「彼氏」「旦那」「パートナー」という呼び方じゃ出せない生っぽさが「人の男」という表現にはあって。
逸木要は「人の男」だった。
■
店へは裏手の非常階段を使って向かう。カンカンカンッ、わざと足音を立ててアピールすると2階の窓が開いた。
「スカートの中身が見えるぞ、女子高生」
歯ブラシをくわえた逸木さんが、セミの鳴き声が降る空を仰ぐ。
「ドーナツ買ってきた! 一緒に食べよう」
手すりから乗り出し、紙袋をかざす。
「開店前から並んで買ったの」
「歯、磨いてるんだが?」
「また磨けばいいじゃん、朝ごはん食べてないでしょ? お店で待ってる」
1階はインドカレー屋、2階が居住スペース。
「ほら、落とすなよ」
手を伸ばすと鍵が投げられた。目印の「さるぼぼ」を小指に引っかけ、3階の古着屋へ。
「ねぇ」
「あ?」
「昨日は美和子さんと、その」
室内へ続くドアノブが熱い。
「あー、まー、するでしょ。そういう契約だし」
「……そっか」
窓を閉めるより早く、中に入った。
締め切った室内は薄暗い、蒸す。
clauseの案内板をそのままに踏み入れ、カーテンを開ける。
ガラスに映るのは成瀬翠「17歳」、ニィーッと口角を上げたら八重歯が飛び出た。
「なにしてるの?」
気配をさせず、逸木さんがやってくる。両手にマグカップを持ち、肘で照明を付けた。
「早く矯正したいなって」
「100万くらいだっけ? うちのバイト代じゃ焼け石に水でしょ。駅前に出来た店、募集してたぞ」
甘すぎるミルクティーへ口をつけると縁に歯がぶつかり、カチン。
「あそこ、ガールズバーじゃん」
「女の子が手っ取り早く稼ぐなら最適解じゃない? ドーナツ、いただきます」
ドクロが付いた指輪をはめた手を合わせ、大きく頬張る。もぐもぐ口を動かしつつ、開店準備を始めた。
とはいえ、店を開けるかどうかは逸木さんの気分次第だ。バイトのわたしだって、朝ここへ来るまで今日営業するのか知らない。
「翠、食べないの?」
「あげる。ダイエットしてる」
「へー、ゲロ甘くしてあるミルクティーは飲むのに?」
「ゲロとか言わないで」
「はいはい、じゃ遠慮なく」
袋ごと手に取り、廊下へ。非常階段で一服するつもりだろう。
その間にパソコンを起動して、レジの準備。
釣り銭をセットしたらモップ掛けだ。
逸木さんが仕入れた商品は、数百円のものから数万円まで。誰かにとってはガラクタで、誰かにとっては宝物になる。
でも、わたしには違いが分からない。正直、他人のお古って抵抗ある。
かがんで陳列棚の下までホコリを取り除く際、何か引っ掛かった。
ーーネイルチップ、真っ赤な。
「んー、でも今から仕事なんですよー」
逸木さんが戻ってきて、わたしの手元を見た。通話しつつ、寄越してと合図する。
「そこは、まぁ。美和子さんに面倒見てもらってる店ですからねー」
窓を開け、チップを投げ捨ててしまう。
思わず声を出しそうになると、逸木さんは唇の前で人差し指を立てる。
「もちろん1番です、美和子さんが」
■
店を開けて一時間経った。まだ誰も来ない。
「ヒマ」
「課題、持ってきてないの?」
「持ってきたけど。バイト中だし」
逸木さんはモニターをこちらへ向ける。オンラインで麻雀をやっているみたいだ。
「楽しい? それ」
「仕事よりは、ね。店長が許可してるんだから、やりなよ。それとも翠は最終日にやるタイプ?」
ゲームに戻って、マウスを鳴らす。
「みんなに写させてあげるタイプ。逸木さんは、写しもしなそう」
カチカチ。
「俺の分まで写しておいてくれる子がいたしねー」
カチカチ。
実は前もって、カウンターの引き出しに本を入れてある。読書感想文は課題の中で一番苦手。
背表紙を撫でていると、逸木さんが顔をあげた。
「おっ、安部公房じゃん」
「知ってるの?」
「砂の女だろ、俺も読んだなぁ」
基本ニコニコしているからか、興味を持って笑った時が分かりやすい。目鼻がクシャッと中央へ寄るんだ。
