」
「私もこのくらいの年齢の子がいても、おかしくないか」
 おかしい。もしも美和子さんが授業参観や三者面談などに来たら、確実に浮く。

「翠さん?」
 立ち止まったままのわたしへ振り返る。Tシャツとデニムで入る店構えじゃない。
「貸切にしてあるから大丈夫」
「お祝いだったんですか?」
「お祝い?」
「記念日とか、です」
 顎へ手を添える、美和子さん。
 「ふむ」と吹き出しが付きそうくらい、マンガチックなポーズが様になる。
「翠さんと初めてのランチ記念、どう?」
 後手を組み、傾げてきた。
「どうって言われても」
「私たち、いいお友達になれると思わない?」
 否定する間がなく、笑顔は一段深くなる。

「だって好きな男性のタイプ、似てるじゃない」
■
 美和子さんってお肉が似合う。火が通りきってない、レアが。
 フルコースを食べるのなんて、親戚の結婚式以来。なんならその時よりも豪華だ。
 会員制らしい隠れ家的なレストランは、アンティーク調の内装で狭さを感じさせなかった。
 食事中は会話をしない人なのか、美和子さんは黙々とナイフとフォークを動かす。
 並べられる料理は同じでも、量は美和子さんの方が多くて。

「お口に合わない?」
 駐車場まで迎えに来た男性に尋ねられた。男性は調理も給仕もひとりでやっている。
「その、緊張してしまって。マナーがよく分からないので」
「食べやすいように切ってくる」
 皿を持って、奥へ。
「お行儀が悪いくらいでいいのに」
 口元をナプキンで拭ってもルージュは落ちていない。そんな人に言われても。

「美和子さん、ワインのご用意は? 帰りは僕が運転しますよ」
「この後、要くんの様子を見に行くから要らないわ」
 ステーキがサイコロ状に切り分けられ、戻ってきた。均等な断片をつついて転がしても、わたしに有利な面は現れない。

「あっ、要くんへお土産持っていこうかしら! 何がいいと思う?」
 肉を刺し損ね、皿の底を引っ掻いてしまう。キィィー、甲高い音が鳴る。
 美和子さんはゆっくり口角をゆるめ、テーブルの上に肘を置くと頬杖した。

「今の、ヒステリックな女の声みたいだった」
「……女子高生に意地悪して、楽しいですか?」
「とっても。翠さん、怒った顔も可愛らしいんですもの」
 にっこり、悪びれない。
「お土産の話、逸木さんをひとりにしてあげるとかは? 具合が悪い時はそっとしておいて欲しいと思います」
「そう? 昨夜は並んで映画を観たのだけど。無理させてしまったかも」
 頬杖したまま、もう片方でグラスの縁をなぞる。空気を察して男性が割って入ろうとするも、美和子さんは視線だけで阻止した。

「要くんは私のこと、なんて?」
「そ、それは」
「怒ったり、傷付いたりしないから言ってみて」
 炭酸水をひとくち含む。
「美和子さんとは契約だって、言ってました。あ、あの、契約ってどんな?」
「契約は当人同士のもので、翠さんに関係ないでしょ?」
「でも、逸木さん、いつも美和子さんに呼び出されて」
「口を出したいなら、お金、払ってくれるかな?」
 逸木さんとお金で繋がっていることも悪びれない。

「違約金ってやつよ」
 この人を少しでも後ろめたくさせたい、可能なら傷つけたい、そういう気持ちが炭酸の泡と一緒に浮かび上がる。

「いくらですか?」
「ん?」
「いくら払えば、逸木さんを解放してくれるんですか?」
「もう! 解放って、人聞きが悪くない?」
 美和子さんは吹き出そうになって、堪えた拍子に舌を出す。すでにイタズラが成功したくらいのリアクションだ。
「だから、いくらーー」
 腰を上げたわたしへ、人差し指を突き付けた。
「これで。1本、よ?」
「……分かりました」
 これ以上、ここには居たくない。デザートが出る前に帰ろうとする。

「待って」
「自分で帰れますので」
「違うの、日傘を持っていって」
 テーブル下の鞄を取ろうと潜ったら、美和子さんの踵が前髪を掠めた。
「差し上げるわ」
 美和子さんの荷物はクロークで保管してあり、持ってこさせると日傘を取り出す。
 あえて照明を落とす空間に傘の花を咲かせ、クルクル回しながら渡される。

「紫外線対策しておかないと。大人になって後悔するから」
 むんずっと傘を奪い、無言でレストランを後にした。料理の味なんて微塵も残らない。代わりにまぶたの裏にべっとり、美和子さんの笑顔が張り付く。