「……意外。どんな内容か、覚えてる?」
カチッ、マウスが止まった。
「閉じ込められた男が、逃げられるのに逃げなくなる話」
表情はそのままなのに、お腹の底に響く低い返事をされ、思わず本から手を離してしまう。
「ほら、お客さん来た」
勢いよくドアが開き、男性が屈んで入店する。
「いらっしゃい、今日は頭をぶつけないで良かった」
「……あの子は?」
サングラス越しの視線でも、わたしを緊張させるには充分だ。
「バイトの女子高生」
逸木さんが見上げながら会話する相手は全身黒尽くめで、いらっしゃいませを飲み込ませる。
「バイトなんか雇う余裕あるのかよ」
そして、鼻声。
「お陰様で、君のような上客がついてるから。待ってて、取ってくる」
二人きりにされる展開となり、引っ込んだ挨拶を吐き出す。
「い、いらっしゃいませ!」
出来るだけ明るく。
「客じゃねぇよ」
「そう言われてしまうと……」
気まずい。鼻を啜る音が響く。
「逸木さん、何を取りに行ったんでしょうね?」
「お前に関係ないだろ」
「す、すみません!」
両手をおへその前で組むと俯いた。逸木さんから接客マナーを教わっていない、というか指導する気はないだろう。
動画で学んだ謝罪の構えで、ひたすら時が過ぎるのを待つ。
「……こんなところで働くの、止めた方がいいぞ」
それまでこもった声だったのが、忠告はクリア。
「どういう意味ですか? 確かに時給はあんまり良くないですけど――」
「あのな」
はあ、大きなため息で発言を切られる。
「そんな言い訳する時点でおかしくなってるんだぜ?」
視界の隅に砂の女が見えた。
「まあ、俺もだけど」
男性はそれ以上は続けず、逸木さんから荷物を受け取ると他に何も買わなかった。
■
バイトから帰れば、母が夕飯を盛り付けようとするタイミング。カバンを置く間もなくプレートを渡された。
流し台の上に半額シールが貼られたお惣菜が並ぶ。
「お父さんのはサラダを多めに盛っておいて。健康診断で引っかかったらしいの」
「また? お酒やめたらいいじゃん」
菜箸でつつくレタスはしなびれてる。
「図書館、混んでたでしょう?」
ミニトマトを添えるよう、こちらの様子を聞いてきた。
「そこそこ。からあげは?」
「お父さんがみっつ、翠がふたつ」
「わたしは1個でいい」
「翠はダイエットしなくていいのよ?」
「昼にドーナツ食べちゃて、お腹空いてないの」
母ら朝の残りの味噌汁を温め、おたまでかき集める。鍋底をこそぐ横顔は冴えない。
「メイクしないの?」
「……お母さんにそんな暇あると思う? お椀、取って」
すぐさま食器棚に移動し、息を吐く。
母と美和子さんは同年代らしい。でも隣にいるのがメタボと逸木さん、比べるまでもなかった。
「おう、やっと帰ってきたか! 高校生は気楽でいいな」
父がスボンの中に手を入れ、ガリガリ掻きながらキッチンへやってくる。
「お父さん! 翠は図書館で勉強してたんですよ? うちでやると電気代かかるからって」
「はっ、こちとら市民税払ってるんだ。有効活用しないとな」
着席し、顎でビールを催促。
冷蔵庫の最前列で冷やされた缶を、小指を立てた仕草で開ける。
なぜか小指の爪だけ伸ばしていて、先が黒ずむ。
「健康診断で引っかかったんでしょ?」
「翠もな、働くようになれば分かるさ」
「……何が?」
「仕事の後の一杯が最高にうまいって」
両親に古着屋でバイトしているのを話してない、話すつもりもない。反対されるのが分かっている。
親の同意がなくとも働けるのが、逸木さんの店しかなかったんだ。
ビールは味わうというより流し込まれていく。
「ちょっと翠?」
「部屋で食べるね」
乱暴にプレートを寄せ、背を向けた。からあげが仕切りを越え、サラダゾーンへ。
それを人差し指で弾き返す。
「あなた、翠も年頃ですし。上着をきてください」
「下は履いてるんだからいいだろうが!」
ドアを閉めた。
逸木要は「人の男」だった。
■
店へは裏手の非常階段を使って向かう。カンカンカンッ、わざと足音を立ててアピールすると2階の窓が開いた。
「スカートの中身が見えるぞ、女子高生」
歯ブラシをくわえた逸木さんが、セミの鳴き声が降る空を仰ぐ。
「ドーナツ買ってきた! 一緒に食べよう」
手すりから乗り出し、紙袋をかざす。
「開店前から並んで買ったの」
「歯、磨いてるんだが?」
「また磨けばいいじゃん、朝ごはん食べてないでしょ? お店で待ってる」
1階はインドカレー屋、2階が居住スペース。
「ほら、落とすなよ」
手を伸ばすと鍵が投げられた。目印の「さるぼぼ」を小指に引っかけ、3階の古着屋へ。
「ねぇ」
「あ?」
「昨日は美和子さんと、その」
室内へ続くドアノブが熱い。
「あー、まー、するでしょ。そういう契約だし」
「……そっか」
窓を閉めるより早く、中に入った。
締め切った室内は薄暗い、蒸す。
clauseの案内板をそのままに踏み入れ、カーテンを開ける。
ガラスに映るのは成瀬翠「17歳」、ニィーッと口角を上げたら八重歯が飛び出た。
「なにしてるの?」
気配をさせず、逸木さんがやってくる。両手にマグカップを持ち、肘で照明を付けた。
「早く矯正したいなって」
「100万くらいだっけ? うちのバイト代じゃ焼け石に水でしょ。駅前に出来た店、募集してたぞ」
甘すぎるミルクティーへ口をつけると縁に歯がぶつかり、カチン。
「あそこ、ガールズバーじゃん」
「女の子が手っ取り早く稼ぐなら最適解じゃない? ドーナツ、いただきます」
ドクロが付いた指輪をはめた手を合わせ、大きく頬張る。もぐもぐ口を動かしつつ、開店準備を始めた。
とはいえ、店を開けるかどうかは逸木さんの気分次第だ。バイトのわたしだって、朝ここへ来るまで今日営業するのか知らない。
「翠、食べないの?」
「あげる。ダイエットしてる」
「へー、ゲロ甘くしてあるミルクティーは飲むのに?」
「ゲロとか言わないで」
「はいはい、じゃ遠慮なく」
袋ごと手に取り、廊下へ。非常階段で一服するつもりだろう。
その間にパソコンを起動して、レジの準備。
釣り銭をセットしたらモップ掛けだ。
逸木さんが仕入れた商品は、数百円のものから数万円まで。誰かにとってはガラクタで、誰かにとっては宝物になる。
でも、わたしには違いが分からない。正直、他人のお古って抵抗ある。
かがんで陳列棚の下までホコリを取り除く際、何か引っ掛かった。
ーーネイルチップ、真っ赤な。
「んー、でも今から仕事なんですよー」
逸木さんが戻ってきて、わたしの手元を見た。通話しつつ、寄越してと合図する。
「そこは、まぁ。美和子さんに面倒見てもらってる店ですからねー」
窓を開け、チップを投げ捨ててしまう。
思わず声を出しそうになると、逸木さんは唇の前で人差し指を立てる。
「もちろん1番です、美和子さんが」
■
店を開けて一時間経った。まだ誰も来ない。
「ヒマ」
「課題、持ってきてないの?」
「持ってきたけど。バイト中だし」
逸木さんはモニターをこちらへ向ける。オンラインで麻雀をやっているみたいだ。
「楽しい? それ」
「仕事よりは、ね。店長が許可してるんだから、やりなよ。それとも翠は最終日にやるタイプ?」
ゲームに戻って、マウスを鳴らす。
「みんなに写させてあげるタイプ。逸木さんは、写しもしなそう」
カチカチ。
「俺の分まで写しておいてくれる子がいたしねー」
カチカチ。
実は前もって、カウンターの引き出しに本を入れてある。読書感想文は課題の中で一番苦手。
背表紙を撫でていると、逸木さんが顔をあげた。
「おっ、安部公房じゃん」
「知ってるの?」
「砂の女だろ、俺も読んだなぁ」
基本ニコニコしているからか、興味を持って笑った時が分かりやすい。目鼻がクシャッと中央へ寄るんだ。
「……意外。どんな内容か、覚えてる?」
カチッ、マウスが止まった。
「閉じ込められた男が、逃げられるのに逃げなくなる話」
表情はそのままなのに、お腹の底に響く低い返事をされ、思わず本から手を離してしまう。
「ほら、お客さん来た」
勢いよくドアが開き、男性が屈んで入店する。
「いらっしゃい、今日は頭をぶつけないで良かった」
「……あの子は?」
サングラス越しの視線でも、わたしを緊張させるには充分だ。
「バイトの女子高生」
逸木さんが見上げながら会話する相手は全身黒尽くめで、いらっしゃいませを飲み込ませる。
「バイトなんか雇う余裕あるのかよ」
そして、鼻声。
「お陰様で、君のような上客がついてるから。待ってて、取ってくる」
二人きりにされる展開となり、引っ込んだ挨拶を吐き出す。
「い、いらっしゃいませ!」
出来るだけ明るく。
「客じゃねぇよ」
「そう言われてしまうと……」
気まずい。鼻を啜る音が響く。
「逸木さん、何を取りに行ったんでしょうね?」
「お前に関係ないだろ」
「す、すみません!」
両手をおへその前で組むと俯いた。逸木さんから接客マナーを教わっていない、というか指導する気はないだろう。
動画で学んだ謝罪の構えで、ひたすら時が過ぎるのを待つ。
「……こんなところで働くの、止めた方がいいぞ」
それまでこもった声だったのが、忠告はクリア。
「どういう意味ですか? 確かに時給はあんまり良くないですけど――」
「あのな」
はあ、大きなため息で発言を切られる。
「そんな言い訳する時点でおかしくなってるんだぜ?」
視界の隅に砂の女が見えた。
「まあ、俺もだけど」
男性はそれ以上は続けず、逸木さんから荷物を受け取ると他に何も買わなかった。
■
バイトから帰れば、母が夕飯を盛り付けようとするタイミング。カバンを置く間もなくプレートを渡された。
流し台の上に半額シールが貼られたお惣菜が並ぶ。
「お父さんのはサラダを多めに盛っておいて。健康診断で引っかかったらしいの」
「また? お酒やめたらいいじゃん」
菜箸でつつくレタスはしなびれてる。
「図書館、混んでたでしょう?」
ミニトマトを添えるよう、こちらの様子を聞いてきた。
「そこそこ。からあげは?」
「お父さんがみっつ、翠がふたつ」
「わたしは1個でいい」
「翠はダイエットしなくていいのよ?」
「昼にドーナツ食べちゃて、お腹空いてないの」
母ら朝の残りの味噌汁を温め、おたまでかき集める。鍋底をこそぐ横顔は冴えない。
「メイクしないの?」
「……お母さんにそんな暇あると思う? お椀、取って」
すぐさま食器棚に移動し、息を吐く。
母と美和子さんは同年代らしい。でも隣にいるのがメタボと逸木さん、比べるまでもなかった。
「おう、やっと帰ってきたか! 高校生は気楽でいいな」
父がスボンの中に手を入れ、ガリガリ掻きながらキッチンへやってくる。
「お父さん! 翠は図書館で勉強してたんですよ? うちでやると電気代かかるからって」
「はっ、こちとら市民税払ってるんだ。有効活用しないとな」
着席し、顎でビールを催促。
冷蔵庫の最前列で冷やされた缶を、小指を立てた仕草で開ける。
なぜか小指の爪だけ伸ばしていて、先が黒ずむ。
「健康診断で引っかかったんでしょ?」
「翠もな、働くようになれば分かるさ」
「……何が?」
「仕事の後の一杯が最高にうまいって」
両親に古着屋でバイトしているのを話してない、話すつもりもない。反対されるのが分かっている。
親の同意がなくとも働けるのが、逸木さんの店しかなかったんだ。
ビールは味わうというより流し込まれていく。
「ちょっと翠?」
「部屋で食べるね」
乱暴にプレートを寄せ、背を向けた。からあげが仕切りを越え、サラダゾーンへ。
それを人差し指で弾き返す。
「あなた、翠も年頃ですし。上着をきてください」
「下は履いてるんだからいいだろうが!」
ドアを閉めた。

